第千百九十二話 新たなる始まりを(四)
頭上には、群青の空と純白の太陽。視線を移せば、遥か水平線の彼方まで横たわる広大な海が顔を覗かせる。あらゆる生命が絶滅し、果てに黒く淀んだ海は、死そのものを内包しているかのようだ。禍々しく、どす黒い瘴気の渦。しかしそれは、地上も同じなのだ。
水の惑星たる地球は、死の星といっても過言ではない状況だ。
魔天創世によって死に絶えた生物は数知れず、生き残ったのは、幻魔と、わずかばかりの人間たち。結晶樹こそ息づいているものの、あれらを生命と呼ぶのは甚だ難しい。この星を維持するための機能に過ぎないのだから。
赤黒い大地を見下ろせば、群れ集い、軍勢を為して原野を駆ける怪物たちを見つけることができるだろう。
幻魔である。
まさに魔界と化した地球を我が物顔で闊歩し、ときには小競り合いを、あるいは死に物狂いの決戦を繰り広げているのが、それら人外異形の怪物たちだ。
そして、ここ。
ここは、地球と宇宙の狭間に等しい領域。
ロストエデン。
いまや永遠に失われた楽園の名を冠するそれは、かつて人類が叡智を結集して作り上げ、世界に誇った空中都市、その遺構である。もはや人類の忘却の彼方に沈んだはずのその遺跡に群がるのは、光り輝くものたち。
「なればこそ、天使たちの、天軍の拠点に相応しいと思わないか?」
彼の質問は、視線の先ではなく、背後に向けられていた。
視線の先では、大量にして膨大な光が忙しなく動き回っているのがわかる。それら光の正体が天使だということは、目を凝らさずとも理解できるはずだ。
光り輝く衣を纏い、発光する翼を生やし、光の輪を頭上に掲げるものたち。
「……天軍」
「そう、天軍。天に属し、下界の動向を見守り、時と場合によって関与する軍隊。それが我々、天軍だよ」
「下界……」
「地上をそう呼ぶ。まあ、地上の大半はどうでもいいのだけれど」
ルシフェルは、そのように説明しながら、ロストエデンの増改築が加速度的に進んでいく様を眺めていた。
「何事もなく年が明けるものだ――などと思っていたが、どうやら大きな勘違いだったようだな」
ルシフェルの耳に刺さったのは、メタトロンの声だ。そちらに目を向ければ、いつものように大量の指輪で山を作る大天使の姿があった。白銀の熾天使は、相変わらずの仏頂面で、地上から集めてきたのであろう指輪を値踏みするように見つめつつも、一方でルシフェルへの注意を怠らない。
「ああ。わたしも、そう想っていた。だが、どうやら違うようだ。彼らが動いた」
「その結果が、彼か」
メタトロンが見遣ったのは、ルシフェルに続いてロストエデンを見回っていた熾天使である。
空色の頭髪が特徴的な、男性形の天使。容貌は秀麗、目つきは鋭く、すべての天使と同じく蒼白の瞳を持っている。幻魔の特徴である赤黒い眼ではなく、蒼白の眼。
身の丈は百八十センチくらいか。均整の取れた体型で、全身に緑色を基調とする衣を纏っている。翼は六枚、いずれも翡翠のような色合いで、ひたすらに美しい。天使の象徴たる光輪は、首から発生しているように見える。
「そう、彼だ。わたし、ラファエル。ガブリエル、きみ、ウリエルに続く、五体目の熾天使だよ」
「……こちらも戦力が整いつつあるということか」
「そういうことになるが……どうかな、ラファエル。気分は?」
「気分……?」
問われて、ラファエルは、どう答えたらいいものか、迷った。自分がなにものなのかは、わかっている。天使である。それも、熾天使、最高位の天使であり、天軍に属し、下界の、人類の守護者としての使命も理解しているのだ。
頭の中は、透明だった。考えることなどなにもない。確かな使命があり、その使命に殉じればいい。それだけのことだった。
だから、疑問はない。問いかけに対する答えも、ない。
「おれは……なにも」
「ふむ」
「まだ誕生したばかりだろう。自我や個性といったものが現れないのだとしても、不思議じゃない」
「そうだね。逸りすぎたかな」
ルシフェルは、メタトロンの忠告に苦笑して、肩を竦めた。ラファエルは、つい先程、誕生した。
それこそ、地上における大きな戦いの結果である。
戦団の偉大なる導士のひとりが、死んだ。
星将が。
時を、遡る。
年が明けて早々、相馬流人率いる第一軍団は、つぎの任地である第十一、第十二衛星拠点、同大境界防壁拠点への移動を始めていた。
