第千百三十一話 世界の理
統魔は、膝の上で眠る少女の横顔を見ていた。泣き叫び続け、あらん限りの力を使い尽くした少女の表情は、しかし、いまや安穏たるものだった。涙の跡が僅かに残っているが、大した問題ではない
重要なのは、彼女が安心して眠っていることだ。
ルナである。
彼女が星象現界を駆使したおかげもあって、全員無事に任務を終えることができたのだ、という。
統魔には、よくわからない。
ダンジョンの奥深く、幻魔製造工場で二体の鬼級幻魔と遭遇したことまでは、覚えている。騎士然とした幻魔と、老人めいた幻魔だ。いずれ劣らぬ鬼級であり、圧倒的な力を持っていることは想像に難くなかった。まともにぶつかり合えば、調査隊に勝ち目はない。いくら統魔が規格外の星象現界の使い手とはいっても、だ。
統魔は、黙考する。
戦団本部医療棟、その三階にある一室には、皆代小隊が集まっていた。寝台に統魔がいて、ルナが統魔の膝を枕にして眠りこけている。その様子は、あまりにも普段と変わらないから、なにひとつ問題が起きなかったのではないかと思えるほどだ。ただし、ここが病室であることを覗けば、だが。
そして、そこが重要なのだ。
「結局、なんの問題もなかったんだよね?」
「それが不思議なんですよ」
香織と字が訝しげな、納得いかないと言わんばかりの顔をして、統魔を見た。彼は、病衣を身につけているものの、見た限りでは外傷ひとつない。外傷どころか、臓器にも一切の傷跡や問題が見つからなかった、と、医務局が誇る最新設備による検査結果は断言したのだ。
それは、いま現在に限ったものではない。
一定時間内の過去に遡ってまで行われた精密検査の結果である。
幻魔との戦闘は、互いに魔法を用いて行うものだ。魔法戦は、身体的外傷だけでなく、精神的外傷を負うことも少なくない。精神に作用する魔法のみならず、物質に作用する魔法にすら、そのような力が秘められている場合があるのだ。
故に、現在の状態のみならず、時間を遡って検査する必要が出てくる。
精神への魔法は、精神の深層領域に潜伏し、時間とともに心身を侵蝕していく可能性があるからだ。そして、そういった類の魔法は、顕在化してからでは手遅れになる場合もある。
故に、徹底的な精密検査を行う必要があるのだが、今回の統魔の検査結果は、すべての点においてなんら問題がないというものだった。
致命傷の痕跡もなければ、臓器が傷ついた様子も見当たらず、ましてや精神の領域はまったくといっていいほどに無傷で、見とれるほどに綺麗なのだという。
『いつ見てもうっとりするくらいだよ、きみの精神状態っていうのはさ』
妻鹿愛は、いつものようにそう述べ、統魔に一切の問題がないことを断定した。
それなのに今夜は医療棟で休むようにと言いつけられたのは疑問だったが、統魔がそのことで異論を唱えるわけにもいかなかった。
医務局長の判断は、絶対だ。
つまり、統魔の心身に問題がないということも、絶対だということだが。
「多少、疲れはあるけどな。それくらいで、あとはなんの問題もないんだよ。妻鹿局長の仰る通りにさ」
統魔は、診断結果を聞いたルナの喜びぶりを想いだし、くすりと笑った。そのあとのことだ。彼女は、突然、気を失ってしまった。まるで電池が切れた玩具のように。
それが疲労の蓄積した結果だろうことは、統魔以外のだれの目にも明らかだった。
ルナは、長時間に渡って星象現界を酷使していたのだ。それこそ、全身全霊、力の限りを尽くしていた。
それはなぜか。
理由は、単純だ。
「でもでもぉ、たいちょが死んだんじゃないかって、みんな心配だったんだよー」
「そうだよ、統魔くん。いくら診断結果が良くてもさ、あのときは確かに……確かに?」
「おれたちは、隊長のことが心配で、だな」
「心配してくれるのは嬉しいんだが、そこまでいくと過保護じゃないか? 死んだ人間が生き返るわけもなし。おれは生きてる。ってことはだ、死んじゃあいないってことだろ」
