第千百三十話 状況終了
ゲイボルグは、確実に魔印を貫く必殺必中の魔槍。
そして魔印は、クー・フーリンの視線によって刻まれ、刻まれれば最後、魔槍に貫かれるまで消えることはない。
よって、少年姿の鬼級幻魔がゲイボルグを回避する方法はなかったし、事実、クー・フーリンの手を離れた魔槍は、つぎの瞬間には魔印を貫いていた。
魔印は、彼の視線の先、幻魔の顔面に刻まれていた。つまり、その顔面に大穴が開いたのであり、その凄惨としかいいようのない傷痕から覗くのは、魔晶体の内部構造だ。直後、内側から途方もない質量の魔素が噴出し、視界を黒く塗り潰す。
そのときには、クー・フーリンは、サナトスを掴まえ、後方に飛び離れている。わずかでも時間を稼ぐためだ。魔槍による先制攻撃が致命傷にならないことは、わかりきっている。
相手は、鬼級幻魔。
そうである以上、撃滅するには、魔晶核を破壊するしかない。鬼級幻魔の大半は、人間に酷似した姿形をしているが、幻魔は人間などの動物とは異なり、あらゆる臓器を持たない。心臓たる魔晶核の位置もまた、一定ではないのだ。
人間の心臓と同じ位置に持つものもいれば、下腹部に隠すものもいるし、頭部に持つものもいる。手足のいずれかに魔晶核を抱くものもいるように、様々だ。鬼級同士の戦いの勝敗は、相手の魔晶核の位置をいかに早く特定し、攻撃を叩き込めるかどうかで決まる。
そして、そのために長期戦になり、不毛としか言いようのない消耗戦を展開することも、ままある話だった。
クー・フーリンの右手に魔槍が戻ってくる。彼がその視線で再び狙いを定め、魔印を刻んだ瞬間だった。強烈な震動が、通路を揺らした。天地が晦冥しているかのようだった。
「竜だよ」
そういったのは、少年染みた幻魔である。粉砕されたはずの頭部が瞬時に復元し、傷痕ひとつ見当たらなかった。魔槍の一撃を受けてなおこの復元速度。尋常ではない。並外れた力の持ち主だということは、それだけで理解できた。
冷ややかなまなざしが、クー・フーリンに注がれる。
「竜?」
「竜級幻魔が、召喚されてしまった」
「召喚……ですと? それはいったい、どういうことですかな?」
「言葉通りの意味だよ。きみたちも見ただろう。あの人間――神木神威は、竜の眼の持ち主なんだよ。そして、竜の眼の力を解き放てば、力の根源がやってくる。ブルードラゴンがね」
「随分と……詳しいな」
「知らないわけがないだろう。ぼくたちの目的のためには、知っておかなければならないことはあまりにも多い。けれども、それはまあ、問題じゃあない。きみもそうだ。アヴァロンのクー・フーリン。円卓の騎士、だったかな」
「どういう意味だ?」
攪拌されているかのように揺れる世界で、クー・フーリンは、少年幻魔を見ていた。無論、その姿が幻魔の全てを現しているはずもない。幻魔の姿ほど、本質とかけ離れている可能性の高いものはないのだ。
少年の姿をしているからといって、侮っていい理由はない。そもそも、圧倒的な魔素質量を感じ取っている。全身が、警戒を促していた。
「ぼくにとって、このサタンにとって、きみの存在そのものが取るに足らないといってるんだよ」
言い終わるより早く、クー・フーリンは魔槍を投げ放っていた。つぎに刻印したのは、幻魔の胸元。魔槍は見事にその胴体に大穴を開けた。それこそ、魔印のみならず、周囲の魔晶体を抉り取るほどの威力だった。
だが、サタンと名乗った幻魔は、つぎの瞬間には元通りに復元していて、その手にゲイボルグを掴み取っている。
「威力、精度、性能……いずれも水準以上ではあるけれど、まあ、大したものじゃあないな。星象現界には、遠く及ばない」
サタンは、ゲイボルグに込められた魔力の総量を見て取り、それから、クー・フーリンに目を向けた。鎧兜を身に纏う騎士然とした幻魔は、長い髪を靡かせながらさらに飛び退き、律像を浮かべる。複雑にして精緻、多層構造の律像。破壊的な魔法の設計図。極めて優秀な戦士といっていい。故に、同情もするのだが。
アヴァロンの殻主、騎士王アーサーの家臣だという。家臣たちは、円卓の騎士と呼ばれており、鬼級幻魔だけで十二体もいるらしい。鬼級幻魔の数だけでいえば、〈七悪〉よりも余程多い。