衛星任務は、そのまま、大境界防壁任務へと移行しているが、大境界防壁任務では長すぎるから、防壁任務と省略されることが多い。
防壁任務の内容そのものは、衛星任務と大差ない。
大境界防壁を拠点として行う衛星任務そのものといって過言ではなかったし、導士たちが戸惑うようなことはなかった。衛星拠点以上に堅牢な拠点を中心に活動できる分、安心感が増大していた。
「安心。安心ね」
相馬流人は、地上二十メートル大防壁、護法の長城を見遣り、その巨大さに安堵よりも威圧感を感じながら、防壁拠点へと入ったものだ。
そして、その日は、前任者である第十二軍団の軍団長・竜ヶ丘照彦と話し込んだものだった。
「なにか、注意点はあるかな?」
「あるわけがないでしょう」
流人からの予期せぬ質問に、照彦は苦笑するよりほかなかった。
防壁任務と衛星任務に大きな違いはない。拠点を中心として、周囲を警戒、幻魔を発見次第殲滅するということに変わりはないのだ。
第十一防壁拠点は、葦原市の真東、水穂市の北西に位置している。そして、北にはオトロシャの〈殻〉恐府が君臨しており、その圧倒的といっていい〈殻〉からの圧力に抵抗し続けなければならないというの点も、以前と変わらない。
「あるとすれば、そうですね。恐府への攻撃を続けなければならない、という点でしょうか」
「ああ、そうか」
流人は、胸壁から遥か北方に横たわる巨大な〈殻〉を見遣り、そのどす黒い結晶樹の森に眉根を寄せた。オトロシャの腹心たる妖魔将オベロンが管理する領域は、いままさに、戦団の最前線ともいえる地点となっている。
オトロシャが央都侵攻の意図を明らかにしてからというもの、戦団は、四六時中、恐府への攻撃を止めることができなくなっていた。
オトロシャを恐府に縛り付けておくには、〈殻〉内部への攻撃をし続ける以外に方法はない。ほかになにかしらオトロシャの興味を引くようなものでもあれば話は別だが、そんなものが思いつくわけもない。オベロンに聞いたところで、適切な答えが返ってくることもなかった。そもそも、オベロンは、オトロシャに支配されており、戦団に有利な情報を漏らすとは考えにくかった。
オベロンは、オトロシャを裏切ったつもりだったようだが、その実、そうした行動すらもすべてオトロシャの手のひらの上だったようなのだ。
もはや、オベロンは信用に足りない。とはいえ、利用価値があるから、いまもなお共同戦線を張っているのだが、しかし、敵は敵だという認識は持ち続けなければならない。
明確な、撃滅対象。
オベロンの領土である黒禍の森への攻撃は、散発的ながらもいまもなお繰り返されており、第十二軍団がつぎの任地へ移動するまでには、第一軍団が受け持っている。
そう、いま現在も、黒禍の森の中で、導士たちが幻魔と戦っているのだ。
「攻撃をし続ける限り、オトロシャは出てこない……といいんだけどね」
「いまのところ、恐府内でオトロシャを見たという報告はありませんよ」
「あったらその部隊は壊滅してるだろう」
「そうですね」
流人の意見を照彦も否定しない。
それはそうだ。
オトロシャは、鬼級である。それもただの鬼級ではない。三体もの鬼級を従える、鬼級の王なのだ。サタンやアーサーには劣るかもしれないが、鬼級の中でも上位であることに疑いはない。
なにより、水穂市全体を一瞬にして掌握した超魔法の使い手なのだ。
対抗手段もなく遭遇すれば最後、全滅するのは目に見えている。
「だが、それでも、挑まなければならない」
「そうしなければ、オトロシャを釘付けにすることはできませんから」
「動き出せば最後、だものな」
そして、流人が目を細めたのは、黒禍の森の異変を見て取ったからだ。どす黒い結晶樹に埋め尽くされた樹海は、常にただならぬ気配に包まれているのだが、それが突如として膨大化したような、そんな感覚があった。遥か前方。
されど、前方。
「いま、黒禍の森でなにかが起きたな」
「……オベロンが動いたようです」
「ついにこちらの敵に回ったか」
「最初から敵ですよ。ただ、利害が一致し、互いに利用し合っていただけのこと」
そして、オベロンがオトロシャに操られていることが判明したいまとなっては、完全に利用するだけの存在となっていた。
いずれは滅ぼさなければならない、という点では、最初から変わらない。