第千百六十六話 彼女と皆代小隊(二)
月女神を発動したルナは、その背に負った三日月を右手で掴み取ると、力強く掲げた。すると、彼女の意のままに三日月が何倍にも巨大化する。
「月華大旋風!」
ルナが真言を発しながら、三日月を投げ放つ。それは超高速で回転しながら霊級幻魔の群れを薙ぎ倒し、あるいは切り刻んでいった。三日月から放たれる星神力の光が乱れ舞う様は、竜巻の如くだ。
皆代小隊の周囲に肉薄していた霊級幻魔は、それだけで殲滅されてしまった。
「うーん、相変わらずの威力」
「もうルナっちだけでいいんじゃ?」
「それはないだろう」
「そうです、ルナさんに続きましょう」
「冗談だってば」
「わかってるよ、かおりん!」
ルナは、香織を振り返り、満面の笑みを投げかけた。その笑顔には、絢爛たる眩しさ以上に、不可思議なほどの透明さがあって、香織は思わず見取れた。ルナの表情に目を奪われることなど、これまで何度だってあったことなのだが、今回は一段と強烈だった。
「どったの?」
「いま、女神を見たよ」
「はいはい」
剣は、香織が突拍子もないことをいってくることに慣れっこだったから、そんな一言に疑問を持たなかった。どうせ、ルナの星象現界のことをいっているのだろうと想ったのだ。
それはある意味で当たっていたのだが。
ルナの手に三日月が戻ってきたときには、霊級幻魔は完全に消滅していた。下位も上位も関係ない。月華大旋風の前には抵抗すらできず、滅び去るほかなかったのだ。
つぎは、第二陣。
獣級幻魔の大群が、丘の上の皆代小隊目掛けて進軍してくる。
「相手は獣級以上。となれば戦術を変えるべきだな」
「アザリン、任せた!」
「はい、任されました。では――」
字は、香織に任されるまでもなく、一瞬のうちに頭の中で組み上げた戦術を四人に伝えた。字は、皆代小隊の副長である。隊長の統魔が攻手にして最大火力である皆代小隊における頭脳こそ、彼女なのだ。元より情報の収集、分析を得意分野とする彼女にとってしてみれば、小隊の頭脳を担うことは問題ではなかった。
その上、補手は、補型魔法の使い手であるだけでなく、小隊に足りない部分を補う役割を受け持つことが多い。
まさに小隊の補い手なのだ。
「はいはーい」
「了解」
「うむ、問題ない」
「わかった!」
字の指示に従い、四人は、四方に飛び散った。丘の上の一点に集まり、留まり続けるのは、敵の数からいって得策ではない。
確かに枝連の防型魔法は強固にして堅牢だ。獣級程度の攻撃ならば、集中砲火を浴びようともびくともしないだろうし、仮に多少傷ついたとしても、すぐに復元できるだろう。が、そのあとに待ち受ける展開を考えれば、いまのうちに動いたほうがいい。
さすがに妖級の集中攻撃を受ければ、枝連といえど、無事では済むまい。
まずは、丘に迫り来る獣級の群れを薙ぎ倒すことだ。
「風迅烈破!」
「蒼雷真流撃!」
「焔王猛追打!」
「弐百参式・激流砲!」
「月華大烈風!」
五人全員がそれぞれに攻型魔法を放ち、獣級の群れを撃破していく。もはや皆代小隊の導士たちにとっては、下位獣級幻魔など相手にならないのだ。
ガルムが火球を放ち、フェンリルが吹雪を起こし、ケットシーが雨を降らせ、カーシーが旋風を巻き起こそうとも、ライジュウやヴィゾーヴニルが飛び回り、アスピスやコカトリスが暴れ回ろうとも、皆代小隊の敵ではない。
やや硬い障害物に過ぎなかった。
ルナが圧倒的な存在感を放っているが、それだけではない。香織も、剣も、字も、枝連だって、下位獣級幻魔には負ける要素がなかった。少なくとも、一対一ならば絶対に負けないという確信があった。
「だけど、油断は禁物ですよ」
「はいはーい」
「わかってるって」
字の注意に、香織と剣が苦笑する。いわれるまでもないことだ。霊級すら、高位導士の命を奪うことがありうる。余程油断しない限り起こらないことであっても、絶対にありえないことではないのだ。
