第千百九十一話 新たなる始まりを(三)
一二三にとって、今日のこの日ほど嬉しいことはなかったかもしれない。
家族が勢揃いしたのだ。これを喜ばずして、なにを喜ぶというのか。
無論、幸多に関連する事柄は除外して、だ。一二三にとってもっとも重要なのは、幸多だ。それ以上に大切なものも、大事なものも存在しない。だれに聞かれてもそう断言できるのが、一二三という人間なのだ。
ともかく、家族である。
偉大なる母たる麒麟にせよ、義理の兄や姉にせよ、一二三自身が戦団本部で猛勉強中だということもあり、直接会って話し合う機会は何度もあった。一日中訓練に拘束されるわけではない。休憩時間はなにをしてもよかったし、戦団本部内を冒険するのが日課になっていたのだ。
美由理と義一以外の全員が、戦団本部に務めている。
第四開発室を覗けば義流に会えたし、本部棟には麒麟を筆頭に、四人の家族がいた。もちろん、だれもが職務に忠実で、多忙だ。そう毎日毎日会えるわけでもないし、じっくりと言葉を交わす時間はない。
それでも、実際に会って話し合えば、幻板越しに対面したときとは、違う感じ方をするというものだ。
そのようにして、一二三は、家族との接点を持ち、自分が伊佐那家の一員なのだという実感を得ていった。
そして、今日。
魔暦二百二十三年の元日。
一年の始まりを祝福する今日という一日に、伊佐那家の全員が勢揃いしていることは、実に素晴らしいことなのではないか。
しかも、その一員に自分が加わっているのである。
一二三にしてみれば、想像だにしない状況であり、理解の及ばない事態といっても良かった。あの伊佐那家の一員である。夢を見ているような気分だった。ふと、目が覚めれば、培養液に満たされた水槽の中に脳だけの自分が浮かんでいるのではないか、と、考えることがあった。けれども、夢は覚めない。なぜならば、これが現実だからだ。
それでも一二三は、伊佐那家の人々が昨年のことを振り返っている最中も、夢心地のような感覚の中にいた。
「ぼくは……そうですね。まあ、大変でしたけど。でも、色々と経験できましたから。この経験は成長に直結する大きな糧です。そうだろう、一二三」
「……うん?」
義一が一二三に話を振ってきたのが唐突過ぎたから、彼は、呆然とした。彼が話をちゃんと聞いていなかったのは、義一には瞬時に伝わったようだ。
「……一二三だって、大変な一年だったじゃないか」
「えーと……ぼくの大変って、兄さんたちの大変とはまったく意味が違うというか、なんというか」
「うむ。確かにそうかもしれん」
「大変だったのは、ずっとだったものね」
「ずっと……本当に、ずっと、な」
「ええ……」
「あ、いや、それほどでもなくて、ですね」
一二三は、兄や姉の重々しすぎる反応に慌てた。皆が一二三の境遇について話すとなると、ただ同情的なだけでなく、本当に自分のことのように考えてくれていることが伝わってくる。それがなにより嬉しくて、居ても立ってもいられなくなるのだ。
こんなことは、初めてだ。
伊佐那家の一員になってから、ずっと、そんな気分を味わい続けている。
伊佐那家のひとびとが皆、一二三を全身全霊で受け止めてくれているからこその感覚。至上の幸福にも等しい。
「確かにぼくにとって昨年は大激変といってもいい一年でしたし、生涯忘れない出来事があったんですけど、いま考えるのはこれからのことじゃないかなーって、思っていて」
「ほう。いうようになったじゃないか」
「ぼくも、導士ですから」
「いい心構えだ」
一二三の真っ直ぐなまなざしを受け止めて、美由理は微笑んだ。一二三がいま、必死になって魔法の修得に励んでいることは、魔法局の報告から伝わってきている。なにより、星象現界を会得し、ある程度は思い通りに使えるほどになっているというのだから、いうことがない。
一二三を一刻も早く小隊に合流させるべきだ、という意見が上層部の間に飛び交っているほどだ。
だれもが、彼に期待している。
神木神威の複製体というだけでも期待の塊だったが、その期待を遥かに上回る成果を上げ始めているとなれば、上層部が盛り上がるのも無理のない話だろう。
とはいえ、一二三は、魔法の基本すら完璧ではないということもあり、実戦への投入は見送られた。
