第千百八十七話 この一年(十三)
彼女の様子がおかしいことに気づいたのは、なにも今日この瞬間ではない。
ここのところ、ずっとそうだった。
今年の八月に出逢ってからというもの、ルナは、統魔に対し、全身全霊で依存するかのような態度を取り続けていたし、隠そうともしていなかった。それが彼女の本心だということは、だれの目にも明らかだったのだ。
彼女は、隠し事ができない――とは、ルナを知るだれもが思うところだろう。長所であり、短所。美点であり、欠点。矛盾した感想だが、それが彼女という人物を表している。
彼女を混沌そのものというものもいるが、それも否定できないのだ。
ルナは、自分の思っていること、考えていることをすぐに言葉にしてしまう。それがたとえどんな些細なことであっても、全部、伝えてくるのである。
今日どこでだれと会い、なにを話したのか。なにをして、なにを思い、なにを感じたのか。好きだとか嫌いだとか、楽しかったとか、悲しかったとか。
すべて、あらゆる感情を言葉にした。
そのことを聞けば、統魔に自分のすべてを共有したい、と、彼女は答えたものだった。
(最初は、鬱陶しいと思ったな)
統魔は、ルナの横顔を眺めながら、考え込む。
本荘ルナという人物について、考えるのだ。
改めて、彼女のことを考えるとなると、まず思い出さなければならないのは、彼女がただの人間ではないという事実だ。
人間でも、ましてや幻魔でもない、未知の存在。周囲の人間の精神を無意識のうちに支配してしまうような能力を持つだけでなく、人間とは比較にならないような莫大な魔素を内包していた。魔素質量だけでいえば、彼女は、統魔を遥かに陵駕しているのだ。
ただし、魔素質量がどれだけ多くとも、出力が低ければ意味はない。出逢った当初の彼女の出力は、並の導士と同じくらいだった。
だから、どうとでもなったのかもしれない。
人間ならざる、幻魔ならざる、第三の存在。未知の知性体ともいうべき彼女がどのように発生し、なにゆえ人間社会に溶け込んでいたのか、いまもなおわかっていない。情報局や魔法局が全力を駆使して調査しても、正体を突き止めるには至っていないのだ。
『彼女がなにものであれ、戦団のため、人類のために尽力してくれているのだ。なんの問題もあるまい。そう思わないか?』
などと、どうにも楽観的にも過ぎるほどの表情で問いかけてきたのは、なにを隠そう、統魔の師・麒麟寺蒼秀だ。蒼秀は、ルナが統魔に懐いただけでなく、全力で依存している有り様を見て取って、これならば心配はいらないと判断したようなのだが。
『……まあ、おれもそう思いますけど』
統魔も、否定はしなかったことを覚えている。
いまや、ルナは、皆代小隊に欠かせない存在となった。彼女の魔法士としての能力の高さもさることながら、人間性の面でも、統魔たちの心の支えになっていたのだ。
だから、不要とは思わないし、むしろ必要不可欠だと考えていた。そして、彼女の正体などどうでもいいとさえ思っていたのだ。
彼女がなにものであれ、関係ない。
既にルナは、統魔たちのため、戦団のため、人類のために力の限りを尽くしてくれている。それだけで十分だろう。それ以上、彼女の存在意義を証明するのになにが必要だというのか。
光都跡地での出来事から、今日に至るまで。
統魔が彼女と過ごした四ヶ月余りの日々は、濃密過ぎるといっても過言ではなかった。
大規模幻魔災害が頻発し、皆代小隊も何度となく死線を潜り抜けてきた。何度、窮地に陥ったか。統魔とルナが星象現界に目覚めていたからこそ、どうにかなったことがどれほどあったのか。
統魔だけでは、駄目だ。
ルナがいてこその皆代小隊だということは、だれもが理解しているのではないか。
西の彼方、地平の果てに太陽が沈もうとしていた。故に太陽は限りなく紅く燃えていて、空を塗り潰している。吹きつける風は強く、そして凍てついていた。
十二月三十一日。空白地帯に季節感など存在しないも同義だったし、実際、魔界に四季折々《しきおりおり》の変化などありえないのだが、しかし、いま、この時間は、世界が統魔たちに冬を感じさせるかのように寒風が吹いている。
