第千百二十七話 胎動(十六)
クー・フーリンには、わけがわからなかった。
アヴァロンの騎士王アーサーの家臣たち――円卓の騎士に名を連ねる彼は、王命によって、サナトスとともに彼の工場を回っていたのだ。
昨今、北海のダゴン、東山のガネーシャがアヴァロンの領土を奪い取るべく、度々《たびたび》戦力を寄越してきており、それらの対応に追われていた。もっとも、戦力差は圧倒的だ。アヴァロンがそれらの小さき〈殻〉に敗れる理由がない。とはいえ、わざわざ雑兵相手に円卓の騎士が出張る必要はない。故にアヴァロンの戦力が少しずつ、しかし確実に消耗していたというわけだ。
円卓の騎士が出張るほどのことではない、とは、殻主アーサーの発言であり、主命である。アヴァロンを守るのは、妖級以下、雑兵たちの役割であり、円卓の騎士たちは、来たるべき決戦に備え、技を磨くべきである、と。
主君の判断に間違いはない。
アヴァロンは、数々の戦いの中で戦力を消耗したものの、領土の防衛には成功している。アヴァロンが国土を奪われたことは、一度立ってないのだ。
そして、国土を護り続けるための戦力の補充は、重要な任務だ。円卓の騎士筆頭たるクー・フーリンが出向かなければならないほどの。
というのも、アヴァロンの兵隊は、サナトス機関がアーサー王の要望に応じて作り出された特注品であり、その代価として、サナトスの要求に応じなければならなかった。
アーサーとサナトスは、仲間や同胞といった間柄でもなければ、主従の契りを結んでいるわけでもない。極めて対等な立場にあり、その関係は、取引によってのみ結ばれる。そしてその取引は、互いに納得しなければ、結実しない。
クー・フーリンがサナトスの長旅に付き合っていたのも、それが今回の代価だったからにほかならない。
そして、その旅は道半ばだったはずだ。なのに。
(これは……なんだ?)
人間たちは、まだいい。
人間にしては強力な魔法士だが、敵ではなかったし、なんの障害にもならなかった。排除まで後一歩だったのだ。だが、そこに鬼級幻魔が現れた。以前、アヴァロンを混乱させたバアル・ゼブルと、その同胞と思しき四体の鬼級幻魔たち。さらに、光を放つ四体の鬼級幻魔たちは、バアル・ゼブルことベルゼブブたちと対峙するかのような素振りを見せながら、律像をぶつけ合い始めたのだ。
人間が増えたのは、どうでもいい。人間など、敵ではないのだ。
それよりも、鬼級だ。
サナトスは、鬼級に拘束され、身動きひとつ取れない様子だった。目線だけで助けを求めているところを見れば、声すらも発することができなくなっているようだ。
クー・フーリンは、魔槍を具現すると、サナトスを束縛する触手に狙いを定めた。金属製の触手。サナトスの痩躯に絡みつき、あらゆる力を封じ込めている。刻印が、束状になった触手の表面に浮かんだ。瞬間、彼が魔槍を投げ放てば、触手に大穴が開いていた。触手が、ばらばらに解れていく。
ゲイボルグは、必殺必中の魔槍なのだ。狙いを付けられれば、避けられるものなどいない。
サナトスが触手の檻から解放されたのを見て、クー・フーリンは、彼の元へと向かった。
鬼級幻魔たちは、律像を形成するために集中していて、クー・フーリンたちの動きを全く気にしていない。おかげでサナトスを窮地から救うことができたのだから、いうことはない。
「助かりましたぞ」
「いや、当然のことだ。貴殿には、これからも力添えしてもらわねばならん」
「もちろん。アーサー殿が魔界一統を目指すというのであれば」
サナトスは、クー・フーリンに促されるまま、工場の奥へと走った。未知の鬼級たちがなにを企んでいるのか気になるところではあったが、それよりも、ここを脱出することのほうが先決だ。
あれだけの鬼級たちが激突すれば、工場そのものが消し飛びかねない。いや、それどころか、この一帯が跡形もなく消滅するのではないか。そしてそれに巻き込まれれば、サナトスたちといえども無事では済むまい。
一刻も早く、脱出するべきだ。
「一刻も早く脱出するべきですね」
「ああ」
神流の意見に賛同しつつも、神威は、天使と悪魔の激突を見ていた。律像の衝突。複雑怪奇な幾何学模様が無数に浮かび、工場内を満たしていく。それは星神力に匹敵する魔力の拡散であり、収斂であり、螺旋であり、洪水だ。なにもかもを塗り潰し、染め上げていく。
ただし、破壊的ではない。
むしろ、創造性の塊のような、そんな印象を受けた。
(どういうことだ?)
