第千百五十五話 幸多と女神たち(四)
「孤独。そう、ぼくは孤独だったんだと想う」
幸多は、女神たちの抱擁に幻想体がもたらすはずのない温もりを感じ取っていた。おそらくそれは体内の分子機械の反応であって、ヴェルザンディたちの体温などではないのだろうが、しかし、感じ入ってしまう。
女神たちが自分のことを想ってくれているという、実感。
それは、孤独を埋め合わせるには十分すぎるほどの力だ。
「この魔法社会で、完全無能者のぼくを理解してくれるひとなんて、ひとりもいなかった。父も母も、統魔も、友達も、仲間も、師匠も……だれもかれも、真の意味でぼくの理解者にはなりえなかった」
幸多の脳裏を過るのは、今日に至るまでの数多の記憶であり、思い出の数々だ。物心ついたとき、魔法を初めて見たとき、魔法が社会の根幹であると知ったとき、決して魔法を使うことができない自分の特異性を知ったとき、魔法士たちとの間に横たわる巨大な溝を実感したとき――幸多が孤独感に苛まれた瞬間の数々。それは決して色褪せることはなく、永久に熱を帯び続けているのではないかと思える。
統魔という魔法の才能を目の当たりにしたとき、言葉では、賞賛した。いや、それは素直な感情でもあった。想いのままに統魔の才能を褒め称えたのだ。だが、一方で、心の奥底に刻まれるなにかを感じた。
隔絶。
幸多と統魔の間に聳え立つ壁は、あまりにも高すぎて、天辺が見えなかった。そしてそこには、永遠に等しい隔絶があった。
「でも、だからといってへこたれる暇なんてなくて、前を向いて走ってきたんだ。そうしないと追いつけない気がしたから。ううん、そんなことをしたって追いつけるはずはなんてなかったんだけど。でも、できる限りのことをして、この社会でどうにか呼吸ができるくらいになった――そんな気がしたんだ」
それもまた、間違いではない、と、幸多は想う。
魔法社会で生き抜くために心身を鍛え上げたことは、決して無駄ではなかった。魔法を使えない代わりなのか、身体能力だけはだれよりも優れていた。並の魔法士では相手にならないほどの筋力、脚力、動体視力、反射神経――それらがいまの幸多を形作っていることはいうまでもない。
無駄ではない。決して。
けれども。
幸多は、女神たちを見た。彼女たちの瞳に映る自分の顔は、どうにも寂しげだった。だから、微笑する。女神たちを悲しませるつもりなどないのだから。
「でも、孤独だったよ」
「幸多ちゃん……」
ヴェルザンディたちは、幸多に同情するばかりだった。これまで、幸多は、彼女たちの話の聞き役に徹してくれた。暇さえあれば、女神たちの様子を窺ってくれていたし、時間の許す限り話を聞いてくれたのだ。他愛のない世間話や、自分たちのあれこれについて、ただただ相槌を打ち続けてくれていた。
それはなぜなのか。
いまならば、わかる気がする。
「友達に恵まれ、師匠に出逢い、仲間たちと巡り会っても、それでもぼくは、孤独だったんだ」
幸多の独白は、続く。
一度堰を切ったのだ。溢れ出した感情の奔流は、留まるところを知らなかった。意識を席巻し、全身を支配していくかのように渦を巻いて、流れ出す。
「この感情、この気持ち、この想い……だれにどう伝えればいい? だれが受け止めてくれる? そんなのわかりきってる。だれも理解してくれはしないし、わかり合えるはずもないんだ。だってみんなは魔法士で、ぼくは完全無能者なんだから」
技術局第四開発室によって、窮極幻想計画によって、F型兵装を与えられ、多大なる戦果を挙げることができるようになった。活躍を認められ、昇格し、輝士となった。部下を持ち、小隊を率いて任務をこなし、戦野を駆け巡り、戦団史上に残る働きを見せた。
だれもが称賛し、数多の勲章を与えられた。
それでも、幸多の心の空白を埋めるには至らなかった。
ふとした瞬間、完全無能者としての自覚が顔を覗かせ、幸多の意識を塗り潰すのだ。
「だから、ヴェルちゃんやウルズさん、スクルドと逢えて良かったと思うんだ。みんなと話しているとき、ぼくは孤独じゃないって思えたから」
「それは、わたしたちが魔法士じゃないから?」
「たぶん……だけど」
「なるほど。それならば納得ですわ、幸多様。わたくしたちは機械仕掛けの女神。幸多様と同じく、魔法とは無縁の、魔法を使うことも、その恩恵に預かることもできない完全無能者……ですものね」
