第千百六十一話 師弟(六)
叩きつけられたのは、神速の一撃。
視界が激しく揺れて、天を仰ぎ見た。凄まじい勢いで雲が流れていく。視界が、いや、世界が回転している。そのまま強く吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた衝撃が背中を貫く。脳が揺れる。これほどの痛撃を食らったのは、人間相手ではいつ以来か。
それほどまでの衝撃。
即座に跳ね起きて、その場を飛び離れた。青白い光が、さながら稲妻のように美由理が立っていた場所に突き刺さった。舗装された道路に大穴が空く。
三度、美由理が時間を静止させるも、牽制にもならない。止まるのは、その力によって引き起こされた破壊の余波だけであって、幸多自身は動き続けている。
美由理は、さらにその場から飛び退きつつ、律像を展開した。
先程の攻撃は、直撃の寸前、簡易魔法による魔法盾を瞬時に幾重にも発動したことで、事なきを得ている。幸多の拳が無数の魔法盾を難なく突き破ったのだが、結果、その威力を大きく減衰させたのである。
それはつまり、そうでもしなければ致命的な一撃を食らっていたということを意味している。
(とてつもないな)
美由理は、時間静止の解除と同時に法機を召喚、飛び乗った瞬間に急上昇した。地上数十メートルの上空へ。飛行魔法を法機に任せることにより、より多くの意識を幸多に割り当てられるというわけだ。
そこまでしなければならない相手なのだ。
雑居ビルが倒壊し、粉塵を舞い上げていく中、青白い燐光が散乱した。その光の粒子のひとつひとつがまるで宇宙を巡る星々のような煌めきを発していて、美由理は、目を見開く。
幸多の、源理の力とは、いったいなんなのか。
唯一悪魔を滅ぼすことのできる力であり、天使と悪魔が持つ力でもあるそれを、どうして人間である幸多が発現させることができたのか。元々生まれ持っていたものなのか。それを生まれ持っていたがために魔素を宿していなかったのか。いや、そんなわけはない。天使も悪魔も膨大な魔素を宿す、幻魔そのものなのだ。幻魔であって幻魔ならざるもの。それが天使と悪魔であり、であれば、幸多はいったいなにものなのか。
青白い光を放つ幸多は、まさに超人的な能力を発揮していた。
元より、身体能力だけならば星将級といっても過言ではない。
魔法を使わず、ただ肉体だけを駆使して戦うというのであれば、幸多は導士の中でも最上位に位置すること間違いなかった。それだけの身体能力、運動神経、反射を誇るが、魔法社会であるが故、魔法を使えないが故に過小評価されている。
いや、違う。
それは正しい評価だ。
魔法を使えないものは、本来、幻魔殲滅を目的とする戦闘集団には不要なのだ。
幻魔は、通常兵器が通用せず、魔法でしか倒せない。
F型兵装の開発によってその大前提こそ崩れ去ったものの、F型兵装を十全に使いこなせる人間がどれだけいるというのか。魔法士に扱えるものではないし、ましてや魔法不能者だからといって完璧に活用できる代物ではない。
イリアがそう断言している。
『幸多くんだからこそ、F型兵装はその真価を発揮できているのよ』
そんな兵器群を使いこなしている幸多の戦闘能力は、魔法士にも引けを取らなかった。さすがに鬼級幻魔相手には食い下がることすら困難だが、しかし、妖級以下の幻魔とは対等以上に戦えている。
だから、だれもが彼を評価しているのだし、期待を寄せているのだ。
そして、源理の力。
魔法を用いた超高速戦闘に慣れた美由理の目すら追いつけないほどの速度で地を駆け、空を行く幸多は、とてもではないが理解しがたい領域にあった。美由理が真言を唱え、複数の攻型魔法を同時発動すれば、それらの尽くを回避しきって見せたのだ。
その速度、反応、軌道――どれをとっても一級品どころの話ではなかった。
ただでさえ、星神力による攻型魔法は、破壊力も精度も範囲も何倍にも膨れ上がっている。並の魔法士では対応しきれるものではないし、ましてや、彼は完全無能者だ。しかも、頼みのF型兵装は、月黄泉の前では使い物にならない。
