第千百八十九話 新たなる始まりを(一)
頭上には、膨大な青。
どこまで澄み渡り、透き通る青さは、この世のものとも思えないほどだ。とても現実的ではない。けれども、これは現実だ。
でなければ、嘘だ。
なぜ、確信し、断言できるのかはわからない。が、それで良かった。なんの問題もないし、なんの不満もない。
この空の青さが、この現実を祝福してくれているのだから。
青ざめた空を突き抜ける太陽の眩さも、青に滲む雲の白さも、問題ではない。
空が青く、世界を包み込んでいる。
それだけで、心配はない。
「そう、なんの心配もいらないよ。幸多」
声は、優しく穏やかに、そして柔らかく意識を包み込んでくれるから、彼は、そちらに顔を向けたときには満面の笑顔を浮かべていた。自然と沸き上がってきた感情が全身に行き渡るまで、時間はかからない。命が、喜んでいる。
彼の視線の先には、いつものように父の姿があった。皆代幸星。幸多の世界を、この天地を支える柱といっても過言ではない存在であり、故に、その姿を視界に収めれば、限りない安心感が沸き上がってくる。
当然の理屈に疑問も浮かばない。
風が頬を撫で、通り過ぎていく。大草原。辺り一面の緑が、風に揺られて波立つ様は、夏を目前にしたいつもの景色だった。我が家の眼前に広がる光景。
その景色のど真ん中に父の姿があり、幸多は、声を上げて駆け寄っていた。小さな、小さな足を全力で動かして、あらん限りの力で。
「しんぱいなんてしてないよ!」
父がいるのだ。
なにを心配する必要があるというのか。
幸多が生まれてからずっと、父は、側にいてくれた。母もだ。幸星と奏恵のふたりが、幸多の隣にいてくれるから、幸多が不安になるということはなかった。
たとえ魔法が使えなくたって、なんの問題もない。
父と母がそれを証明してくれている。
幸多は、両親に全幅の信頼を寄せていたし、父と母のいうことさえ聞いていれば、幸せでいられるのだと信じていた。
「ああ。心配する必要はないんだ。全部、上手くいく。これから先、どんなことがあったってね」
「うん?」
ふと、疑問が過った。
なぜ、父がそんな不安を煽るようなことをいうのだろう、と。
ありえなかった。
幸星は、幸多を不安がらせるようなことは決していわなかったからだ。いつだって未来は明るいものだと言っていたし、そう確信させるだけの力強さがあったのだ。
なのに、いま、幸多の目の前にいる父の姿は、輪郭さえ朧気になりつつあった。形が失われ、色褪せていく。
「幸多。きみを待ち受けるのは、絶望的な未来かもしれない。けれども、忘れてはいけないよ。きみは、ひとりじゃない。母さんがいて、統魔がいる。それどころか」
声までもが不鮮明になっていけば、幸多の中の不安が急激に膨れ上がった。漠然と、しかし、確実に。
「いまやきみには、数多くの友人や仲間がいる。決してひとりじゃない」
風の音が強くなり、緑の波が激しくなる。空模様が大きく変わり、雲が天を覆い隠していくのを止められない。
これは、現実ではない。
「そのことを忘れないで欲しい――」
幸星の声が途切れたのは、土砂降りの雨が降り始めた瞬間であり、それと同時に、幸多は、目を覚ました。
そして、視界に飛び込んできたのは、統魔の寝顔だ。
「夢……」
つぶやき、同時に納得する。目の前に統魔の顔があり、彼の手が幸多の手を握り締めていたからだ。
いつだって、そうだ。
父の夢を見るときは、統魔が側にいるときだけだった。理由はわからないし、理屈などあるわけもないのだが、しかし、無意識に安心しているというのもあるのではないか、などと、幸多は想っていた。
統魔は、血こそ繋がっていないが、血以上に深い絆で結ばれた兄弟であり、家族だ。統魔が近くにいるというだけで、幸多の不安は消え去った。それがどれだけ些細なものであっても、深刻なものであっても、だ。
だから、統魔が側にいると、父の夢を見ることができるのではないか。
