第千百六十九話 星紋(一)
『システムは、極めて安定している。不安定化の原因は、やはり、仮想人格にあったのだ。元より優れた人工知能によって管理されていたというのに、そこに仮想人格なる不純物を組み合わせれば、システムに混乱が生じるのも道理』
「しかし、女神たちが導士たちとの対話や触れ合いの中で成長し、自発的に動いてくれていたことは確かでしょう」
『それも、いまや人口知能がやってくれているよ。ユグドラシル・システムは、本来、ひとの手など借りる必要のない、完全無欠の機構なんだ。統合情報管理機構。ネノクニが地上から完全に独立し、将来を切り開くために研究、開発されたそれは、人間の愚考など、一切入り込む余地のないものなのだよ。もっとも――』
と、通信機の向こう側の男が小さく咳払いした。
『当時の戦団の技術者には、ノルン・システムを完全に使いこなすには至らず、仮想人格に頼るしかなかったのも事実だろうが』
「……五十年前のことです。五十年後のいま、わたしたちが享受できていることのほとんどすべては、先人たちには手に入らないものばかりだったはず」
『それは、否定しないよ。だから、仮想人格も必要悪だったと受け入れよう』
「必要悪……」
『だろう。現に、仮想人格の存在が引き起こした機能不全が水穂市を致命的な危機に曝している。もし、あのとき、既に仮想人格の全面的な凍結処置を行っていれば、オトロシャの急接近に気づけたはずであり、対応できたはずだ』
そこまでいわれらば、イリアに反論の余地はない。確かに彼のいうとおりだ。彼のいうように、システムダウンさえ起きなければ、水穂市が滅びに曝されることはなかったのだ。
だからこそ、今後二度と同じような事態を引き起こさないため、仮想人格の凍結処置を行った。
ノルン・システムの女神たち。ノルン・シスターズ、運命の三女神とも呼ばれた彼女たちとの別れは、イリアにとっても哀しい出来事だった。感情表現の豊かな女神たちは、まるで本当に生きているかのようだった。ノルン・ユニットの人口知能の上に備え付けられた仮想人格は、導士たちとの触れ合いや対話によって成長し、感情すらも獲得していったのだ。
イリアが彼女たちと知り合ったのは随分と昔のことだったし、それ以来、度々言葉を交わし、様々に語り合ったものだ。それでも――。
『まあ、いい。もう済んだことだ。女神たちは凍結され、システムは安定した。なにもいうことはない。このまま、ユグドラシル・システムが再び地球全土を掌握する日は……遠いだろうが』
「……そうね」
『そちらは、どうなのかね」
「……こちらも順調よ。極めてね」
『ふむ』
通信相手は、少し考え込むような素振りを見せた。
一方、イリアは、機械仕掛けの椅子に座り、手元で端末を動かしていた。鍵盤を叩く指の速度は、尋常ではない。凄まじい速度で膨大な量の文字列を叩き込んでいく。それらの文字列は、目の前に浮かんだ幻板に表示されていて、情報の津波が視界を席巻していくかのようだった。
そして、彼女の座っている機械仕掛けの椅子も、椅子に備わった端末も、この小さな部屋そのものも、最新技術の塊である。
『アストラル・パターン、か。やはりきみは、次期局長に相応しい頭脳の持ち主だな。天才としか言い様がない』
「褒めてもなにも出ないわよ」
『ただの賞賛だ。素直に受け取るといい』
「そうね。そうさせてもらおうかしら」
『しかし……よくもまあ、発見できたものだ。いや、違うな。発見することは、だれにだってできた。だが、きみは、その先を行く。だからこそ、ひとはきみを天才と呼ぶのだ』
通信相手がただただ褒め称えてくるものだから、イリアは、なんだか不思議な気分になってしまった。彼が手放しで賞賛してくることなどほとんどないからだ。彼も技術者としては当代随一の人物だ。頭脳でいえば、イリアにも引けを取らないし、知識量ならばイリアを陵駕している。そんな彼に褒められるのは悪い気はしないのだが、しかし、奇妙な感じがするのも確かだった。