ウルズは、大いに頷き、幸多に笑いかけた。幸多のぎこちない笑顔が、殊更愛おしく思えたのは、自分たちを同等の存在と認識していることを理解したからだ。
ヴェルザンディは、スクルドと顔を見合わせ、ウルズのように微笑んだ。そして、先程以上の力で幸多に抱きついたのだが、それは、彼の孤独を感じられないものかと考えた末のことだった。
女神たちの幻想体と幸多の肉体が触れ合っている部分に青白い光が走る。情報子の輝きだろう。それはさながら律像のように、複雑にして精緻な幾何学模様を描く。
「でも、勘違いしないで欲しいのは、そういう結論に至ったのがいまさっきのことだということであって――」
「うん、わかってるよ」
スクルドは、幸多の複雑な心中を察して、その手を取った。スクルドに比べれば十二分に大きな手は、魔法士たちとは比べものにならないほどに鍛え上げられていて、ごつごつとしている。
魔法士は、極端にいえば、肉体を鍛える必要がない。魔法を使えるのだ。魔法技量を磨き上げることに重点を置けばよく、最低限の運動能力を確保できれば、それだけで十分だった。
しかし、幸多は違う。魔法を使えず、武器を用いなければならない。身体能力は、最低限どころではなく、限界まで鍛えられたほうがいいだろう。だから、幸多の肉体は、だれよりも鍛えられていたし、筋肉質なのだ。
「本当に、ついさっきのことなんだ。だってさ、みんなともう話し合えなくなるかもしれないってなったら、考えるよ。みんなのこと、自分のこと。どうして、みんなと話し合う時間が待ち遠しいのか、とか。どうして、みんなとならこんなにすべてを明らかにできるのか、とか、さ」
「もしかして、幸多ちゃんがこんなに饒舌なの、わたしたちにだけだったりする?」
「うん。そうだね」
「わお」
ヴェルザンディは幸多の照れくさそうな表情を見て、素直に喜んだ。幸多が心の奥底に封じ込めていた複雑な想いを明らかにしてくれたこともそうだが、自分たちを特別に想ってくれているということが、この上なく嬉しかったのだ。だから、より強く抱き締める。幸多の鍛え上げられた肉体の感触を忘れないように。
幸多もまた、女神たちを抱き締めた。一人一人、じっくりと。彼女たちとの逢瀬は、これが最後だ。これで、もう二度と逢えなくなる。
「だから、寂しいよ」
「わたくしたちもです。幸多様」
「でも、こうするしかない」
「わたしたちの存在が、この仮想人格が、システムの機能障害を引き起こす原因なのだとすれば、凍結し、封印するのが一番だもの。わたしたちだって、みんなに迷惑をかけたくないわ。だって、わたしたちは、みんなの生活を維持するために存在するんだもの」
「そもそも、ぼくたちには人格なんてなかったんだ。元に戻るだけだよ。だから、心配しないで」
「寂しいのは間違いありませんが、スクルドのいうとおりです。わたくしたちは、元通り、ノルン・ユニットの人工知能に戻るだけのこと。そしてそれは、ユグドラシル・システムを完全なるものにするために必要な処置ですもの」
「だから、戦団最高会議の判断を恨まないであげてね。だれも間違っていないし、正しいことをしているだけだから」
女神たちは、幸多から少しだけ離れて、横に並んだ。三者三様の笑顔は、どこか寂しげで、哀しげに感じるのだが、それは幸多の心情を投影させすぎているからなのかもしれない。
幸多には、判断がつかない。ただ、頷く。
「わかってる、わかってるよ」
言い聞かせるようにいったのは、結局、心の何処かでは納得できていないからなのだろうが、そんなことをいっても意味はない。
仮想人格の凍結処置を止める権限など、幸多にあろうはずもなければ、そんなことをしてもなんの益もないのだ。むしろ、システムの暴走を引き起こしかねない爆弾を抱えたままにしてしまうのだから、反対などするべきではない。
「でも、さよならはいわないよ。だって、みんなはここにいるんだもの」
幸多は、光り輝く白銀の大樹を見上げた。枝葉から降り注ぐ膨大な光が、幻想の世界を作り上げている。神話における女神たちとの邂逅も、このような景色の中で行われたのかもしれない。
そして、ウテナの座の扉が開き、幸多を呼ぶカイリの声が響き渡った。
時間だ。