第千百四十五話 騎士王アーサーと円卓の騎士(十)
サタンが軽く掲げた右手の先、わずかばかりの空間を挟んで、コールブランドの湖面のように美しい刀身がある。アーサーの巨躯と同等の長さを誇る特大剣は、当然のことながら、サタンよりも遥かに巨大だ。分厚い刀身は、それだけでその視界を埋め尽くす。
そして、それが超密度の魔素の塊にして、星神力にも匹敵するほどの魔力であることは、火を見るより明らかだ。強大な力を持つ、魔法の剣。魔法で生み出される幻魔の得物。
だが、星象現界には到達していない、物質化した魔法。
「汝は何者ぞ」
アーサーが、コールブランドが微動だにしなくなってしまったことで、サタンの存在をようやく認識した。これまで、この広大な戦場に吹き荒れる莫大極まりない魔力のせいもあって、サタンだけを認識するということは簡単なことではなかった。
アヴァロン騎士軍だけで、十二体もの鬼級が投入されているのだ。
その上で、アヴァロンの進軍に対し、協力して食い止めようとする動きがあった。そして戦場に現れた鬼級は、円卓の騎士に匹敵する数だ。
アヴァロン周辺の広域を戦場とするこの戦いは、大いなる魔素の乱れを生み、何体の鬼級がこの地に集っているのか、だれも正しい数を把握できていない状態だった。
アーサーの能力をもってしても、だ。
だが、そんなことは、どうでもいい。
アーサーは、コールブランドを握る手に力を込めた。魔力を注ぎ、威力を高める。
「ぼくは、サタン。たぶん、きみがこうして軍勢を率いて動き出した原因なんだと思う」
サタンは、悪ぶれることもなく告げると、右手を握り締めて見せた。すると、彼の魔力によって掴まれていたコールブランドの刀身が、その中程で折れてしまった。見事に、そして、呆気なく。刀身が無数の破片を撒き散らしながら地上に落下し、大地に突き刺されば、それだけで局所的な大地震を起こし、大量の粉塵を舞い上げた。
赤黒い土砂が嵐のように吹き荒び、サタンとアーサーをも飲み込んだ。
アーサーがコールブランドを振り抜けたのは、サタンが受け止めていた部分がなくなったからだ。残った部分だけを振り切れば、やはり凄まじい剣風が発生し、粉塵を吹き飛ばす。その間、アーサーの目は、サタンを凝視していた。
「原因だと?」
「きみがアヴァロンの全軍を動かし、この地域一帯を制圧すると言い放ったのは、円卓の騎士を失ったからだったよね。クー・フーリンといったっけ。あの槍の使い手の」
サタンは、アーサーがこちらを睨めつけているのを認めて、目を細めた。白金の甲冑を纏う巨人は、その兜の奥に幻魔の双眸を隠している。紅く黒く、そして禍々しく輝く両目が、サタンを捉えて放さない。怒りが充ち満ちていく。
「彼を殺したのは、ぼくだ」
「なんだと」
アーサーは、少年染みた姿をした鬼級を見据え、その周囲の律像が不気味に変化していく様を目の当たりにした。複雑にして異形、膨大にして無限ともいえる変化。それは一瞬の内にアーサーの視界を埋め尽くし、前方の空中を染め上げた。
律像だけで圧力を感じるほどだった。
アーサーがここまで威圧感を覚えたことは、過去に一度しかない。
エベルと直接戦った一度だけ――。
「ありえぬ」
アーサーは憤り、コールブランドに力を込めた。特大剣が一瞬にして復元すると、さらなる力を帯びる。湖面のように透き通っていた刀身が白金色の光を帯び、周囲の空間を歪めるほどの魔力を帯びる。それはさながら重力であり、アーサーがコールブランドを構え直すべく軽く振り上げただけで、辺り一帯が混沌の如くねじ曲がるほどだった。
「嘘じゃないよ。ぼくが殺したんだ。きみの大切な筆頭騎士をさ。だから、恨むなら、ぼくを恨んでよ。ぼくは敵対者だかね。すべての、きみの――」
サタンは、コールブランドの剣風を微風のように感じながら、律像を完成させた。唱える。