『室長、こちらの準備、万端整いました。いつでも行けます』
「わかったわ。ということで、賢人さん。また、あとで話しましょう」
『ああ、そうしよう。邪魔して悪かったね』
通信が切れると、イリアの意識は、星紋調律機へと集中した。
アストラル・パターン。
星紋ともいうそれは、星神力に見られる特有の波形である。
この世界では、あらゆるものに魔素が宿り、それぞれが微妙ながらも異なる波形をしている。それら魔素の波形を固有波形と呼ぶのだが、固有波形は、魔素を魔力に練成したところで変化することがない。それは、星神力でも同じだ。
星神力は、魔力を超密度で練り上げ、昇華した状態を指すが、固有波形そのものには変化がない。
では、星紋とは、なにか。
星神力へと変化した魔力、魔素にのみ見られる、特有の波形変化のことであり、それこそが〈星〉なのではないか、というのがイリアの推察である。
〈星〉を視たものだけが魔力を星神力へと昇華し、星象現界を発動することが可能だというのが、現在の定説だ。現状、この定説を覆すような新たな発見はなく、故に、だれもが確実に星神力に到達し、星象現界を体得することはできない。
もし、〈星〉の秘密、核心に迫ることができたならば、戦団、いや、人類は大いなる力を得ることができるだろう。
それこそ、幻魔への対抗手段として、これ以上なく頼もしいものだ。
だれもが星神力へ至り、星象現界を駆使することができれば、鬼級幻魔の集団であっても、対等以上に戦えるようになるかもしれない。
故にこそ、星象現界の、星神力の解明に当たっていたのが魔法局であり、技術局だ。
そして、イリアが見出したのが、この星神力にのみに見られる新たな波形なのだ。
イリアは、これを星紋と命名している。
星紋は、固有波形同様、魔法士ごとに異なる波形をしており、ひとつとして同じ波形はなかった。そして、それら星紋と固有波形を徹底的に解析していく中で、ある特徴を発見したのである。
星紋は、固有波形に重なるもうひとつの固有波形なのではないか。
イリアは、この発見を元に、ユグドラシル・システムを駆使し、技術的再現を試みた。何度となく失敗を繰り返しながら、ついに形となったのが、この星紋調律機なのだ。
「星紋調律機、起動」
イリアが力強く宣言するとともに星紋調律機を作動させると、瞬間、目の前に光が散った。
星象現界・月黄泉は、いわずと知れた空間展開型だが、武装顕現型の側面を持つとも見られている。
通常、空間展開型の星象現界というのは、一定の範囲内に星神力の結界、星域を構築し、星域内になんらかの効果や影響を強く働かせるものだ。
たとえば神木神流の銃神戦域は、銃火器を所狭しと配置した星域を展開し、範囲内に存在する敵を間断なく撃ち続けるという星象現界であり、相馬流人の神風音楽堂は、まさに音楽堂とでもいうべき異空間を展開し、星域内に破壊的な旋律を響かせる星象現界である。
そのように星域とは、発動すると同時に展開、解除するまで効力を発揮するものだが、月黄泉は、その点でも大きく異なる。
発動と同時に具現するのは、美由理の背後に浮かぶ白銀の満月であり、それが星域の影のようなものなのではないか、というのが定説だ。そして、美由理が月黄泉の星域を展開すると、その範囲は宇宙全体に及ぶ。
では、星域を展開していない状態の月は、どのような状態なのか。
「月は影。影は、見えているだけで実体を持たない」
幸多《》が、美由理をその遥か後方から狙い撃ったのは、師の背に浮かぶ銀月が魔力体ですらないことを知っているからだ。二十二式狙撃銃・閃電改から射出された弾丸は、一瞬にして銀月に吸い込まれ、そして。
「え?」
幸多がきょとんとしたのは、銀月どころか美由理の姿そのものが消失したのを目の当たりにしたからだが。