第千百八十話 この一年(六)
「なんでまた忍びの道なのよ。本部祭で十二分に堪能して満足したっていってたでしょうが」
真弥が呆れ返ったのも無理のない話だと、紗江子は思った。
忍びの道とは、第六軍団の兵舎、その裏側に設営された室外訓練施設のことだ。第六軍団といえば、新野辺九乃一を軍団長とし、忍者屋敷とも呼ばれる兵舎が特徴的だが、その特徴そのままに反映した設備が最近では話題になっていた。
それが忍びの道だ。
忍びの道は、身体能力強化訓練用の施設であり、魔法を用いなければ、導士ですら簡単には突破できない構造になっている。一種の障害物コースであり、進路上には複雑怪奇な障害物が立ちはだかっており、それらを魔法を用いずに突破することで、身体能力を鍛えるのだという。
導士が鍛え上げられた肉体をさらに強化するための設備だ。一般市民ならば、最初の壁登りの段階で大半がふるい落とされること請け合いだろう。
事実、本部祭で一般開放されたときには、第一行程の大障壁を突破できたのは、千人を超える参加者の中からほんのわずかばかりだったという。
真弥のいうように圭悟たちも喜び勇んで参加したものの、頭上高くそそり立つ壁を昇りきることができないまま、時間が来てしまった。
「心残りなんだよ!」
巨大な壁に立ち向かいながら、圭悟が声を上げる。亨梧や怜治も彼に強く同調していて、そんな男たちの様子を見れば、真弥が頭を抱えたくなる気持ちもわからなくはない。
「そんなの、いつだってできるでしょうに」
「できねえから挑んでるんだろーが」
「……まあ、それは否定しないけど」
真弥は、圭悟がまたしても壁を昇りきることができずに滑り落ちてくる様を見届けた。大障壁と呼ばれる障害物は、垂直。だが、無数の凹凸があり、それらに手をかけ、足をかけることで昇りきることができる仕組みになっている。
ただし、魔法を使ってはいけない。飛行魔法や身体強化魔法を使えば、容易く突破できるような障害物に過ぎないのだ。
生まれながらの魔法士ならば、呼吸をするように魔法を使うことができるわけで、この程度の障害物など軽々と突破できて当然だ。もちろん、魔法を使えれば、だが。
「でも、なんの意味があるのよ」
「意味は、ないよね」
蘭が苦笑とともに真弥に同意する。彼は運動が苦手なこともあってか、圭悟たちのように忍びの道に挑戦するということがなかった。興味もない。それよりも本部棟や技術局棟の開放区域のほうが余程好奇心を揺さぶられるに違いなかったし、ちらちらと技術局棟を見ては、目を輝かせていた。
本部祭でも、クニツイクサに一番興奮していたのが、蘭だ。
「まあ、しかし、体を動かすというのは悪いことではない」
「それは、そうだけど――」
頭上から降ってきた声に思わず返事をしたものの、その瞬間、声の重さ、圧力に怯み、はっとした。顔を上げると、すぐ斜め後ろに見慣れた偉人の顔があった。右眼に眼帯を付けた偉丈夫。
その面構えは、英雄の風情があった。
「神威様!?」
「へっ!?」
「はっ!?」
「ええっ!?」
真弥の声にその場にいた全員が反応し、圭吾たちなどは、大障壁から滑り落ちてしまった。
「……そこまで驚くことかね」
神威は、学生たちの反応の大袈裟ぶりに憮然とした。想定していたよりもずっと大きく、激しかったからだ。多少、驚くだろうとは思っていたのだが。
「そりゃあ、驚くでしょう。驚かないはずがない」
神威の耳にだけ届く声でつぶやいたのは、彼のお目付け役である首輪部隊のひとりだ。神威が彼を一瞥すると、目線をそらした。
「ど、どどど、どうして、か、神威様が!?」
「……ここは戦団本部だよ。戦団の頭領がいるのは、むしろ自然なことではないかな」
「それは……そうなんですけど」
「お、おれたちが聞きたいのは、どうしておれたちなんかに話しかけてきたのかってことで……!」
圭悟が大障壁の手前から駆けつけてきて、神威を仰ぎ見た。長身の圭悟よりもさらに頭ひとつ背が高いのが神威だ。圭悟が、まるで現存する神に対面でもしたかのような感覚に襲われたのは、その巨躯もあるかもしれない。
いや、それ以上に、神木神威という人物に関する情報が、子供のころから、それこそ物心つく前からすり込まれているというのが大きいはずだ。