統魔たちは、大境界防壁の外部胸壁にいる。そこから見えるのは、見渡す限りの魔界であり、幻魔蠢く異界の大地だ。前方に横たわるのは、死に絶えた赤黒い大地。起伏に富み、変化し続ける大地の形を固定する方法はなく、故に、その変化にすら楽しみを見出すのが、この魔界で生きていく方法のひとつかもしれない。
北側にイドラの〈殻〉が、西側――つまり、統魔たちの視界の左側にセベクの〈殻〉がある。〈殻〉の大きさでいえば、イドラの〈殻〉は小さく、セベクの〈殻〉は出雲市と同等か、それ以上の広さを誇る。セベク軍の兵力だけでいえば、戦団を圧倒するだろうが、戦力差的にはそれほどでもない。
鬼級がセベク一体だからだ。
「……いまは、どうでもいいか」
「ん?」
ルナが、統魔を見た。夕日を浴びて輝く統魔の横顔は、いつになく眩しい。まさに幻想の中から飛び出してきたような彼を見ているだけで、胸が締め付けられるような気分だった。
自分は、ここにいていいのか。
いいわけがないとわかりきっているのに、考えてしまう。
逡巡などする必要はない。一刻も早く立ち去るべきだ。ここから、この場から、彼の目の前から。
でも、できない。できるわけがない。
ルナは、己の心臓の上に置いた手を握り締めた。無意識に。
その様子を見ていた統魔は、その手に触れた。
「どうしたんだ? さっきから、ずっと変だぞ」
「変? わたしが?」
「いや、さっきからじゃないな。ここのところ、ずっと変だ」
「嘘……」
「なんでそんな嘘をつく必要があるんだよ。なあ?」
統魔は、苦笑とともに仲間たちに同意を求めた。字、香織、剣、枝連の四人は、統魔の考えていることなどお見通しといわんばかりに頷き、ルナに視線を集中させる。皆、笑顔だった。
ルナは、ただただ困惑した。
「ずっと、変だった……?」
「うん。あのときからずっとな」
「あのとき……」
「幻魔の製造工場の調査をしてからだよ。心当たりは、あるんだろ?」
「心当たり……」
ルナが統魔の言葉を反芻しながら考え込むばかりだから、皆、心配になった。彼女の異変については、小隊の全員が感づいていたのだ。確信できることでもないし、確信したとしてなにができるわけでもないから、黙って見守ることしかできなかっただけのことだ。
しかし、統魔が言葉にした。踏み込んだのだ。であれば、それに追従するのが、部下というものだろう。だから、香織がルナの顔を覗き込んだ。
「どったの? ルナっち」
「そうですよ、ルナ。なにがあったのか、わたしたちに話してくれませんか?」
「どんな些細なことだっていい。なにかいいたいことがあるのなら、なんでもいって欲しい。おれに悪いところがあるのなら、直そう」
「れんれんにはないと思うけど、まあ、ぼくにはあるかも」
「ないよ。ない。そんなの、あるわけないじゃない」
ルナは、香織たちの気遣いが嬉しくて、目頭が熱くなるのを感じた。そして、だからこそ、なにもいえないことに気づくのだ。いま思っていること全てを打ち明ければ、それこそ、彼女たちを否定して仕舞いかねない。
自分は、いったいなにものなのか。
「わたしは、統魔が大好きで、皆も大好き。皆代小隊の一員になって、今日まで一緒にやってこられて、本当に幸せだったよ。本当の本当に。それがすべてなの。それ以上でもそれ以下でもなくて、だから、なんていえばいいのかわからなくて」
「……まるで今生の別れみたいにいうんだな」
「だって」
「だって?」
統魔の目を見つめ返す。
夕日を浴びる彼の瞳は、いつになく赤々と輝いていて、だからこそ、ルナは言葉を飲み込んでしまった。真っ直ぐに彼女を見つめるその目には、強い決意があったのだ。その決意の前には、彼女の覚悟など消し飛んでしまう。
「……わたし、ここにいてもいいのかな?」
「いまさら聞くなよ」
統魔が笑い、彼女の頭に手を置いた。
「いつまでだっていろっての」
その言葉に込められた想いの強さには、ルナは、なにも言い返せなかった。