第千二百話 新たなる始まりを(十二)
星が、瞬いている。
いや、宇宙だ。
宇宙が、君臨している。
神流は、照彦とともにそれを目の当たりにし、慄然としていた。
星象現界・銃神戦域の狭間に、それは突如として出現した。
オベロンの翅が極度に膨大化したかと思うと、小さな宇宙を星域の中に具象したのである。そしてそれは、超高速で突貫してきた流人を飲み込むと、さらにもう一段階大きくなった。遥か上天にあるべきはずの銀河が、眼の前に展開したのである。
かと思えば、神風音楽堂が消滅し、銃神戦域だけが残った。
星域の消滅。それが意味するところは――。
「そのような可能性は、考えたくもありませんが……」
神流は、頭を振りつつ、小さな宇宙への攻撃を開始した。オベロンも、宇宙に飲まれ、姿を消している。しかし、オベロンの星象現界の能力であろう宇宙は、厳然としてそこに存在しているのだ。鬼級幻魔の誇る膨大な魔素質量が織りなす、絶対的なまでの星神力が、その重力場を見せつけているのである。
つまり、オベロンは、生きている。
では、流人はどうなったのか。
「導衣からの通信が途絶えているということは、あの宇宙のようなものが異空間に繋がっていると考えるべきではないでしょうか」
「それで正しいかと。そして、あれは、あの宇宙のようなものは、外部からの干渉を全く受け付けない」
「ええ」
神流の銃神戦域による集中砲火も、照彦の銀河守護神《G・ガーディアン》による全力攻撃も、宇宙としか形容しようのない異空間にはまったく通用していなかった。弾かれるでもなく、ただ吸い込まれるのだ。無数の銃弾が、数多の砲弾が、宇宙に飲まれ、消えていく。光の巨人の剣すらも、宇宙に触れた瞬間に消えて失せた。拳を叩き込めば、指から順番に消滅していったため、それ以上の攻撃はできなかった。銀河守護神の復元には、星神力の消耗が伴う。
これでわかったのは、外部から干渉しようとすれば最後、消滅させられてしまうということだ。
だが、流人は、消滅してはいない。宇宙に取り込まれただけだ。
いまは、そう信じ、流人の無事の帰還を祈るしかなかった。
それが限りなく困難なのだとしても。
「流人……!」
力強く、しかし小さくつぶやいたのは、一色雪乃。彼女の目は、宇宙に消えた流人を追い続けていた。
「人間は、儚いものですね。腕や足を千切られた時点で、満身創痍、そして絶体絶命の窮地になってしまう。もはや、あなたの命数は尽き果てた。いま、あなたが考えていることを当てて見せましょうか?」
「随分と、饒舌だな」
流人は、流星群と光芒が止んだことに気付いたが、警戒を怠らなかった。この星域全体がオベロンの視界であり、五感の中なのだ。まさに手のひらの上。やることなすことオベロンに筒抜けであり、逃げ場などあろうはずもない。
全速力で飛び続けても、宇宙の果てには届かないだろうし、脱出できるとは考えにくい。
オベロンの言うとおりだ。
絶体絶命の窮地。
死が、流人の全身に絡みついていて、離れない。慈しむように、愛おしむように、あらゆる感覚を刺激し続けている。それは神経を逆撫でにするかの如くであり、激情を呼び起こすかのようでもある。だが、耐える。
痛覚を遮断しているから痛みは感じないが、それが逆に致命的な可能性もある。痛みを感じないが故に、自分の置かれている状況を完璧には把握できないからだ。
(見ればわかるが)
右手右足を失ったのだ。導衣が瞬時に止血し、失血死だけは避けられたものの、それで状況が良化するようなことはない。ありえない。断じて。
魔法で手足を復元できるのであればまだしも、それほど高度な治癒魔法の使い手は、そうはいない。ここまでの損傷を回復しきることができるのは、それこそ、妻鹿愛くらいではないか。
「あなたは、どのように戦えばいかに美しく散ることができるのか、導士の、星将の死に様とはどうあるべきか、そのようなことばかり考えている。違いますか?」
「……違うな」
「ふむ? 死に様を飾り立てるのが、戦団の美学ではないのですか? そううかがったのですがね」
「それはある意味では正しいよ。実際、そういう考え方をする導士も少なくない」