父の、幸星の死ほど、幸多の心を傷つけた出来事はない。いまもなお思い出すだけで胸が痛む。完全に癒えてはいないし、これから先も決して忘れることはないだろうと確信している。
それほどの出来事。
なんといっても、目の前で殺されたのだ。
幻魔に。
サタンに。
その瞬間が網膜に焼き付き、意識に深々と刻まれているが故に、一日たりとも忘れることはできないし、忘れるわけにはいかなかった。
そしてそれ故に、幸星の夢を見ることができないのではないか。そして、統魔という安心を得ることで、夢見ることができるのではないだろうか。
幸多は、統魔の手を握り返し、その寝顔の健やかさに安堵すらした。
戦団における最高戦力の一角に上り詰めつつある統魔は、幸多以上に過剰にして膨大な期待を集めている。それはそうだろう。若くして星象現界に目覚めただけでなく、それが星将をも陵駕する規格外のものだったのだ。
統魔にかけられる期待の重さは、幸多には想像しえないものだったし、日夜、その重圧を撥ね除けるために任務と猛特訓を繰り返していることは、よく知っている。
日に日に成長しているということもだ。
「夢……か」
幸多は、統魔の寝顔を見つめながら、夢の内容を想いだそうとして、諦めた。夢は、目覚めた瞬間こそ覚えているものの、覚醒の度合いが進めば進むほど、忘却の彼方に沈んでいく。
特に幸多は、そうだ。
現実に考えなければならないことが多すぎて、夢の内容まで覚えていられないのだ。
だから、幸多は、布団から抜け出すと大きく伸びをして、朝の冷気を全身で感じた。窓から差し込む日の光の眩さに、目を細める。
年が、明けた。
夢。
きっとそれは夢だ。
極めて現実味を帯びているが、夢だと確信する。
なぜならば、幸星が目の前にいたからだ。見慣れた大草原。御名方山麓の実家の敷地内に広がる景色だ。吹き抜ける風が緑の波を起こしているのだが、その光景すらも見飽きていた。
青ざめた空も、太陽と雲の白さも、なにもかも。
「これは夢だ」
蓄積された膨大な記憶を元に、脳が描き出した幻想の世界。
「夢の世界だ」
「統魔、きみの夢は、魔法士になることだったね。央都一の魔法士になって、家族のみんなを助けることだった」
「……そうだ」
夢の幸星が発した言葉を受けて、統魔は、素直に認めた。夢が自分の記憶を元にして生み出されるものである以上、否定しようのない事実が語られることもある。
「おれは、立派な魔法士になって、父さんや母さん、それに幸多を護りたかった。でも、いまやその夢は過去のものと成り果てたよ」
「そんなことはないだろう」
幸星が、微笑する。駄々《だだ》を捏ねる子供をあやすような、そんな微笑み。柔らかく、すべてを包み込むような父の顔。そんなものを見せられれば、たとえ夢だとわかっていても、返す言葉が見つからなくなる。
「きみは、立派な導士になった。いまや戦団でも最高峰の導士にね」
「導士としては、それなりにやれてると想うよ。だけど、おれが本当になりたかったのは、導士なんかじゃない。違うんだ」
「じゃあ、導士を辞めるかい? きみは、きみだ。好きなように生きればいい。父さんは、きみの意志を尊重するし、どんな生き方をしても、応援するぞ」
統魔は、幸星の目を見つめていた。父ならば、きっとそんな反応をするに違いない。幸星は、幸多と統魔を決して否定せず、肯定し続けてくれた。全身全霊、力の限り、応援してくれていたのだ。
たとえば、いま夢のいったとおりに導士を辞めたとしても、幸星はそんな統魔の判断を受け入れてくれるだろう。それどころか、支持してくれるかもしれない。
導士などという危険な仕事を辞めて、ただの魔法士になってくれるのであれば、それに越したことはない――とすら、いってくれるかもしれない。
「でも、駄目だ」
「なにが?」
不意に尋ねられて、統魔は、はっとした。目の前に幸多の顔があって、その褐色の瞳が統魔の目を覗き込んでいたのだ。
これは夢ではなく、現実だ。
魔暦二百二十三年一月一日。
新たなる一年が幕を開けたのだ。




