第千百二十五話 胎動(十四)
「統魔が――なんだと?」
蒼秀は、己が耳に届いた言葉の意味を理解しきれず、聞き返した。いや、情報官の声は間違いなく届いていたし、言葉の意味も正確に把握できていた。だが、いや、だからこそ、理解を拒んだのだ。信じられなかったし、信じたくなかった。一瞬の空白があって、混乱が脳内を席巻した。渦巻く情報が巨大な混沌を生む。
その日、統魔は、朝彦率いる味泥小隊とダンジョン調査任務に当たっていた。
今朝発見されたばかりの未知のダンジョンということもあり、第九軍団の杖長筆頭である朝彦に一任したのだ。朝彦は、味泥小隊と皆代小隊の二小隊で十分だと判断した。
それそのものは、問題ではない。むしろ、最良の判断だったはずだ。
朝彦と統魔は、これまで何度となく共同任務を行ってきているというだけでなく、ふたりとも蒼秀の弟子ということもあり、気心の知れた間柄だ。互いに遠慮することもなければ、存分に力を発揮できるに違いなかった。
星象現界の使い手でもある。
ダンジョン内部にはどのような罠や仕掛けが待ち受けているかわからない以上、能力の高い導士が調査に当たるべきだった。
だが。
「統魔が、死んだ――」
蒼秀の頭の中が真っ白になるのも、当然だった。
統魔といえば、蒼秀の愛弟子だ。一年と八ヶ月ほど前に戦団に入った彼は、全軍団で争奪戦になるほどに将来を嘱望されていた。星央魔導院を飛び級かつ首席で卒業したというだけでも、特筆に値する。逸材も逸材、十年に一人、いや百年に一人の大天才といわれるほどの魔法士だったのだ。
事実、彼を弟子として引き受けた蒼秀は、統魔の能力の高さには舌を巻いたものだ。才能だけではない。才能を引き出すための努力を惜しまず、時間と体力の許す限り鍛錬と研鑽を積み重ねる統魔は、めきめきとその力を高めていったのだ。
一年もかからずに輝光級へと昇格した彼は、戦団の超新星と呼ばれるようになり、人々の注目を集めた。
だれもが彼に期待したのだ。
皆代統魔こそが、戦団の未来を背負う人材なのではないか。
彼が、新たな時代の到来を告げる明星なのではないか。
統魔は、そんな周囲の期待に応え続けた。
若くして星象現界に目覚め、いまや煌光級三位である。
じきに杖長になるに違いないと断言されるほどの活躍ぶりだ。
実績だけでいえば、確かに皆代幸多に後れを取るかもしれないが、実力ならば他を圧倒し、遥かに陵駕しているのはいうまでもない。だれもがそれを認めていたし、近い将来、軍団長になったとしてもおかしくはないのではないか、とまことしやかに囁かれるほどだった。
それだけの人材。
それほどの人物。
戦団にとっても、人類にとっても、必要不可欠な存在といっても、言い過ぎではなかった。
それが、突如、ありふれた任務の最中に命を落とした。
鬼級幻魔と遭遇し、そのために殺されたのだ。
蒼秀の頭の中の空白を埋めるように脳を最大速度で回転させると、防壁拠点を飛び出した。統魔が戦死しただけでなく、朝彦たちが窮地に陥っているというのだ。
座標は、わかっている。
問題は、ダンジョンへと到達するまでに状況が悪化しているだろうということだ。調査隊の救援は、一刻一秒を争った。
蒼秀は、八雷神を発動し、ダンジョンに急行した。そして、ダンジョン直上から雷撃を叩き込み、工場へと直通する大穴を開けたのだ。
つぎの瞬間、統魔の亡骸を肉眼で確認した蒼秀は、目を見開いていた。体中の細胞という細胞が沸騰し、血液が逆流するような感覚。全身総毛立ち、震えが止まらなかった。戦団の将来を託した愛弟子が、物言わぬ亡骸に成り果てているのだ。絶句するほかない。
だが、ありふれている。
導士が任務中に命を落とすことなど、実にありふれたことなのだ。
軍団長ならば、なおさら、こうした事態、状況に直面することは多い。
軍団長になって五年、どれだけ多くの部下を失ってきたのか、指折り数えることなど不可能だ。そして、全員の名を覚えていることも。
死ねば過去になり、忘れ去られていく。
それが現実だ。
だからこそ、蒼秀は、腹立たしいのだ。
統魔を過去のものにしてしまったのは、結局のところ、自分ではないか。
「やあやあ、久しぶりじゃないか、麒麟寺蒼秀。覚えているかな。アザゼルだよ、ア・ザ・ゼ・ル」
