第千百二十六話 胎動(十五)
「なんなんだ? いったいなにが起きている?」
神威が声を荒げるのも無理のない話だった。
第九軍団によるダンジョン調査の最中、二体の鬼級幻魔と遭遇、皆代統魔が殺害されたことだけでも頭を抱えたくなる大問題だというのに、急激かつ加速度的に事態が悪化しているのを目の当たりにすれば、叫び声のひとつもあげたくなるものだ。
神威は、本部棟司令室にあって、幻板に表示されている映像を食い入るように見ていた。味泥調査隊のヤタガラスが撮影、中継している映像は、至近の戦団拠点だけでなく、戦団本部にも送信されているのだ。
それらの映像に一切の乱れはない。
央都付近のレイライン・ネットワークが安定しているからであり、それによって工場内部の様子がはっきりと見て取れた。
幻魔製造工場。
以前、大空洞と命名したダンジョン内部に発見された工場とは似て非なる構造をしているものの、幻魔を大量生産しているという点に違いはない。
そして、そんなことは、もはや問題ではないのだ。
問題は、工場内に十体以上もの鬼級幻魔が存在しているということであり、味泥調査隊が絶体絶命の窮地に陥っているということだ。鬼級幻魔が二体も、ダンジョン内部に潜んでいた。それだけでも緊急事態であり、即座に脱出するように通達するのが普通だ。そして、当該幻魔が人類生存圏に危害を加えるかどうかを見極めつつ、戦力を編成するというのが戦団のやり方である。
たとえ鬼級幻魔を発見したとしても、それらが央都に向かってこないのであれば、放置しても構わないとしていた。
一体の鬼級を撃滅するのに最低でも三名の星将が必要なのだ。それだけの戦力を瞬時に用意するのは、困難を極めた。
よって、今回も、調査隊にはすぐさま撤退するように厳命したのだが、間に合わなかった。
〈七悪〉の内、五体の悪魔たちが現れ、さらに四体もの大天使たちが降臨したのである。
既に壊滅状態の工場内だったが、さらなる混沌に飲まれた。
天使型幻魔は、人間に友好的な素振りを見せていたし、何度となく力を貸してくれた事実があるものの、それで全幅の信頼を寄せられるかといえば、そんなわけもない。
幻魔は幻魔であり、人類の天敵なのだ。
神威は歯噛みし、拳を強く握り締めていた。状況は、最悪。朝彦たちが助かるためには、相応の戦力を送り込むしかない。だが、そのためには、それら戦力を失う可能性をも考慮しなければならない。
なんといっても、全部で十一体もの鬼級がいるのだ。
それら全てを敵と仮定した場合、戦団が全戦力を送り込んでもどうにもならないのではないか。
(いや……)
神威は、司令室内に散乱する情報官たちの声を聞きながら、幻魔たちを睨みつけた。
決断しなければならない。
事態は、悪化の一途を辿っている。
「はっ、冗談やないで」
朝彦は、頭上から舞い降りてきた天使たちの神々《こうごう》しさにこそ、悪態を吐きたくなった。
まるで太陽のように眩いばかりの光を放つルシフェル、白銀の輝きを帯びたメタトロン、琥珀色の煌めきを発するウリエル、そして、名も知らぬ白百合の如き大天使――四体の大天使たちは、幻想的にして荘厳なる姿を見せつけるかのように工場内に降り立ち、こちらを見るでもなく、悪魔たちに目を向けていた。
天使は四体、悪魔は五体。
そして、二体の鬼級幻魔。鬼級幻魔ののうち一体は、マモンに拘束され、身動きひとつ取れなくなってしまったようだが、もう一体、クー・フーリンと呼ばれた方は、状況が飲み込めないといわんばかりの表情をしていた。
当然だろう。
突如として、同等かそれ以上の力を持つ鬼級幻魔が大量に現れたのだ。
クー・フーリンにしてみれば、混乱してもおかしくない状況ではないか。
それは、朝彦たちにしても同じなのだが。
「悪魔も天使も、なにを考えてんねん」
「さてな。だが、天使と悪魔がこのまま睨み合いを続けてくれるのならば、おれたちがここから脱出することも不可能ではないはずだ」
「それは無理、無茶、無謀……無意味だ」
朝彦と蒼秀の会話に割り込んできたのは、アザゼル。相変わらず前が見えなさそうな格好の悪魔は、口元に軽薄な笑みを張り付けていた。
「どうかな」
「強がるねえ、さすがは星将様だ。でも、鬼級に包囲されたこの状況からどうやって無事に逃げ出そうというのかな? まさか、あいつらが自分たちの味方だと、信じているのかな? そんなこと、あるわけないよね?」