幻魔は、人類の天敵。
その事実を忘れてはならない。
(じゃあ、わたしは――)
ルナは、凄まじい土煙を上げながら接近してくる超巨大質量を見据えながら、考える。自分は、いったい、なんなのか。
人間でも、幻魔でもない、未知の存在である自分は。
「ルナっち!」
「だいじょうぶだよ」
香織の心配を一言で制すると、ルナは、轟音とともに迫りくる爆煙の狭間にベヘモスの異形を見た。ベヘモス。上位獣級幻魔に類別される幻魔の中でも、特に強大な力を持つそれは、妖級に等しいといわれることもある。それほどの魔素質量を秘めているというだけでなく、巨大さも圧倒的なのだ。
最大二十メートルに及ぶ巨躯を誇り、ただ歩き回るだけで周囲一帯を破壊し尽くす、災厄の化身。故に、その進路上に存在した数多の獣級が踏み潰され、あるいは吹き飛ばされていくのだが、幻魔に仲間意識などあろうはずもなく、躊躇も逡巡もありえない。全身全霊の力を込めて爆走してきている。
ルナは、そんな怪物を見つめながら、前方に右腕を掲げた。軽く、一切の力を込めず。ベヘモスの進軍は止まらない。大地を抉り、丘の斜面を切り崩しながら殺到してくるそれは、災害以外のなにものでもなかった。
幻魔災害。
まさに幻魔災害が形を成したものだ。
だが、ルナは微動だにしない。
「わたしには、敵わない」
ルナは、その言葉を真言として、手の先に星神力の壁を生み出した。白銀の光の壁がベヘモスの巨体を受け止めると、凄まじい衝撃音が鳴り響いた。それこそ、この幻想空間全体を震撼させるほどの。
ベヘモスの咆哮は、世界を切り裂く雷鳴の如くであり、大地を激しく揺るがし、周囲の地中から岩石を隆起させた。大地に無数の亀裂が走り、一帯の地形を激変させていく。魔法だ。ベヘモスの地属性魔法。その最中にあっても、ルナは動かない。ベヘモスを見据えたまま、その超巨大質量が身動きひとつ取れなくなっているのを確認する。そして、
「月華大狂咲」
真言とともにルナの背後から解き放たれた三日月が、一瞬にしてベヘモスの巨躯を切り刻み、肉塊へと変えた。それもとてつもなく巨大な肉塊だ。魔晶体という肉《物質》の塊。魔晶核を破壊され、絶命したベヘモスの断末魔は、まったく聞こえなかった。
一瞬だった。
ほんの一瞬。
それこそ、刹那のうちにすべてが終わったのだ。
その一部始終を見ていた香織は、心からの賞賛を送った。
「さっすがルナっちだね!」
「妖級相手にも負けやしないんだから、当然っちゃ当然かな」
「うむ。相変わらず、凄まじいな」
「本当、凄い」
「……そうだね。わたしって、凄い」
「そういうところも、素敵だな、ルナっち」
「そう?」
「うん、とっても!」
香織は、ルナが少しばかり照れくさそうにしたから、余計に愛おしく想った。彼女が香織に合わせてくれていることは、常々感じていたことだ。
本来の彼女は、もっと引っ込み思案で、内向的な性格の持ち主なのではないか。そんな風に思うのは、彼女が統魔にべったりで、統魔にしか極力甘えようとしないことを知っているからだ。
それでも、隊の空気を壊さないよう、隊の雰囲気に馴染めるよう、香織たちに合わせるように振る舞ってくれている。
それが、香織には嬉しいのだ。
いや、香織だけではない。剣も、枝連も、字も、皆代小隊の全員が、ルナの気遣いを感じ取っていた。それもここのところのことであり、それが不思議なのだ。
なぜだか、最近のルナは、皆代小隊の全員に優しすぎるくらいに優しい。表情ひとつとっても、そうだった。
皆を慈しむようなまなざしをしていることが、多い。
いまも、彼女が香織たちを見る目は、まるで慈母のようであり、以前の彼女とはまるで違っていた。
剣は、香織が彼女を見て、女神を見たといった意味がわかったような気がした。
確かに、そこには女神がいたのだ。
月の女神が。