第千百六十八話 彼と彼女と皆代小隊
幻想空間から現実世界への回帰は、ちょっとした違和感を伴う。
幻創機への神経接続による幻想体との同期を解除するのだ。幻想空間を現実世界と誤認させるほどの機械的な処理が解除されれば――それがどれほど慎重かつ安全なものであったとしても――、そうならざるを得ない。それを夢から覚めるのと同じと感じるものもいれば、まったく別の感じ方をするものもいる。ひとそれぞれだ。
そしてそれは、何十回、何百回と繰り返し行っているはずの導士ですら、決して慣れることはなかった。
「いつも思うけどさ。幻想空間から戻ってくるのってさ、なんか夢から覚めるような気分で、嫌だよねー」
「そうかな? 気分爽快って感じがするけど。幻想体の負っていた痛みとか、そういったものを全部引き継いでいるのならともかく、消えて失せるしさ」
「どちらの意見もわからなくはないな」
「そうですね。わたしも、どちらかといえば、香織に同意します」
「やっぱりー? さっすがアザリン。あたしの大親友!」
現実世界に戻ってきたばかりだというのに、既に普段通りの空気感を出している皆代小隊の面々を見れば、ルナは、安心感とともに微笑した。
香織が隣の寝台の字に飛びついて、その勢いの良さに、字が危うく寝台から転げ落ちそうになったが、香織が慌てて引き寄せて事なきを得る。そのまま頬ずりさえしそうな香織の様子には、字との仲の良さが現れている。星央魔導院以前からの親友だったというのだ。導士となり、幾多の死線をくぐり抜けてきたとあれば、以前にも増して仲良くなって当然だった。
そして、そんなふたりに対し、苦笑するしかない剣と枝連の反応もまた、いつも通りだ。
いつだって、皆代小隊の独特な空気感を作り上げるのは、香織なのだ。香織の孤軍奮闘にも等しい大活躍が、この柔らかで和やかな空気を生み出している。だから、ルナも香織が大好きだったし、いますぐにでも抱きつきたかった。
「どったの? ルナっち」
香織は、字の肩越しにルナを見ていた。普段のルナと様子が違う。一瞬、その原因がここに統魔がいないことなのではないか、と考えたが、どうやらそうではなさそうだった。
皆代小隊全員での訓練となれば、当然、隊長の統魔を含めることがほとんどだ。個々の魔法技量を高めることも重要なのは確かだが、小隊連携を強化することも大事だ。なんといっても隊長の統魔は、隊員たちに星装を貸与するという規格外の星象現界の使い手なのだ。それら星装の能力を使いこなせるようになることこそ、皆代小隊の、いや、戦団全体の力を底上げすることに直結する。
しかし、今回の訓練は、統魔が不在だった。
そして、隊長不在の状態での小隊連携を見直し、その練度を高めるのもまた、重要だった。
だから全員が奮起していたのだ。そして訓練が終われば、精神的な疲労感に包まれつつも、満足感もあった。だから、香織は字に全身を預けて見せたのだが、そうしたとき、視界に飛び込んできたルナの様子が気になってしまった。
所在なげに寝台に座っているルナの様子は、普段の訓練終わりの彼女とはまるで違っていた。
統魔がいないから、統魔にべったりすることができないから、ではない。統魔がいなかったとしても、だ。彼女は、ルナは、皆代小隊のだれかに話しかけたり、字や香織に身を寄せてくるものだ。
それが、普段のルナだ。
それなのに、今日のルナは、どうにも近寄りがたい空気感を出していた。
「みんな、仲良さそうだな、って」
「良さそう、じゃなくて、良いんだけど」
「うん。知ってる。それが本当に――」
香織の訂正に微笑みながらうなずき、ルナは言葉を飲み込んだ。
(本当に、羨ましいな)
その言葉を口に出してしまえば、どうにかなってしまうという確信があったからだ。だから、すべての想いを飲み込み、はっとした。気がつくと、香織の顔が間近にあったのだ。
「ちょ、香織?」