アザゼルが嘲笑うかのように問いかけてきたものだから、蒼秀は、無言で睨みつけた。
天使を名乗る幻魔たちは、これまで何度となく、導士に力を貸してくれている。皆代幸多の窮地を救ってくれたこともあれば、オロバス・エロス連合軍との戦いでは、戦団の勝利に多大な貢献をしているのだ。
天使は人類の味方である、と、天使たちの長ルシフェルが明言してもいた。
だが、幻魔は、所詮幻魔に過ぎない。心の底から信用することなどありえないし、あってはならない。
龍宮のオトヒメや、妖魔将オベロンと同じだ。心を明け渡してはならないのだ。
一時的な協力関係に人類の未来を預けた結果、寝首を掻かれては、笑い話にもならない。
「答えられない、か。まあ、それが解答なんだろうけれど。ルシフェルは、どう思う? これでもまだ、人間の味方を続けるつもりかな?」
「アザゼル。きみの言葉は空疎で意味がない。きみと問答をする意味も、時間も、ない。それは、きみたちもわかっているはずだ」
「……まあ、そうだね」
アザゼルは、ルシフェルの温厚そうな表情の奥に隠された冷徹なまなざしを受けて、肩を竦めてみせた。冷厳無比こそ、天使の本質だ。
情け深い悪魔とは、わけが違う。
「時間がない?」
「どういうことでしょう?」
「わからんが……奴らがなんらかの共通した目的で集まったのは、間違いなさそうだ」
「でっしゃろな」
蒼秀の推察に、朝彦は静かに頷いた。
睨み合いを続ける天使と悪魔だが、その魔素質量がにわかに膨大化していくのがわかるのだ。強大にして圧倒的な質量の魔素が魔力へと変じ、律像が虚空を彩っていく。複雑怪奇な幾何学模様の数々。無数に形を変え、構造を変えていく、魔法の設計図。
その形状を見れば、互いに攻撃するための魔法を想像しているわけではないことがわかるものの、だからこそ、疑問が過る。
「なにしようとしてんねん?」
「わかりません。わかりませんが、ここにいるのは危険ですね」
「見ればわかるやろ」
とはいったものの、南がなにかいいたくなるという気持ちもわからなくはなかったから、朝彦は、彼女の目を見た。南は、恐怖に顔を引き攣らせている。南だけではない。この場にいるほとんど全員が、絶望的な状況の中で、為す術もないという現実に打ちのめされているのだ。
朝彦ですら、ここまでの絶望感を味わったことはなかったし、冷静さを保っているという自信はなかった。
そのときだ。
「間に合ったか」
重々しい声が、むしろ朝彦たちが感じていた重圧を中和していったのは、あまりにも頼りになる声だったからだ。
「閣下!?」
「なんでここに!?」
「この状況で、おれが出ないという手はないだろう」
神威は、蒼秀と朝彦、そしてその部下たちの視線が一瞬にして集中するのを感じ取りつつ、悪魔と天使の睨み合いに目を向けた。この広い空間全体を埋め尽くすようにして莫大な魔素が渦を巻き、無数の律像が無限に図形を変えながら、神威の意識をも押し潰していくかのようだ。
律像と律像がぶつかり合い、複雑に絡み合っていく様は、ある種の戦いのように見えなくもない。
鬼級の間でのみ成立する、高次の戦い。
そこにただの人間が入り込む余地はない。迷い込んだが最後、消し滅ぼされるだけのことだ。
「もちろん、総長閣下おひとりではありません」
「ぼくたちも一緒だ」
そういって出現したのは、二名の星将――神木神流、新野辺九乃一であり、朝彦たちはさらに心強さを感じた。神威だけでも安心感は十分だったが、そこに星将二人が加われば盤石というほかない。
「空間転移魔法ってさ、一度行った場所にしか飛べないんじゃ?」
「技術局の新技術は、不可能を可能にしたそうです」
「ええ?」
つまり、行ったことのない場所への、記憶にない場所への空間転移魔法を可能とする技術が開発されたということなのだろうが、そんな魔法の常識を覆す発明など、にわかには信じがたい。しかし、いままさに目の前で起きている事象を見れば、疑う余地もなかった。
このダンジョンは、今朝、発見された。当然、ダンジョン内部に潜り込んだのは、味泥調査隊が初めてだ。よって、ここに空間転移魔法を使うことはできないはずなのだが、そんな常識は、過去のものとなってしまったようだ。
技術は、新たな時代の扉を開いたのか。