第千百九十三話 新たなる始まりを(五)
オベロン。
鬼級幻魔に区分される魔素質量の持ち主である彼は、妖精王の名に恥じぬ幻想的な美しさを誇るだけでなく、想像上の妖精そのものたる幻魔たちを率いている。
いまや昔、幻魔戦国時代が開幕した当初、妖精王と名乗るとともに〈殻〉を開き、領土拡大に全力を尽くしていた。が、オトロシャとの戦いに敗れ去り、頭を垂れた。滅びるよりも、生き残り、つぎの機会を窺うことにしたのだ。死ねば、それまで。つぎの機会など、永久に訪れない。
故に、なんとしてでも生にしがみついたのである。
無論、それをオトロシャが受け入れるかどうかが問題だったが、そもそも、既にトールを支配下にいれていることがわかっており、勝算はあったのだ。
そして、彼は、オトロシャの配下となり、すぐさま腹心となった。妖魔将を拝命し、恐府南部の広大な土地を任されるようになるまで、時間はかからなかった。
この勢いに乗じて、幻魔戦国時代に覇を唱えるべきだ――などという彼の想いは、しかし、オトロシャが突如、動かなくなったことでついぞ叶えられることはなくなってしまった。それ以降、オトロシャからの命令は、専守防衛のみ。つまり、恐府に迫り来る外敵を打ち払うことだけだったからだ。
それが何十年も続けば、時間の概念から開放された幻魔であろうとも、倦むというものだ。
なにせ、地球全土の、魔界の一統を目標としていたはずなのだから。
その道が突如として途絶えれば、困惑もするし、疑問も沸き上がる。
だが、腹心たちに、オトロシャに進言する権利はない。オトロシャの命令に唯々諾々《いいだくだく》と従う以外の道はなかったのだ。それができないのであれば、臣従を誓うべきではなかった。殻印を受け入れるべきではなかった。己の主であることを辞めるべきではなかった。
だからこそ、彼は、動いた。
リリスのバビロンが滅び去り、そこに人類の楽土が築かれたことがわかり、人類が鬼級幻魔をも陵駕しうる力を手に入れたらしいということが判明したのだ。これを利用しない手はない。
人類を利用し、オトロシャを滅ぼす。
そうすれば、オベロンは、再び自由を得る。みずからを主とし、思い通りに飛び回ることができるようになるのだ。
人類を滅ぼすのは、それからでいい。
まずは、枷となってしまったオトロシャを滅ぼすことから始めなければならない。そのためには、下等生物である人間にどれだけ下手に出ようとも、問題はない。
自尊心など、オトロシャに降った時点で消え失せている――。
「だが、それもいまや昔。過去のものと消え失せた。いまやわたしは、妖魔将。恐王オトロシャが三魔将の一にして、黒き夜を告げるものなり」
オベロンは、上空から黒禍の森を見渡し、累々《るいるい》たる死体を見定めていた。人間の、導士の死体。
戦団は、ここのところ、飽きることなく恐府に攻め込んできていた。散発的に、断続的に繰り返される戦闘は、両軍にわずかばかりの損害を与える程度のものに過ぎず、本格的な戦いと呼べるようなものは起きなかった。
両軍ともに本腰を入れていないからだ。
理屈は、単純。
戦団が本腰を入れて恐府を攻撃するには、戦力が圧倒的に足りず、故に、オトロシャ軍も総力を上げて動く理由がない。そこまでせずとも撃退できたし、撃退するまでもなく撤退することがわかっているからだ。
では、なぜ、戦団がこうも攻め寄せてくるのかといえば、オトロシャだ。
オトロシャを恐府に釘付けにすることだけが、戦団の攻撃の目的なのだ。
オトロシャが目覚め、動き出した。そして、央都制圧を当面の目標としていることが明らかになったのだ。戦団も、動かざるを得ない。
元より恐府制圧が戦団の目標だったとはいえ、それは、オトロシャが動かないからこそ、という事実があったからなのは間違いあるまい。オトロシャが動かず、オベロンが内通していた状況は、戦団にとって千載一遇の好機だった。トール、クシナダを各個撃破し、オトロシャ軍の戦力を削りきり、その上でオトロシャに総力戦を挑む。そうすれば、勝ちの目もでようというものだろう。
