第千二百一話 新たなる始まりを(十三)
オベロンは、ただ、見ていた。
流人が狂ったように叫び、喚く様を。その全身から噴出する星神力の輝きを。膨大化する魔素質量がオベロンの宇宙による圧迫を撥ね除けながら渦を巻き、小さな、しかし凶悪無比な暴風圏を形成していく光景を。
(これは……)
オベロンには、しかし、一体なにが起きているのか理解することはできなかった。想像は、できる。もはや満身創痍、絶体絶命の窮地に陥った流人が、自暴自棄になったか、起死回生の賭けに打って出たか、そのどちらかだ。そして、そのいずれにせよ、全身全霊の力を発揮しているのだ。
それが、小さな嵐を呼んだ。
風など存在しない、オベロンの宇宙に。
夜の王の腹の中、なにものも力を失っていくだけの夏の夜の夢の一時に。
すべてを掻き乱し、混沌を生み出すかの如き勢いで、力が膨張し続けている。
(あり得ない)
オベロンは、否定する。
現実に流人の身に起きている事象を目の当たりにしながらも、否定せざるを得ないのだ。
それを認めるということは、人間の可能性を認めるということだ。人間が幻魔に対抗しうる可能性。人間が幻魔に匹敵しうる可能性。たかが人間風情が、鬼級幻魔と対等になれる可能性――。
「そんなことはあってはならない。決して。断じて」
オベロンは、告げ、宇宙を圧縮した。流人が生み出し始めた暴風圏そのものを包み込み、そのすべてを押し潰し、虚無へと消し去ろうというのだ。
どれだけ星神力が輝きを増し、力を膨れ上がらせようとも、総量はこちらのほうが遥かに上だ。そしてここはオベロンの宇宙。オベロンの星域の中なのだ。本領を発揮できるのは、オベロンだけ。人間如きがオベロンの力に抗しうるはずもなく、事実、暴風圏が小さくなっていく様を見て、彼は安堵した。
そして、苦笑する。
少々、予期せぬことが起きて、動揺してしまっていたようだ。そのためにせずともいいことをしてしまった。
宇宙の圧縮。
宇宙そのものが急速に小さくなっていけば、全周囲から莫大な星神力が一点に集中していくということであり、その一点にいる流人は、為す術もなく滅び去るしかない。暴風圏が壊れ、星神力の防壁も崩れゆく。それでも流人の星神力の暴走は、止まらない。
星が、煌めく。
『希望? 絶望なのに?』
「うん。希望だったな。ぼくには才能がなかったから、才能に満ち溢れたあなたを見ているだけで、なんだか強くなれた気がしたんだ」
『気のせいだろ』
「ううん。気のせいなんかじゃなかったさ」
迫りくる死の奔流の只中で、流人は、脳内に響く幻聴との会話を続けていた。もはや正気などではなかった。狂気の中に意識があって、故に現実が見えていなかったのかもしれない。オベロンの宇宙の圧力に全身が悲鳴を上げ、皮膚という皮膚が裂け、骨という骨に亀裂が走っていく。体中から血が溢れても、このオベロンの宇宙に散乱することはない。その場に留まり、流人の星神力に混ざって、輝く。
まるで星のようだ。
紅い星。
死を象徴する星のように輝くそれらを目の当たりにして、流人は、自分の死を悟った。
「気のせいなんかじゃなかったんだよ」
叫んだつもりが、響かなかった。宇宙が流人の声を吸い上げているのかもしれないし、喉が潰れたのかもしれない。導衣の痛覚遮断機能は、導衣が原型を失ってもなお、そう簡単に壊れるものではない。だからこそ、意識を保つことができている。もし、痛覚が正常ならば、発狂していたか、ショック死していたに違いない。
いや、既に発狂している。
いるはずのない流天の声が、流人の脳内で謳い続けているのだ。
「ぼくは……おれは……自分は……、兄さん、あなたになろうとしたんだ。あなたになって、あなたがやるべきはずだった役割を代わりにやっていただけで、本当は」