神威は、右眼が疼くのを認めて、顔をしかめた。神威に右目はない。あるのは、眼球を模した竜の力の結晶だ。竜眼。竜眼が、なにかに反応している。この幻魔たちが織り成す律像の渦に共鳴しているかのようであり、感応しているかのようだった。だからこそ、神威は、その場を動けないのだ。
神流のいうとおり、一刻も早くこの場から離れるべきだ。
天使と悪魔が律像をぶつけ合っているいまならば、どうとでもなるのではないか。
未知の場所への転移をも可能とする日岡イリアの空間転移魔法・天使の煌めきは、一方通行だ。この場にイリアが転移してきたのであれば、送還して貰うことも可能だが、一度に転送できるのがひとりであることを考慮すれば、イリアが来るのは愚策だ。
イリアは、空間転移魔法の達人なのだ。彼女を失うようなことがあれば、とてつもない損失になる。
(ただでさえ)
神威は、統魔の亡骸を一瞥した。ルナが統魔を抱き抱えているが、彼女はもはや星神力を使い切り、消耗しきっている様子だった。泣き叫び続けたことも一因だろうが。
心の支えを失ったことも、大きいに違いない。
そしてそれは――統魔を失ったことは、戦団にとって大きな痛手だ。
今後の戦略にも大きな問題が生じる可能性がある。
彼は、煌光級三位だが、その規格外の星象現界を見れば、じきに杖長となり、軍団長候補にさえなれるほどの逸材だった。戦団にとっての、いや、人類にとっての希望の星そのものだったのだ。
その彼が、死んだ。
こんな、なんの変哲もない、ありふれた任務の最中に。
たまたま偶然、鬼級幻魔と遭遇したばかりに。
だがそれもまた、ありふれたことだ。
あまりにありふれすぎていて、だから感覚が麻痺しそうになるのだが、統魔ほどの人材が失われたとなれば、戦団上層部が混乱するほどの騒ぎになるのも無理からぬことだった。神威が前線に飛び出してきたのだって、その混乱の現れにほかならない。
「時間は稼ぎます」
「閣下は、皆を連れてお逃げください」
「お早く」
神流、九乃一がそれぞれに星象現界を発動すると、蒼秀とともに神威たちの前に立った。
神流の星象現界・銃神戦域が、工場内を破壊的な結界で飲み込むと、九乃一の星象現界・忍法児雷也が影法師の如き星霊を具現する。そして、蒼秀は、八雷神の力を振り絞って、雷光を昂ぶらせた。
だが。
「まったく、なにをいっているんだ」
神威は、神流の肩に触れ、その前に出た。眼帯に手をかけ、外す。欠けていた視界が完全なものになると、魔素が視界を埋め尽くした。竜眼は、真眼ほどではないにせよ、魔素を認識できる。竜級幻魔の力の結晶なのだから、それくらいできて当然だろう。
「おまえたちが、皆を連れて行くんだ」
神威が告げると、悪魔たちが彼を見た。
「剣呑ねえ」
「まったく、そういうのお呼びじゃないんだけどねえ」
アスモデウスの苦笑にアザゼルが同意する。
悪魔たちが見ている間にも、神威の魔力が増大していくのがわかるのだ。圧倒的な魔素質量は、鬼級をも陵駕するほどのものであり、その場にいる全導士の魔覚が狂わされていくようだった。
「あれが竜眼……」
マモンは、神威の右眼を見つめながらつぶやいた。その目の輝きは、禍々《まがまが》しくも神秘的であり、鬼級幻魔の意気すらも吸い込むほどの魔力を秘めている。見ているだけで気が狂いそうになるほどの力。
竜級幻魔の力。
そんなものを人間が持っていていいわけがない。だが、否定することもできない。それは確かに存在し、力を振るい始めているのだ。
突如、工場全体が、震撼した。頭上からの衝撃。破滅への招待状。
「来たな」
神威が、鋭いまなざしを天井に向けた。見据えるのは、遥か彼方の地上。分厚い魔素の層の向こう側に竜級の魔素質量が飛来してきたのがわかる。
『ダンジョン直上に、ブルードラゴンが出現しました!』
情報官の悲鳴が、通信機越しに聞こえてくれば、星将たちにも緊張が走った。
「まさか、閣下、これが狙いだったんですか?」
「奴は、おれが力を解放するときを待っている。おれの狙いがなんであれ、竜眼を解き放てばこうならざるを得ない。ただそれだけのことだ」
そして、そうである以上、ブルードラゴンの性質を利用した戦術も考案するべきだったし、このような状況下でこそ、活用するべきだ。
多数の鬼級幻魔の包囲から脱出する、一か八かの賭け。
だが、それは、ほかに考えられた方法よりは、幾分かは、分のある賭けだった。
悪魔たちも天使たちも、二体の竜級を相手に戦えるわけがない。
そして、律像が瞬く。