「憤怒」
真言の発声と同時に発動したのは、サタンの星象現界である。律像が星々の煌めきを見せつけるかのように膨大化したかと思えば、サタンを星神力の衣で覆っていく。それはさながら黒き竜の鱗の如くであり、背中を割るようにして異形の翼が生えた。三対六枚の飛膜を持つ翼。飛竜の翼だ。頭部を覆うのは、異形の冠。黒く禍々しい王冠は、彼が生まれながらの支配者であることを示しているかのようだった。最後に、彼の背後に黒い光の輪が出現した。
悪魔の象徴たる、黒環である。
サタンは、星象現界の発動と同時に、強化されたはずのコールブランドを触れることなく破壊してみせると、視線だけでアーサーを圧倒した。アーサーが思わず後退りしたのは、サタンの迫力に飲まれたからに他ならない。
そして、その事実がアーサーの心を逆撫でにするのだ。
「ありえぬ……ありえぬことだ! あってはならぬことだ!」
アーサーにとって、これほどの屈辱はなかった。これほどまでの恥辱はなかった。これは否定だ。アーサーの、エベルの。幻魔大帝による魔界一統を否定しているのだ。
いま、彼の目の前にいる、小さな小さな鬼級幻魔が、アーサーの全てを否定しようとしている。
その手始めが、クー・フーリンだった。
アーサーは、コールブランドを三度復元すると、横薙ぎに振り抜こうとした。が、やはり、サタンに触れることはなかった。今度は、根本から消し飛ばされ、アーサーの両手にも甚大な被害が及ぶ。指先から腕の中程までが黒い炎に灼かれ、消滅したのだ。破滅的な痛みがアーサーを襲うが、彼は怯まない。
己の歴史を全否定する敵対者の存在が、アーサーをしてこれまで到達しえなかった境地に立たせたのだ。足を踏ん張れば、それだけで大地が割れ、地中から魔素が噴出する。そうして空中に満ちた魔素を吸収し、己が魔力へと変換、両腕を復元して見せるも、そんなものでサタンが動じるわけもない。
サタンは、アーサーのそんな反応を当然の出来事として受け取っていた。鬼級なのだ。その程度の芸当、できて当たり前だ。超自然の存在であり、神霊にも等しい。
かつての世界ならば、まさに神として君臨することも不可能ではないのが、鬼級なのだ。
(でも、そんなことに価値はない)
サタンは、冷ややかにアーサーを見ている。アーサーの周囲に律像が浮かび、無数の光弾が撃ち出された。それらが一瞬にしてサタンに殺到するも、彼に触れることはない。憤怒の鎧が、その際限なき怒りの炎でもって、近づくものを灼き尽くしてしまうからだ。
さらにアーサーは、天から光の剣を降らせた。コールブランドにも匹敵する巨大な光の剣。おそらく小さな〈殻〉なら、一撃で滅ぼすほどの力を持っているはずだが、やはり、サタンには通用しない。竜の鎧が発する超高熱が、光の剣を構成する魔力をも燃やし尽くしてしまった。
アーサーの魔法による大攻勢は続く。だが、いずれもサタンには全く効果がなく、彼は、同情を禁じ得なかった。円卓の騎士たちがアーサーの援護をすることは、できない。
騎士たちが入り込めるような余地のある戦いではないのだ。
次元が違う。
アーサーでさえ、そうだ。アーサーでさえ、円卓の騎士とは次元の違う力を持つ。その攻撃の一つ一つが、円卓の騎士にとっての全身全霊の一撃に等しいのだ。
「でも、駄目だ。それじゃあ、ぼくには届かない。ぼくを傷つけることすらできないよ」
「……ありえぬ。あってはならぬ。これは間違いだ。すべて、間違いなのだ」
「そうだね。間違いだよ。きみの。きみたちの」
サタンは冷ややかに断言すると、軽く右手を翳した。竜鱗に鎧われた右手の先に火気が収束し、黒い炎の塊となって撃ち出される。火線は、一瞬にしてアーサーの巨躯を貫き、その巨体の右半分を削り取ったのだった。
アーサーの巨大さは、あまりにも大きな的だ。