流人は、もはや自分がなにをいっているのか理解できなくなっていた。ただ、意味もなく言葉を羅列しているに過ぎないのだが、それが真言となって彼の魔法を発動させ続けている。
なぜならば、想像が巡っているからだ。
いまや狂乱の中でのたうち回っている脳内で、彼の莫大な経験に基づく無数の想像が銀河の星々のように煌めき、燃え盛っていた。
魔法は、想像の具現。
想像力こそが、魔法の根源。
そして、星神力は、どのような魔法も遥かに強力なものにしてしまう。
流人が無意識に連発する魔法が、宇宙の圧縮への数少ない対抗手段となって、辛くも彼の肉体の原型を留めさせていた。だが、それもいまや無駄になりつつある。
宇宙の圧縮が加速しているのだ。
星々の煌めきが、死の星の輝きが、血潮が、流人に目を見開かせる。
『馬鹿な奴。おれは、死んだんだぞ。自分の才能に酔ってな。おまえは、そんな馬鹿とは違うだろ。自分の能力に向き合い、自分自身を磨き上げ、鍛え抜いてきた。研鑽と鍛錬は、嘘を吐かない。いまのおまえが、それを証明している。おまえは、良くやった。本当に良くやったよ』
「……ああ、そうか。そういうことか」
流人は、脳内に響き渡った兄の声を拾い上げ、ようやく自分が狂気の中にいることを理解した。命が、叫んでいる。脳が、死を間近に感じ取り、故に逃避させようとしていたのではないか。それが、兄の声となって、流人を狂気で包み込んだ。
正気のまま死ぬよりも、狂気に溺れて死んだほうが、幾分かは増しかもしれないからだ。
そしてなにより、流人が、ずっと兄を求めていたからに違いない。
「その言葉が聞きたかったんだな」
きっと、そうだ。
流人は、確信する。兄の声の幻聴に導き出された結論こそ、ずっと、聞きたかった言葉なのだ。
兄に褒められたかった。兄に認めて欲しかった。ただ、それだけのことだ。それだけのことで、ここまでやってこられたのだ。そうであれば、上出来ではないか。ほかに目的意識などはなく、ただそれだけのためだった。いつか死んで、兄の魂と対面したときに褒めて欲しかったから、認めて欲しかったから、死にたくなかったのだ。
死ぬまでに、なにかを成し遂げたかった。兄に認められるような、胸を張って逢いに行けるような、そんな功績をひとつでも残したかった。
だが、もはやそれは適わない。
宇宙が迫っている。
オベロンの宇宙。
流人を押し包むようにして全周囲から加速度的に圧縮し続けるそれは、星神力を全力で放出してもどうなるものでもなかった。ここは、オベロンの星域。星象現界の結界なのだ。支配者はオベロンであり、流人は部外者に過ぎない。星域の法に支配され、能力を発揮できないのだ。
しかし、それでも、流人は、諦めなかった。
網膜の内側に星が瞬いていた。二重に輝く星がなにを意味するのか、流人は理解する。正気と狂気の狭間にあって、それがなんなのか完璧に把握できたのは、どういう理屈なのか。
理屈など、考えるだけ無駄なのだろう。
流人は、無意識に手を伸ばしていた。瞳の中の星に向かって伸ばした手は、天へと掲げられ、圧縮する宇宙の彼方のオベロンへと向けられた。オベロンの顔は、死そのものだ。死が、嗤っている。
「これが、きっと、星象現界の神髄――」
流人の声を掻き消したのは、宇宙ではなく、音の風。流人の〈星〉が生み出す旋律が、ずたぼろの全身を包み込んだかと思うと、音そのものとなった。
つぎの音が鳴った瞬間、流人の姿はオベロンの視界から消えていて、なにかが眼前を貫くのを感じた。極めて破壊的な星神力の波動。余波が、オベロンの顔面に亀裂を走らせる。
「これは――」
オベロンが反応したのも束の間、破滅の音が鳴り響き、宇宙の圧縮が止まった。それは、宇宙の中心から外へ向かって鳴り響く旋律であり、不協和音であり、混沌そのものだった。
オベロンの宇宙が崩壊していく。
オベロンは、流人を睨み、その姿の変化を見て取って、目を細めた。
流人が翡翠に輝く星装を纏っていたのだ。