圭悟の父、圭助は、根っからの天燎財団の人間であったが、財団の幹部とは思えないくらいには戦団の信奉者でもあった。戦団があればこその央都であり、人類だということを痛感しているようなところがあって、だから圭悟は、子供のころから戦団に関する教育を正しく受けてきたのだ。
神威を目の当たりにして、雷に打たれたような感覚に襲われるのも、当然だった。
神威は、まさに現人神だ。この央都を根底から作り上げた偉人、伝説上の存在にして、いまもなお、戦団の頂点に君臨し、導士たちを正しく導く人物。導士の中の導士。であり、英雄の中の英雄。
その威厳に満ちた立ち姿を視界に収めるだけで感動するのは、市民ならばある種当たり前のことではないか。
財団関係者ですら、神木神威の眼の前では戦団を悪しざまにはいえないし、むしろ感銘すら覚えるに違いないと確信できた。
それほどまでの興奮が、圭吾たちを震わせている。
「奇特にも、この大晦日に戦団本部を訪れたのがきみたちだと聞いたからだよ。米田圭悟くん」
「お、おれの名を――」
どうして御存知なのでしょうか――圭悟は、己が名を神威に呼ばれたという事実への衝撃と感動で、言葉が続かなかった。混乱さえしている。なにがなんだかわからない。
まず、神威が自分たちに声をかけてきたという時点で、普通ではない。考えられないことだ。圭悟たちは、一般市民でしかないのだ。
それなのに、どうして。
「知っているとも。いや、知らないわけがないといったほうがいいかな。もちろん、きみだけじゃない。阿弥陀真弥くん、中島蘭くん、百合丘紗江子くん、北浜怜治くん、魚住亨梧くん。皆、知っている」
神威に名を呼ばれた全員が、圭悟と同じように衝撃を受け、絶句した。
戦団総長ともあろう御方が、どうしてただの学生に過ぎない自分たちのことを知っているのか、まるで理解できないし、想像もつかなかった。全市民の顔を名を記憶しているはずもない。
「きみたちは、彼の――皆代幸多導士の友人だろう。彼は、半年前に導士になったばかりの新人とはいえ、いまや戦団に欠かせぬ存在なんだよ。だから、彼に関する情報は、頭に入っている」
神威は、幸多の友人たちの顔を見回し、全員がこの状況についていけないといった表情をしていることを認めた。皆、呆けたような顔だ。
「幸多の……友人」
「違うかね」
「ち、違いません! 親友です!」
「ふむ。そうか」
神威は、圭悟の力強い訂正と断言に表情を緩ませた。幸多をこれほどまでに思ってくれる友人がいるというのは、微笑ましく、頼もしい。羨ましくもある。
きっと彼らこそ、幸多にとっての日常であり、この上なく大切なものに違いない。
導士は、常在戦場の心構えであれ、と教わり、叩き込まれる。
幻魔災害はいつ如何なる時も起こり得るものであり、たとえ任務外であっても、非番であったとしても、幻魔災害が発生した場合には、対応しなければならないことがある。眼の前に市民の危機が迫ったのならば、己が力の限りを尽くすのが導士なのだ。
つまり、心安まる時間が限りなく少ない。
央都四市のいずれかにいるからといって、完全無欠に安心できるわけではない。霊石結界は万全でもなければ完璧でもない。欠点と欠陥だらけで、よくもまあ、そんな心細いものを頼りに央都を作り、五十年の長きに渡り、護り続けることができたものだと感心するくらいだ。
そんな世界。
だからこそ、導士ではない、一般の友人というのは大切だ。
戦闘とは無縁の日常そのものたる友人の存在は、導士の心を安んじてくれるし、生きている実感というものを与えてくれる。いや、それ以上に――。
(戦う理由になりうる)
神威は、幸多の友人たちが目をぱちくりさせながら、この異常ともいえる現実を受け止めるさまを見ていた。
米田圭悟にせよ、阿弥陀真弥にせよ、中島蘭にせよ、幸多を取り巻く友人たちは、皆、彼のために全力を尽くしていた。対抗戦部の設立に奔走、決勝大会での優勝に大いに貢献している。彼らがいなければ、幸多が戦団に入れたかは怪しい部分があるのだ。
つまり、だ。
彼らは、戦団の影の貢献者というべき存在であり、だからこそ、神威は彼らの前に姿を見せたというわけだ。
大晦日。
戦団本部の開放区域に姿を見せる市民の数というのは、限りなく少ない。
だから、というのもあるのだが。
「では、親友諸君。皆代幸多導士に逢おうか」
そんな神威の提案に、圭悟たちはただただ驚くほかなかった。