くだけた口調で話しかけてきた悪魔に対し、蒼秀は、一瞥をくれてやっただけだ。相変わらず、巨大な黒い環で目元を隠した悪魔は、口元だけでしか表情がわからない。なにを考えているのか、なぜそのような態度でいられるのか、蒼秀にはまるで理解できなかった。怒りが、蒼秀の思考を燃え上がらせている。
「時間は稼ぐ。皆は逃げろ」
「すんません、軍団長。おれの――」
「話は後だ。いまは生き残ることだけを考えろ」
蒼秀は、朝彦の言葉を遮り、告げた。朝彦の目を見れば、彼がなにをいいたいのか伝わってくる。朝彦は、杖長筆頭に上り詰めるだけあって、責任感の強い男だ。彼がいま、この上なく思い詰めていることは、想像するまでもない。
「駄目よ」
「そうだよ、駄目だよ」
アスモデウスの言にマモンが即応したかと想えば、天井の大穴が塞がった。マモンの背中から伸びた無数の触手が、網の目状に覆い被さったのだ。
朝彦たちが天井の大穴に向かおうとする、その機先を制する形だった。
朝彦は、統魔の亡骸ごとルナを抱えている。暴走し続けるルナだが、その力も次第に衰え始めていた。それはそうだろう。いまのいままで星神力を放出し続けていたのだ。いくらルナが規格外の魔素総量の持ち主だとしても、星象現界を発動し続ければすぐさま消耗し尽くす。それが道理というものだ。
つまり、事態はさらに深刻化するということだが。
(そんなこと考えとる場合やあらへん!)
朝彦は、自分を含めた全員が立ち往生するのを認めた。〈七悪〉の目的がなんであれ、この場に留まるのは得策ではない。一刻も早く脱出しなければならない。だが、この状況をどう離脱するというのか。
すると、蒼秀が両手を頭上に掲げた。
「天雷」
蒼秀の両手と額が眩く輝き、白銀の雷光が真上に向かって迸る。塞がれた大穴ではなく真上の天井を貫き、もうひとつの大穴を開けることで別の脱出口を作り出したのだ。爆煙と粉塵が吹き荒ぶ中、蒼秀の雷光はさらに渦を巻く。しかしそれは破壊の力ではない。
「行け」
蒼秀は、部下たちを雷光の帯で絡め取ると、頭上の大穴へと放り投げた。すべて、一瞬の出来事であり、悪魔たちの反応も遅れた。
だが。
「無駄なことをしてくれるな」
傲岸そのものの声が響き渡ったつぎの瞬間、蒼秀を含めた全員が地面に叩きつけられていた。強力無比な重力場が、蒼秀たちを捉えて放さない。全身に食い込み、押し潰していくかのようだった。
「くっ……!」
八雷神を纏った蒼秀が死力を尽くしてようやく立ち上がることができるほどの重圧は、アーリマンの魔法だった。アーリマンは、どうやら重力を操る魔法に長けている。
アーリマンは、人間たちを見てなどいない。
天井に穿たれた大穴を見ていた。マモンが塞いだ穴ではなく、蒼秀が開けた二個目の大穴。そこから、光が差し込んでくるのが見えたのだ。それは見ている間に膨大化し、工場内を塗り潰していく。黄金色の光、太陽そのもののような輝き。
「おっそ」
「確かに」
「不干渉を決め込んだ日和見主義者だからしょうがないんじゃないかな?」
「過干渉でしょう。この間だって、ほら、あんなにも干渉してきたもの。過保護なのよ」
「それもそうか」
悪魔たちの会話の意味がまるでわからず、蒼秀は、光を見ていた。蒼秀が開けた大穴の向こう側には、青空が覗いていたはずなのだが、もはやすべてが黄金に染め上げられていて、なにも見えなくなっている。
神々しくも莫大な光が、奔流となって渦を巻き、工場内を撹拌するかのようだった。
『固有波形観測、天使です!』
通信機越しの情報官の声とともに光が薄れ、光源が輪郭を帯びていく。それは翼を持ったひとの形をしていて、まさに天使と呼ぶに相応しいものだ。そしてその姿は、蒼秀たちにとっても見知ったものだった。
四体の、大天使たち。
黄金の大天使ルシフェル、白銀の大天使メタトロン、地の大天使ウリエル。最後の一体である女性型の大天使は、戦団に観測されておらず、名前もわからない。が、ルシフェルの一派であることから、〈七悪〉ほどの警戒心を抱かずに済む。
もちろん、相手は幻魔であり、人類の天敵であることに変わりはない。油断してはならないし、心を許すことなどあり得ない。だが、天使たちが悪魔と敵対し、人類に味方してくれているという事実もまた、認めなければならない。
(縋りたくもないが)
蒼秀は、内心、唾棄するようにいった。
神のいない世界で天使に縋るなど、笑えない冗談だ。