いま、幸多が頼りにしているのは、己の身ひとつ。
己が身に宿る力の限りを尽くし、虚空を駆けていた。
飛来した氷塊を殴りつけ、その反動で氷柱に飛び移ったかと思えば、その上を駆け抜け、跳躍。怒濤の如く押し寄せる氷礫をつぎつぎと踏みつけ、飛び越え、美由理へと迫る。青白い閃光となって、だ。その速度たるや、神速の如し、である。
「大氷壁」
美由理の魔法が、幸多の眼前にとてつもなく巨大な氷壁を出現させるも、それすらも彼は無視した。
「なっ――」
美由理が愕然としたのは、幸多が大氷壁の向こう側から内側へと擦り抜けてきたからだ。その際、幸多の全身は、青白い光の粒子の集合体になっていたのを美由理は認めた。そして、氷壁を通過すると同時に元に戻ったのである。
まるで魔法だ。
美由理は、咄嗟に距離を取り、先程同様に魔法壁を張り巡らせたが、無駄だった。衝撃が、美由理の背中に突き刺さったのだ。息が止まり、目の前が真っ暗になった。
全身に激痛を感じたのは、またしても地面に叩きつけられたからだろう。
だが、それだけだ。
幻想体に致命的な一撃を叩きつけられたような感覚があったが、判然としないながらも意識が幻想空間に残っているということは、つまり、斃されていないということだ。
両手を地面につき、体を起こす。全身が痺れていて、頭がくらくらするが、問題はない。少なくとも生きてはいるのだ。それならばどうとでもなる。導衣に仕込んだ簡易魔法で自身を治療しつつ、振り返る。
遥か後方、幸多がいるはずの方向に目を向ければ、水穂市の市街地が廃墟同然の有り様と化していた。高層建築物群が軒並み倒壊していて、それらの残骸が道路を埋め尽くしている。渦巻く膨大な冷気は、美由理の同時発動魔法の残滓である。
その冷気の渦の中に幸多の姿があった。
美由理は、全身の痛みが消え去るのを待たずして、飛行魔法を唱えた。幸多に近寄る。
幸多は、廃墟と化した建物の中に倒れ伏しいる。近づかずとも、彼が意識を保っていることは理解できる。でなければ、幻想体は維持されないものだ。
幻想空間に存在しているということは、つまり、無事だということにほかならない。
幸多が、体を起こそうとして、苦心していた。
美由理は、そんな彼の側に歩み寄ると、手を差し伸べた。幸多は、師の手を握り締め、その力を頼りに立ち上がった。体中から力が抜けきっていて、己の力だけでは立ち上がることすらままならなかった。頭の中がぼうっとしている。なにがなんだかわからない。
ぼんやりと、美由理の顔を見ている。
白雲が渦巻く青空の下、美由理の顔はいつになく晴れ晴れとしているように見えた。だから、だろう。ずっと見つめていたいと思った。
憧れのひとだ。
まさか、自分の師になってくれるなどと想いも寄らなかったし、こうしてつきっきりで鍛え上げてくれるなど、考えたこともない。
幸多にとっていまこの時間は、至福の時としか言い様がないのだ。そしてこの至福の時間が、この半年間でどれほどあったか。数え出せば切りがない。そんなことを考えていたからだろう。幸多は、立ち上がることこそできたものの、勢い余って美由理に倒れかかりそうになり、抱き留められた。
「だいじょうぶか?」
「は、はい……!」
「本当に?」
美由理は、弟子の顔を覗き込んだが、即座に彼が目線を逸らしたものだから、訝しんだ。が、それ以上は聞かず、別のことをいった。
「……きみのそれは、源理の力、ということになった」
「源理の力?」
「情報子制御能力の、便宜上の呼び方だ」
「便宜上……ですか」
「そうだ。戦団最高会議は、きみと源理の力を対悪魔戦略の要とした。当然だな。悪魔を滅ぼす唯一の力なのだから」
「悪魔を滅ぼす唯一の――」
幸多は、美由理の目を見て、それから己の手を見た。情報子の光は消え失せ、再び燃え上がることはなさそうだが、実感は残り続けている。
源理の力。
それが悪魔を滅ぼすための力だというのであれば、なんとしても使いこなせるようにならなければならないということは、いわれるまでもなくわかることだ。
悪魔は、人類に突きつけられた具体的な滅びなのだから。