第千百七十一話 一二三(五)
なにか、異様な感覚があった。
それがいったいなんなのかわからないまま、一二三の目の前に光が散った。いや、違う。網膜の裏側に光が散乱したかのような、そんな感覚。そのまま視神経から脳内へと流れ込んできた光によって頭の中がかき回されて、右も左もわからなくなっていく。違和感。全身が熱を帯び、血液が逆流するような、そんな感覚。
「一二三くん、どうしたんだい?」
教官である北条ギガの心配そうな声が、一二三の身になにか異変が起きているという事実を知らせるようだった。が、一二三にはなにもできない。ただただ、体中の魔素が燃え上がっているような感覚に苛まれ、意識が席巻されていくだけだ。
「――いますぐ魔力の練成を止めなさい。それ以上は、負荷が大きすぎる!」
ギガは、一二三に駆け寄ろうとしたが、彼の全身から発散する魔力の膨大さに圧倒された。身の毛もよだつとはまさにこのことだった。星将に匹敵するほどの魔素質量を目の当たりにし、肌で感じ取ったのだ。だからといって一二三が苦しそうに身悶えしているのも放っておけず、声をかけるのだが、彼の耳には届いていないか、届いていてもどうにもならない様子だった。制御できていない。。
だから、ギガは、現実世界の技師に幻想訓練の中止を呼びかけようとしたのだが。
間に合わなかった。
ギガの声が聞こえたのは気のせいだったのか。
一二三には、なにがなんだかわからないまま、状況が激変していた。体の奥底から、それこそ、心臓のもっとも深い部分からなにか強烈な熱を帯びた波動のようなものが溢れ出してきたかのようであり、臓器という臓器が灼かれ、細胞という細胞が燃やし尽くされていくような感覚があった。
血液が逆流して体内を駆け巡りながら熱を帯びれば、蒸発してしまうのではないかとさえ思えるほどの体温の高まり。それが実際に起きていることなのか、ただの錯覚なのかさえ判然としない。意識は確かにあるはずなのに、どうにも朧気で、なにもかもが不確かだ。不安定に揺れる視界のただ中で、ギガが愕然としているのがわかった。
幻想空間が崩壊していく。
一二三の魔法技術習得訓練のために用意された空間。星央魔導院の教室を模したそれは、ただ座学するだけでなく、実際に魔法を使うことで体得するための場所であり、ギガがつきっきりで手取り足取り教えてくれるから、一二三は、想像以上の速度で魔法を修得し始めていた。
そんな学び舎が、音を立てて壊れていく。
なにが起きているのか。
なにが、教室を破壊しているのか。
一二三にはまるでわからない。自分の身に起きていることも理解できないのだから、当然かもしれない。
そのとき、一二三の全身から満ち溢れたのは魔力ではなかった。魔力を超高濃度に圧縮することによって引き起こされる昇華現象、その果てに到達する星神力と呼ばれる状態のそれは、ギガの意識すら席巻し、消し飛ばしかねないほどの勢いと力でもって、幻想空間を圧倒した。
机や椅子を薙ぎ倒し、あるいは吹き飛ばし、強化硝子の窓を打ち砕き、破片を散乱させたかと思えば、渦巻かせた。一二三の周囲に複雑怪奇な幾何学模様が浮かぶ。律像。多層構造のそれがただの魔法の設計図ではないことは明らかだ。
「星象現界……!」
ギガは、己の声が上擦っているのを認めながら、これを見届けなければならないのだと結論付けた。一二三の苦悶に満ちた暴走を止めるのではなく、だ。
一二三は、魔法を学び始めたばかりの段階で星象現界に至ろうとした稀有な魔法士だ。
戦団が記録した星象現界の使い手というのは、ひとり残らず、当代最高峰の魔法技量の持ち主である。星将を筆頭とし、杖長たちもそうだし、若手の導士の中でも飛び抜けた才能と技量の持ち主だけが、星象現界の発動に至っている。
星象現界は、現状、人間が体得しうる魔法技術の最高到達点と考えられていたし、事実、その通りというほかないのだ。
そんな領域に魔法を学び始めたばかりの幼児同然の一二三が入り込むというのは、とてもではないが信じられないことであり、考えられないことだった。だが、星将たちに確認され、記録された情報を見れば、疑う意味はない。
一二三に星象現界を体得させること。
それがギガに課せられた使命だった。そしてそのためにはまず、魔法の基礎から学ばせる必要があると判断したのは、間違いではなかったはずだ。魔法の魔の字も知らない状態の一二三では、星象現界を暴走気味に発動できたとして、制御できるわけがない。
いままさに、そうなっている。
暴走状態に陥り、制御不能の力に振り回される彼の姿は、痛々しいというほかなかった。その全身から放たれる莫大な星神力が周囲一帯を縦横無尽に破壊して回りながら、ひとつの形に纏まろうと藻掻き、苦しんですらいるのだ。
