第千百八十三話 この一年(九)
『なぜ、このようなことを?』
通信機越しに聞こえてきた美由理の声は、当然のように疑問に満ちたものだった。彼女からすれば当たり前の反応だっただろうし、神威もそのことで気を悪くするようなことはない。むしろ、真正面から疑問をぶつけてくる美由理には、好感を抱くものだ。
「この一年、色々あったからな」
『はい?』
「……そもそも彼は、完全無能者だ」
神威は、告げた。
本来ならば、どのような理由があろうとも、戦団戦務局戦闘部には入れるはずのない人間だ。対抗戦決勝大会で優勝したからといって、最優秀選手に選ばれたからといって、魔法を使えないどころか、恩恵を受けることすらできない人間を勧誘する道理はない。
だが、戦団は、彼を、皆代幸多を受け入れた。
窮極幻想計画、その可能性を信じて。
そして、可能性は花開き、大いなる戦果を上げた。
彼に利用価値があることが示されたのだ。
『確かに幸多は、本来ならば、戦闘部には入れるはずのない人間です。ですが、結果を示した。F型兵装のおかげとはいえ、数多の幻魔を斃しただけでなく、殻石の破壊という偉業を果たしました』
「そうだ。いまや彼の価値を疑うものはいまい。ましてや、彼は特異点。〈七悪〉が目に付け、天使たちも一目置く、悪魔への対抗手段なのだ。我々人類が生き残るために必要な存在といってもいい」
そう、そしてだからこそ、神威は、幸多に友人たちとの時間を与えた。
この一年、いや、彼が戦団に入ってからの半年余り。
彼は、たびたび窮地に立たされ、九死に一生を得てきた。悪魔と対峙し、死の淵に追いやられたことが何度もあった。そのたびに辛くも生き延びてきたが、これから先はどうなるかわかったものではない。
これまでは、幸運にも生き残れてきただけのことだ。
その幸運が尽きたとき、それこそ、彼の命数が尽きかねない。
だからこそ、と、神威は考える。
「彼には、悔いなく生きて欲しいのだ」
『悔いなく、ですか』
「無論、きみもだよ。美由理くん。あの日、麒麟がきみを伊佐那家に迎えてから、きみは、伊佐那家のため、戦団のために尽くしてきた。それはきみが記憶喪失だったからだろう。きみには伊佐那家以外に寄る辺がなく、伊佐那家と戦団がすべてだった。だが、いまは、違うはずだ」
『それは……』
神威は、頭上を仰ぎ見た。
本部棟の屋上から見上げる空は、どこまで青く澄み渡っている。
この一年を振り返ったとき、幸多がまず最初に思いつくのは、天燎高校の入学式のことだ。
「そうだそうだ、入学式に間に合わなかったんだよな」
「うん。学校に向かっているときに幻魔災害に遭遇してさ。それで……」
いま思い返せば、なんという無茶をしたのか、と、他人事のように苦笑してしまう。
あのときは、一心不乱だった。なにも考えず、ただ、ガルムに立ち向かったのだ。そして、危うく焼き尽くされそうになったところを美由理に助けられ、事無きを得た。
そして、そのために入学式に遅れ、教室で圭悟に出逢った。
それが、最初。
天燎高校でのすべての始まり。
だから、だろう。
幸多を中心として、天燎高校の教室が構築された。天燎高校は、天燎財団の手によって作り上げられている。床から壁、天井、教壇は無論のこと、生徒たちが用いる机や椅子に至るまで、あらゆる部分に財団の理念が込められているのだという。もちろん、幸多の記憶から抽出され、想像力によって補強された幻想空間である以上、材質まで完璧に再現されているわけではないが。
しかし、ひと目見ただけでは、現実の教室と変わらないだろう。少なくとも、幸多の目には、そう見えている。
圭吾たちは、どうか。
「うわ、なんだこれ?」
「天燎高校の……わたしたちの教室?」
「どういうこと?」
圭悟たちが困惑するのも無理からぬことだ。
ここは、幻想空間。それも、戦団本部総合訓練所の一室から、最新型の幻創機を用い、飛び込んだ先である。