統魔は、部下たちの顔を見回しながら、いった。
話によれば、統魔は、鬼級幻魔クー・フーリンの投げ放った槍に貫かれたのだ、という。それをもって統魔が殺されてしまったと誤認し、ルナが暴走、朝彦たちは苦境を脱するべく全戦力でもって事に当たろうとした。しかし、事態は更に悪化の一途を辿った。
バアル・ゼブルことベルゼブブの出現を皮切りに、次々と悪魔たちが現れ、さらには大天使たちまでもが舞い降りてきたのだ。
十体以上もの鬼級悪魔が一堂に会するという絶体絶命の窮地は、神木神威が出てきたことで一変する。神威が竜眼を解放し、鬼級をも圧倒する力を見せつけたのだ。
そして、ブルードラゴンが現れたあと、統魔が目を覚ました。
統魔は、死んでなどいなかったのだ。
だれもが動転し、勘違いしてしまっていただけに過ぎない。導衣の記録も、朝彦を始めとする調査隊の記憶も、それを証明している。精密検査の診断結果もだ。
統魔は、瀕死の重傷を負ったものの、持ち前の星神力の発露によって回復、一命を取り留めた――それがあの工場での統魔に関するすべてだ。
そのとき、病室の扉が軽く叩かれた。字が統魔に目で問うてきたので、頷く。
「どうぞ」
字が招き入れると、室内に飛び込んできたのは、幸多だった。
「統魔!」
幸多は、統魔の無事な姿を見て、安堵するよりも不思議な気分だった。
なぜかはわからないが、統魔とは永遠に逢えない気がしたからだ。けれども、そういった不安は、統魔が笑いかけてきた瞬間に吹き飛んでしまった。
統魔が生きている。
なんの問題もなければ、なんの心配もいらない。
「……ありえんな」
神威は、眉間に寄せた皺が殊更深くなっていくのを認めた。
本部棟総長執務室には、いつものように伊佐那麒麟がいて、首輪部隊の三名が控えていた。
神威が執務机で睨み合っているのは、万能演算機が投影する幻板であり、そこに吐き出される膨大な情報の羅列だ。ユグドラシル・システムが導き出した結論は、しかし、疑問と疑念を増幅させるばかりだった。
麒麟も、同様の文字列を目の前の幻板に表示させ、目で追っている。
「確かに……ありえませんね」
「死者は、蘇らない。これがこの世界の理だ。魔法の発明以来、死者を蘇生させる魔法の研究は、世界中で行われてきた。偉人の墓を掘り起こしてまで行われた実験の数々は、死者を冒涜し、人道を踏み外したものだった。だが、そうした数多の研究、実験の成果は、結局のところ、魔法を以てしても死者を完璧に蘇らせることはできないというものだった」
「死者蘇生魔法の研究が生み出したのは、屍術師たちの横行および暴走。その果てに誕生した死者の国は、魔法時代黄金期の汚点ですものね」
「魔法によって蘇ったものたちは、思考力を持たず、自我を持たず、個性を持たなかった。死者は死者に過ぎず、ただ、与えられた命令通りに動くだけのロボットに過ぎなかった。いや、ロボットというには、あまりにも脆く、欠点が多すぎたようだが」
「だから、滅び去った」
「そうだ。つまるところ――」
神威は、ユグドラシル・システムの導き出した結論にこそ、頷いた。
「彼は、皆代統魔は、最初から死んでなどいなかったということだ」
そしてその結論には、神威の記憶と合致した。
幻魔製造工場内で窮地に陥った味泥調査隊を救助するべく現地へと赴いた神威は、統魔が瀕死の重傷を負っている様を目撃している。重傷。そう、重傷だ。だが、統魔は、みずからの力で一命を取り留め、回復して見せた。
さすがは規格外の星象現界の持ち主というほかあるまい。
常人ならば絶命していてもおかしくはない。
つまり、彼は常人ではないということだが、その点について疑問を持つものはいまい。
皆代統魔は、超人的な魔法技量の持ち主なのだから。
そして、そんな彼だからこそ、あの窮地を乗り越えられた。
それだけが事実であり、世界の理に一致する結果なのだ。