一二三が、空気を求めて、喘ぐ。その行動ひとつが星神力の暴走を加速させ、教室の天井を貫き、床に大穴を開けた。
ギガは、自身を魔法壁で護りながら、教え子の暴走を見守っている。
ここは、幻想空間。
現実世界の一二三にはなんの悪影響もないはずだったし、だからこそ、魔法の訓練に持って来いなのだ。そして、彼の星神力がどれだけ暴走したとしても、一切の問題がない。
故に、見届ける。
渦巻く力が一二三の体、その皮膚をも灼いていく様は、やはり暴走としかいえないものだ。
魔法は、制御して初めて力となる。制御されざる魔法は、術者に跳ね返り、傷つけることもありえたし、魔法の暴走事故によって死亡した術者も数多く記録されている。魔法の黎明期には、特にその手の事故が多かったという。
故に、始祖魔導師御昴直次によって魔導隊――魔法技術教導隊が結成され、魔法技術を教え導くべく、世界中に派遣されたというのが、魔法時代黎明期のごくごく有名な逸話である。
ギガは、一二三にとっての魔導隊であり、彼に魔法のすべてを叩き込む覚悟でことに当たっていた。
その矢先、突如として一二三が暴走し、星象現界すらも発動させようとし始めれば、驚きを禁じ得ない。彼の才能が並外れたものだということは理解していたが、それにしたって、だ。
(これが総長閣下の複製体ということ……か)
神木神威の魔法士としての才能は、並外れたものだ。同時期の魔法士の中でもっとも優れた魔法技量の持ち主であり、攻防補、全型式の魔法を高水準で使いこなすことができるのだという。その上でもっとも得意とする攻型魔法は、現在でも最高水準だと考えられていたし、事実、その通りだった。
だからこそ、戦団総長の座に在るのだろうが。
そんな神威の複製体である一二三は、神威の才能をそのまま受け継いでいるだけではない。
神威は、第一世代の魔導強化法を施術された最初の人間だが、一二三は、第三世代である。第一世代と第三世代では、才能はともかくとして、肉体の強度や身体能力、魔素生産量が段違いなのだ。
つまり、一二三は、神威を陵駕しうる存在だということだ。
(それは第二世代以降の魔法士なら全員にいえることだが……)
そして、神威がもっとも期待していることだ。
自分を圧倒的に上回る魔法士たちがつぎつぎと誕生し、戦団を盛り立ててくれれば、人類復興の日も近くなるはずだ、と。幻魔殲滅と人類復興。戦団の悲願にして宿願を果たすためには、神威に匹敵する、いや、超越する魔法士が大量に必要なのだ。
一二三は、そんな神威の期待に応えられる人材に違いなかったし、ギガは、その予感を全身で感じ取っていた。
やがて、一二三の周囲に渦巻いていた律像が眩い光を放ったかと思うと、彼の背後に収束した。莫大な星神力の収束がもたらすのは、星霊の出現。
「化身具象型か!」
ギガは、興奮のあまり身を乗り出したが、すぐさま星神力の圧によって後ずさりした。
一二三の背後、破壊し尽くされた教室のただ中で、星神力の塊が急速に形を変えていく。それは見るからに巨大だった。全長五メートルはあるだろうか。教室には決して収まらない大きさであり、既に半壊状態だった天井や壁を完膚なきまでに破壊し尽くしてしまった。
「竜……」
ギガが思わず発したその言葉は、一二三の星霊の形態を見ればだれもが思いつくものだったはずだ。
星神力の光が収まり、輪郭だけでなく全体像がはっきりとわかるようになったそれは、確かに想像上の竜そのものだった。
蛇とも鰐ともつかない異形の頭を無数の角が飾り、大きな目は虹色の輝きを帯びている。まるで竜級幻魔のように。首は長く、それだけで一メートル以上ありそうだった。胴体も手足も大きく、全体的に光り輝く鱗に覆われている。一対の翼と長い尾を持ち、それらが一二三を庇うように動いていた。
一二三は、視界に入り込んできた巨大な影に気づき、ようやく背後を振り返った。そして、腰を抜かす。あやうく尻餅をつきそうになったが、巨大な尾が彼に絡みついてそれを阻止した。
「こ、これは!?」
一二三は、破壊され尽くした教室のど真ん中に鎮座し、あまつさえ自分の体に尾を絡ませてきた竜の存在を目の当たりにして、度肝を抜かれるしかなかった。
それは、虹色に輝く瞳で、一二三を見ていた。獰猛というよりは優しげな風貌の持ち主で、どうにも愛嬌があるように見えるのは、気のせいだろうか。少なくとも、敵意はない。
あるはずがない。
「紛うことなききみの星象現界だよ」
ギガの言葉が意味する事態を理解するまでに一二三が要した時間は、それなりに長かった。