だからこその恐府侵攻作戦だった。
だが、そうした戦団の目論見は、潰えた。
いまや戦団最大の敵として、オトロシャが存在感を発揮しているのだ。
故に、戦団は、絶え間なく、戦力を恐府に送り込んできている。
そして、オボロンが、それら戦力の無事に帰る様を見届けていたのが、これまでだ。
いまは、違う。
導士たちの死体が黒禍の森の結晶樹に取り込まれ、一体化していく様を見届けると、オベロンは、翅を広げた。黄金色の鱗粉を撒き散らしながら羽撃き、前方へ。
南下。
黒禍の森と空白地帯の境界付近で、魔素が膨れ上がっていた。大量にして高密度、高濃度の魔素。ひとはそれを魔力という。その急激な収斂と膨張は、魔力をさらなる段階へと昇華する現象そのものだ。
星神力。
「やはり、来たか」
飛び交う魔法を目の当たりにし、オベロンは、冷ややかに告げた。
戦いの火蓋は、切って落とされた。
オベロンによって、大戦の開幕が告げられたのだ。もはや、なにものにも止められない。血の贄が捧げられるまで、この戦いは終わらない。終わりようがない。
そして、勝利するのは、オベロンだ。
相手は、人間。
人間如きに負ける鬼級ではない。
オベロンは、己の中の矛盾を見て見ぬ振りをした。
そして、眼前に導士たちを捉えたとき、彼の周囲には大量の妖級幻魔が沸いた。どこからともなく、突如として、だ。フェアリーやピクシーといった妖精たち。
「その程度の人数で攻め込んでくるとは、戦団も自棄になりましたか?」
「……そうだな」
上空から舞い降りるようにして現れたオベロンと、その鱗粉の中からつぎつぎと出現した妖級幻魔の大軍勢を目の当たりにして、流人は、静かに認めた。確かに、そうかもしれない。これは、自暴自棄に等しい行いかもしれない。
だが、動かなければならなかった。
恐府に差し向けた戦力が全滅したとあらば、放置すれば最後、オトロシャが攻め込んでくる可能性があるのだ。
たとえそれがわずかな可能性なのだとしても、捨て置くわけにはいかない。
オトロシャが央都に踏み込んでくれば最後、致命的な状況になりかねない。
それだけは、断固阻止しなければならなかった。なんとしても、オトロシャを自由にしてはならない。そのためならば、命を賭してもいい。いや、命を賭けるのであれば、いままさに、この瞬間こそだろう。
防壁任務について早々、恐府に攻め込むことになるなどと、彼も彼の部下たちも想像だにしていなかったものの、しかし、状況次第で如何様にも変化するのが任務というものだ。そしてそれが人類存亡に関わるというのであれば、なおさらだ。
彼と百名の部下たちは、だれもが決意と覚悟を持って、この場に臨んでいた。
照彦とその部下たちも、だ。
第一軍団、第十二軍団の混成部隊である。総勢、三百名。そのうち、星将は二名、杖長は四名。戦力としては申し分ないのだが、相手が鬼級であるという一点でのみ、暗雲が立ちこめているというのは、だれもが理解している。
戦場は、恐府南部に広がる黒禍の森。すぐ側に空白地帯との境界線があるが、そんなものはなんの慰めにもならない。窮地に陥ったからといって空白地帯に逃げおおせたところで、追撃が止むはずもないのだ。
敵は、撃滅しなければ、ならない。
敵。
鬼級幻魔オベロン率いる、幻魔の大軍勢。霊級、獣級はいわずもがな、妖級幻魔も大量にいた。ピクシーやフェアリーといった、妖精型とも呼ばれる幻魔たちだ。何百体という妖級幻魔がオベロンの周囲に布陣していて、それだけで美しくも凄まじい迫力だった。
よって、流人と照彦は、同時に星象現界を発動した。
「神風音楽堂」
「銀河守護神《G・ガーディアン》」
流人を中心とする広範囲に星神力の結界・星域が構築されていく中で、照彦の視線の先に爆発的な光が発生した。輪郭を帯びた光が巨人となり、勇ましくも神々しいその姿を見せつければ、さしもの幻魔たちの間にも驚きが広がった。
星神力は、並の幻魔ならば、圧倒する。
無論、オベロンは怯みもしないが。
「素晴らしい」
彼は、素直に賞賛し、同時に哀れに想った。