基礎もままならない状態での実戦は、いくら星象現界を使えるからといっても、危険極まりない。獣級以下の幻魔相手ですら、危うい。
一二三自身、一刻も早い真星小隊への合流を望んでいるのだろうが、美由理は、それを良しとはしなかった。
一二三が戦闘に耐えうる能力を手に入れてからでいい。
それからでも、遅くはないはずだ。
「導士。そう、導士だ。きみは、導士になった。戦団の、戦闘部の一員にな。だが、魔法士としては未熟極まりない。魔法の基礎すらできていないのだ。その事実を受け入れ、精進することだ」
「はい。軍団長!」
「……ここでは、普通でいいよ」
美由理が苦笑すると、一二三ははっとなった。隣の義一も笑っている。その胸の奥で、美零までもが微笑んでいるんのが、一二三にはわかった。義一の半身は、まさに彼の魂に同居していて、彼の感情が揺れ動くとき、どういうわけか一二三にはその輪郭を見て取ることができた。理屈はわからない。が、確かに義一の心の奥底に彼によく似た少女がいて、一二三のことを見てくれているのだ。
「美由理が軍団長みたいな顔をするからでしょうに」
「そうだぞ、美由理。せっかく伊佐那家が勢揃いしたというに、軍団長の顔を見せるんじゃない」
「確かに、美由理ちゃんにはそういうところがありますよね」
「どういうことですか」
「真面目過ぎるということですよ」
麒麟が兄や姉たちと一緒になって笑いかけてくるものだから、美由理はどういう顔をすればいいものか考え込んだ。真面目だけが取り柄なのは、家族ならばだれもが知っていることだろうに。
そんな兄や姉たちのやり取りを見聞きしながら、一二三が感じるのは、家族の温かさであり、自分には持ち得なかったはずの空気感だ。
ここに居られるというだけで、幸せだった。
であらば、この幸せを護り続けたい、と、思った。
「伊佐那家の新年会には参加なさらなくて、よろしいのですか?」
「それはどういう意図の質問だ?」
神威が、盃に注いだ酒を味わう気も失せたのは、神流から予想外の質問が飛んできたからだ。
本部棟総長執務室に、神威と神流はいる。
神威は、戦団本部を我が家の如く扱っていることもあって、年末年始もここで迎えていた。総長、つまり戦団の頂点に君臨する王にして支配者、そして責任者である。
年が終わろうと、明けようと、戦団全体が活動を止めるわけにはいかない。
幻魔災害にせよ、魔法犯罪にせよ、いついかなるときにも起こりえるものだ。それに、時期が時期だ。あらゆる事態に備えておかなければならず、対応できるように準備しておく必要がある。
そこに総長の出番があるかといわれると怪しいものの、とはいえ、責任者としては、すべての情報の集積点にいるべきだという考えが神威にはあった。
『閣下は、責任感が強すぎるきらいがありますね』
などと、麒麟がいってきたことを思い出すが、それは彼女にもいえることだ。護法院のだれもが、そうだ。戦団を立ち上げたものたちは、皆、相応に責任感が強く、故にこそ、日夜、己らに課した役割を勤め上げている。
いまも、そうだ。
麒麟は強引に休ませたが、長老の大半が職務を全うしている最中である。
神威が総長執務室に籠もっているのも、それだ。ただし、第二軍団長であり、姪孫である神流が遊びに来ているという、普段とは異なる点こそあるが。
神流は、今月の任地への移動時間を利用して、神威と新年を過ごすことにしたようだった。神流が神威に対し、並々ならぬ憧れを抱いていることは、彼女が戦団に入った経緯からしてわかりきっている。だから、余計な心配をして、くだらぬ憶測を巡らせもするのかもしれない。
そのように神威が考えれば、そんな浅はかな考えなどお見通しだといわんばかりに、神流がいった。
「閣下にとって心安らぐ場所といえば、伊佐那家以外にはないのではないかと思ったまでのことで」
「……それこそ、意味がわからんな。ここも、悪くない」
「本当ですか?」
「嘘をいってどうなるものでもあるまい」
「それはそうですが、おじさまですし」
「なんだ、それは」
「わたくしのことを一人前の人間として見てくれていますか?」
「いるとも」
だから、軍団長に抜擢したのだし、多くのことを任せているのだ、と、神威はいった。
すると、神流は、心底嬉しそうに微笑んだ。その笑顔のあざやかさは、神威が驚くほどのものだった。