仮に、アーサーが魔界に覇を唱えるべく動き出せば、この地域の勢力図は一瞬にして塗り替えられるのではなかろうか。アーサーを含め十三体の鬼級を戦線に動員すれば、それだけで勝敗は決する。
圧倒的な戦力差を前に頭を垂れる鬼級も少なくないはずだ。
そして、そうして肥大した〈殻〉というのは、加速度的に領土を広げていくものだというのは、歴史が証明している。
かつて、魔天創世を行った幻魔大帝がそうしたように。
アーサーは、魔界一統にもっとも近い鬼級の一体なのではないか、と囁かれている――らしい。
サタンは、一笑に付すと、クー・フーリンに向かってゲイボルグを投げつけた。魔槍の飛翔速度は、クー・フーリンのそれとは明らかに違った。音速を超え、光速に至る。通路自体に致命的な打撃を与えるほどの投擲。
クー・フーリンには、避けようがなかった。
全面に魔法壁を張り巡らせたが、遅すぎたのだろう。衝撃がクー・フーリンの胴体を貫き、全身を打ち砕いた。魔晶体が完膚なきまでに破壊され尽くし、魔晶核が跡形も残さず消し飛んだのだ。
そして、クー・フーリンは、滅び去った。
「呆気ないな」
サタンは、断末魔さえ発することなく消え失せた鬼級に向かって、そう告げた。前方の通路は、先程までとは様変わりしてしまっている。なにかとてつもない大災害に遭ったのではないかというほどに変形した通路のただ中で、サナトスが愕然とこちらを見ていた。
「安心しなよ、サナトス。きみは殺さないからさ」
「わ……わたしになにをせよ、と……?」
サナトスは、生まれて初めて恐怖という感情を知った。魔晶核が震え、全身の魔素という魔素が戦慄しているのがわかる。魔力が逆流するかのようだったし、世界そのものが揺らぐのを感じた。
目の前の幻魔が、アーサーとすら比較にならないほどの力を持っていることが、一連の出来事ではっきりとした。鬼級よりも圧倒的に強大な力を持っている。
(これでは、まるで……まるで――)
サナトスが結論に至ろうとしたとき、サタンの影が彼を飲み込んでいた。
サナトスは、抗おうともしなかった。ただ、サタンの目に見つめられたまま、影の中に沈んでいくのを止められなかったのだ。
それが運命だと理解した。
運命。
そう、運命だ。
理不尽にして致命的な、運命。
「……行ったか。随分と早いね」
サタンは、地下空間の鳴動が収まったのを感じ取って、頭上を仰いだ。
遥か地上で行われたのであろう二体の竜の激突は、どうやらこのダンジョンを消し飛ばすには至らなかったらしい。
「ぐふぅっ」
神威は、血反吐を吐き出すと、その場に倒れ込んだ。強引に寝転がり、仰向けになる。
空白地帯のど真ん中。死に絶え、荒れ果てた大地は、大きく変形し、元の姿を失ってしまった。それもこれも彼のせいだが、致し方あるまい。
遥か前方には、空がある。魔界の空。青ざめた空の素知らぬ顔は、しかし、竜気の激突によって荒れ狂った後だということがはっきりとわかるくらいに、魔素が乱れていた。膨大な魔素質量同士の衝突は、その余波だけで周囲一帯に魔素異常をもたらす。
ブルードラゴンは、去った。
神威を半ば一方的に蹂躙しただけでなく、周囲一帯に致命的な打撃を与えた蒼き竜は、それでは満足できないとでも言いたげに吼え、飛び去っていったのだ。
おそらく、だが、神威が力を出し切らなかったからだろう。
「閣下、無事ですか!」
神流の声が悲鳴のようにも聞こえたのは、きっと気のせいではあるまい。
彼女は、神威の姿を発見すると、物凄い勢いで飛んできていた。星神力が渦を巻き、周囲の魔素を吹き飛ばすほどだった。
「生きてはいる。まあ、それで十分だな」
「なにがですか!」
神流は、神威の全身が焼け焦げている様を見て、血の気が引くのを認めた。
神威が、神流たちとも比較にならないほどの力を発揮し、あのブルードラゴンとやり合う様は、圧巻というほかなかったし、神威がいればこそ、自分たちが生き残ったのは確かなのだが、とはいえ、だ。
「いますぐに治療しますよ!」
「あ、ああ……頼む」
神流の心配性には敵わない――神威は、そんな風に思いつつ、姪孫が星神力で以て治癒魔法を発動するのを見ていた。
状況は、終了した。