幻想空間とは、予め作り込まれた仮想空間だ。戦団がありとあらゆる状況を想定し、様々な幻想空間を用意していることは周知の事実だが、しかし、だからといって、天燎高校の教室が存在するわけがないのだ。
「ぼくが作ったんだけど、上手くできてるでしょ」
「作った?」
「皆代くんが?」
「はあ?」
「わけわかんねえ」
圭悟たちの反応の良さに笑みをこぼしつつ、幸多は、手近にあった机に手を置いた。指先から伝わってくるのは特殊強化樹脂製の机の感触であり、現実感に満ちている。
「ぼくもよくわからないんだ」
「なんだよ、それ」
圭悟が幸多の隣の席に座ると、真弥は紗江子と顔を見合わせ、それぞれの定位置についた。蘭もそれに倣う。教室の異なる亨梧と怜治だけが手持ち無沙汰にも、近くにあった椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「まあ……気にしなくて良いよ。そういうことができるってだけだから」
これも、源理の力のひとつだ。
意識と無意識を幻創機に流し込み、望むがままの幻想空間を創造するという力。なんの意味があるのか、なんの価値があるのかもわからない能力だが、訓練には活用できる。幸多の記憶を元にした幻想空間だ。真星小隊が窮地に陥った場面を再現することも、不可能ではない。
そして、戦闘部では既にこの能力を利用し、数多の戦場を作成しており、導士たちの訓練に活用されている。戦闘部全体の戦力の底上げに繋がっているということだ。
「……ともかくさ。ぼくはここでみんなと逢ったんだよ。圭悟くんと、真弥ちゃん、蘭くんに紗江子さん」
幸多は、四人の顔を見回しながら、その名を口にした。圭悟以外を名前で呼ぶのは、初めてかもしれない。だから、少しだけ勇気がいった。
もちろん、真弥も蘭も紗江子も、幸多に名を呼ばれて、まったく悪い気がしなかった。むしろ、心の底から嬉しい。幸多との距離がさらに縮んだ気がしたからだ。
「おれたちもな」
「そういえば、そっか」
亨梧と怜治を見れば、ふたりが少しバツの悪そうな表情をしているのがわかる。
曽根伸也とともにこの教室に乗り込んできたのが、ふたりとの最初だ。
あの最悪の印象だったふたりとこうして友達になれるのだから、人生、なにがあるかわかったものではない。
「あのときは、悪かったよ」
「もう気にしてないって。いつまで引き摺ってんのさ」
幸多が笑いかければ、亨梧と怜治は互いに見つめ合い。ついには苦笑した。幸多ほど無頓着な人間もいないのではないか。楽観的で、能天気で、野放図――そんな印象を受ける。
だから、彼の周囲はいつも明るいのではないか。
そして、圭悟のような気難しさを抱えた人間が側から離れないのではないか。
「引き摺るだろ、普通は」
「ぼくはとっくに許してるし、なんとも思っていないよ」
むしろ、曽根伸也を哀れにさえ思っているのが、幸多だった。曽根伸也の身の上を思えば、あのような暴君に成り果てたのも無理はないし、最後には無念にも命を落としてしまったのは、さすがに可哀想過ぎやしないか、と。確かに、行き過ぎた暴力や差別的な行いは問題だったが、しかし、なにもあそこまでの目に遭う必要はなかったはずだ。
もっとも、それも勝手な想いだ。
曽根伸也からすれば、余計なお世話かもしれない。
彼は、死んだ。
死人に口なしとはよくいったもので、生きている人間があれやこれやと感想を述べたところで、そんなものになんの意味もないのだ。死んだ人間の気持ちなど、だれにもわからないのだから。
だから、幸多も彼のことを考えるのを止めた。
すると、幸多の想像が巡り、幻想空間が一変する。
教室から、大社山頂野外音楽堂へ。
まるで自分自身の想い出を巡っているような感じがして、幸多は、圭悟たちに悪く思った。友人たちとこの一年について話し合っていたら、これだ。
この一年、自分の身になにが起きたのか。
皆代幸多という人間の人生がどのように激変したのか。
そのことについて、自分自身が見直さなければならないときが来たようだ。