「あなたは、違う、と」
「自分は異端だからな」
「異端……ですか」
オベロンが、少しばかり興味深げな反応を示したので、流人は、渋い顔をした。オベロンが人間に対する好奇心を隠そうとしないのは、最初からだった。オトロシャに操られていようとも、オベロンの性格や本質は変わらないのだろう。
かつて、魔天創世以前、オベロンの周囲に大勢の人間がいたという。人間に興味を持つ鬼級幻魔というのは、希少だが、存在しないわけではない。いくつかの記録がある。
オベロンも、そんな例外的な幻魔の一体だった。
ただそれだけのことだ。
そして、それだけのことが、この窮地を突破する唯一の道筋になりえるのではないか。
「自分は、死にたくない」
「ふむ……しかし、それは人間ならば当然の考えではありませんか? 人間は、死を恐れるものです。寿命短き生物が半端に知性を獲得した結果ですし、当然の、道理としかいいようのないこと。戦団は、どうやらそうした考えを否定し、導士たちを死地に追い遣ることに意味を見出しているようですが」
「……そうでもしなければ、人類復興など夢のまた夢だからな。残された人類だけを護り続けるだけでも無理難題だというのに、人類の領土を広げようとすれば、命も軽くなるものさ」
「それでも、あなたは死にたくない、と」
「ああ。死にたくない。死にたくなんてないさ」
だれだってそうだ、と、流人は、ひとりつぶやいた。自身を取り巻く宇宙が、オベロンの意識が、流人の五感をすり潰すかのように圧迫してくる。強迫的で、破壊的な力の奔流。この星域そのものが圧縮すれば、それだけで流人の命は終わる。いや、既に命数は尽きている。
時間を稼いでいる段階に過ぎない。
(なんのために?)
自問する。
『死ぬための時間稼ぎなら、やめておけよ』
不意に、脳裏に声が響いた。強く、優しく、ひどく懐かしい声だった。
思わず顔を上げると、そこにオベロンの顔が浮かんでいた。妖精王の名に相応しい美貌。赤黒く輝く双眸が、さながらふたつの太陽のようであり、このオベロン宇宙を照らす光源に見えた。いや、事実、そうなのかもしれない。オベロンの両目から放たれるのは、太陽光線。この宇宙の果てまで貫く、巨大な光。
『これは、偉大な先輩からの忠告だ』
「はっ」
流人は、脳内を流れる幻聴を鼻で笑うと、大きく後方へと移動した。頭上から降ってきた光芒が、直前まで流人のいた座標を貫く。宇宙。上下もなければ左右もない。方向感覚が狂うのは当然だったし、四方八方から殺到する攻撃を避け続けているうちに自分の現在地を見失うのは道理だった。
それが、この宇宙の目論見かもしれない。
取り込んだ敵のあらゆる感覚を狂わせ、奪い、最後には完全に失わせるのだ。そして、消し滅ぼす。
「なにが先輩だよ」
「うん?」
オベロンには、流人の発言の意図がわからない。ただ、この宇宙空間を逃げ惑う星将の姿は、あまりにも不格好で、滑稽ですらあるというだけのことだ。しかし、速度が上がり続けていて、オベロンの攻撃が掠りもしなくなっている。
掠れば、それだけで致命傷になるというのに。
「あなたは、自分の才能に酔い痴れて、身勝手に死んでいっただけじゃないか」
『そうだよ。だから、いってるんだろ、流人。おれは、死んでしまった。なにも為せず、なにも残せず、なにもできないまま、ただ、死んだ。無駄に、無意味に、無様にな』
「……そこまではいってない」
叫び、流人は、飛ぶ。全身全霊、あらん限りの星神力を解き放ち、加速する。この宇宙全体、ありとあらゆる方向、角度から迫り来る無数の光芒、数多の流星を間一髪のところで躱し続けながら、オベロンを目指している。
遥か頭上。
太陽の如く君臨する妖精王の顔へ。
「兄さん、あなたは天才だった。正真正銘の天才だったんだよ。自分の憧れで、夢で、希望だった。絶望だったけれど、希望でもあったんだよ」
流人の独白は、宇宙に響くことはない。無慈悲に散逸し、消滅していくだけだ。
散乱する光が、乱舞する流星が、宇宙全体を掻き混ぜ、攪拌しているからだ。
宇宙全体が、原初の混沌そのもののように蠢いていた。