字が困惑しているのは、香織が彼女を抱え上げてルナの寝台へと飛び移り、字ごとルナを抱き締めたからだ。その結果、字はサンドイッチの具になってしまった。
「かおりん?」
「ルナっち、なにか悩んでる? お姉さんたちが相談に乗ってあげようか?」
「お姉さんたちって、わたしも?」
「当たり前でしょ。皆代小隊のお姉さん枠といったら、新野辺香織と上庄字なんだから」
「どう思う?」
「うーん……うちの小隊にお姉さん枠はないかなあ」
「こらっ、そこの悪ガキ枠ふたり! 茶々を入れない! こっちは真剣な話をしているの!」
「……だって」
「うむ」
枝連と剣は、香織と字、ルナの三人が一カ所に纏まっているのを見て、互いに視線を交わした。なにやら真剣に話し合うというのであれば、自分たちはこの場にいないほうがいいのではないかと目で語り合ったものの、とはいえ、ルナが困惑を隠せないといった表情なのも捨て置けず、どうしたものかと考え込むのだった。
風が、頬を撫でている。
魔界の風。濃密な魔素そのものが吹き抜けていくような感覚があって、魔法を浴びているような錯覚さえあった。五感が研ぎ澄まされ、第六感が、魔覚が鋭敏化していくのも、魔界ならではだ。
魔界を、空白地帯を模した幻想空間。
幻想空間の精度は、幻創機の改良と、ユグドラシル・システムの完成によって、究極にして完全なるものとなった――とは、技術局の発表だが、実際のところ、その通りだった。以前よりも遥かに現実感が強くなっている。
神経接続による幻想体との同期も、一切の遅延なく、完全無欠のものとなっている。
だから、というわけではないが、統魔は、朝彦の提案に様々な考えを巡らせた。兄弟子の提案に乗るのも、案外悪くはないかもしれない。それなりに面白い未来が待ち受けているような、そんな予感がある。
「それも面白そうですけどね」
「なんや。その言い方やと、断るの前提みたいやで」
「断りますから」
「なんでや」
朝彦は、統魔の何気ない、けれども確固たる意志を秘めた返答にも、別段、落胆する様子を見せなかった。ただ、笑顔だ。統魔の返事が朝彦の想定通りのものだったからにほかならない。
「ええやんけ。おれときみで天下取ろうや」
「天下って」
「おう。戦団最強の軍団を作るんや。で、つぎの総長になって、戦団を牛耳る。総長になったら、戦団の方針もなんもかんも想いのままやで」
「そんなわけ、ないじゃないですか」
「……ま、せやな。せやけど、最強の軍団を作るのは、悪くないと思うねんな。戦闘部十二軍団の中でも他の追随を許さない、最強無比の軍団。その軍団さえ出撃すれば、勝利が確定する、そんな軍団や」
「できますか?」
「おう。できるで」
朝彦は、統魔の質問に力強く頷いた。決して安請け合いではないし、出任せでもない。確信がある。
「きみさえおれば、な」
「おれがいれば」
「せや。皆代統魔くん。きみがいる軍団だけが、最強の軍団になれるんや。せやから、おれの第五軍団に移籍してくれたら最高やったんやけどな。まあ、無理強いはせんわ」
「最強の軍団……」
「なんや、気に入ったんか?」
「ええと……」
統魔は、朝彦の目を見つめながら、どういうべきか迷った。言葉を探す。
「最強の軍団が完成したら、鬼級幻魔討伐も最優先で回して貰えるんですか?」
「……まあ、おれの考えが正しかったら、そうなるやろな。なんといっても、最強の軍団やで? 十二軍団最強無比、他の追随を許さん、隔絶した戦力を誇る軍団や。鬼級幻魔の討伐任務なんてそうそうあらへんやろが……あったなら、真っ先に動員されるべき軍団になるやろ」
「……なるほど」
統魔は、朝彦の意見を聞き、拳を握り締めた。沸き上がってくるのは、力。幻想体を構成する情報が、魔素を収束させ、魔力へと練成、速やかに星神力へと昇華していく。
超高密度の魔素――星神力の発現を目の当たりにした朝彦は、目を細め、己もまた、星神力へと至った。
訓練の再開である。