第千百十七話 胎動(六)
美乃利ミオリは、大境界防壁の歩廊に立ち、遥か北方の樹海を睨んでいた。
オトロシャ領恐府、その南部を埋め尽くす黒い結晶樹の森は、見ているだけで胸の奥底がざわつくような感覚がある。
第五軍団の軍団長代行を務める彼女は、恐府を見るだけで冷静でいられなくなるのだ。
恐府攻略作戦、その前哨戦とでもいうべき任務中に偉大にして尊敬する軍団長を失ってしまった。
城ノ宮日流子は、ミオリより四つも年下ながら、魔法技量、戦績、それ以外のあらゆる能力を含めて、遥かに陵駕する導士だった。
第五軍団の前身である第五部隊は、ミオリの母・ミドリが隊長を務めていたということもあり、その後継というべき第五軍団に対する愛着は深い。それもやはり、軍団長を務めた日流子の人柄によるところが大きいことに疑いを持たない。
日流子は、第五軍団にとって太陽のような存在だった。
広報部によってアイドル小隊が結成される以前から、戦団の内外でアイドル的な人気を誇っていたのが、日流子だ。
可憐な外見だけでなく、立ち居振る舞いからして周囲の人々の心を捉えて放さなかった。
しかし、その本質は、導士である。
人類復興がため、央都守護がため、常に身命を賭す覚悟でもって事にあたっていた。
そして、自分よりも部下の命を第一に考えていたことは、彼女がたったひとりでトールを食い止め、部下を逃がしたことからも明らかだ。
ミオリは、その場に居合わせられなかった不幸を呪い続けている。
仮に、あの場にミオリがいたとしても、状況はなんら変わらなかっただろうが、しかし、日流子が戦死したという報告だけを聞かされるだけよりはずっといい。
(せめて、お供をしたかった)
たとえ、トールに勝てないのだとしても、日流子とともに戦いたかった。
それがミオリの悔いだ。
悔いばかりが、意識を埋める。
ミオリは、手のひらに爪が食い込むのを認めたが、拳を握り締める力を緩めることはなかった。
オトロシャの出現と侵攻は、戦団の意識を再び恐府に集中させることとなった。
恐府に持ちうる限りの戦力を集中させ、徹底的に攻撃、打倒するべく、戦団全体が大きく動いている。
そしてそんな中で、ミオリは、トール討伐に名乗りを上げていた。
日流子の敵を討つ。
それがせめてもの手向けになると、信じたかった。
朝子と友美が睨み合ったまま、時間が過ぎていく。
ふたりの間には膨大な魔素が渦巻いているのが、感覚的にわかる。それこそ超密度の魔力だが、星神力には遠く及ばない。
「ずっと睨み合っていますが」
「それがふたりなりの訓練なんだったら、いいんじゃないかな」
白銀流星は、出石黎利が心配するようにいってきたものだから、彼女の懸念をこそ苦笑した。
金田姉妹は、訓練が始まってからずっと、互いを睨み合い、魔力をぶつけ合っている。黎利が心配するのも無理からぬことだ。
仲の良い姉妹なのだ。
それこそ、任務でさえなければ、一日中べったりしていることも少なくないくらいに。
そんなふたりが、今朝からずっと睨み合っているのは、昨日の大敗を受けてに違いなかった。
大敗。
そう、大敗だ。
流星率いる銀星小隊は、新星乱舞の予選を勝ち上がることができなかった。
それは、くじ運のなさに起因する結果というべきであり、どうしようもないことだといわざるをえない。
相手が相手だったのだ。
勝ち目はなかった。
それでもどうにかして勝利を掴み取ろうと金田姉妹に賭けたのだが、それも失敗に終わった。
そして、そのことを大いに悔やしがっているのが、いまのふたりなのだ。
ふたりが大得意とする合性魔法は、しかし、その力を存分に発揮することがかなわなかった。故に彼女たちは、今朝からずっと睨み合うことで特訓を行っているというわけだ。
「ふたりにはふたりのやり方がある」
「それは……そうでしょうが」
黎利は、流星の全く心配していないといわんばかりの態度に、むしろ安堵する。
隊長がどっしりと構えていてくれるからこそ、隊員たちも安心していられるというわけだ。
練武場を模した幻想空間を選んだのは、金田姉妹だ。そうすることでより集中できるというのが彼女たちの言い分であり、流星もそんな部下のやる気に応じたのである。
そして、黎利も杖を構える。
相手は、流星。
ふたりは、金田姉妹が睨み合っている隣で、攻撃的な律像を形成していた。
菖蒲坂隆司は、未来河の水面に落ちる陽光に目を細めた。
隆司が所属する竜胆小隊は、葦原市内を巡回している最中であり、万世橋の歩道を進んでいた。
道行く人々が声をかけてくれたり、手を振ってくれたりするのは、いつものことだが、今日はやけに多かった。
「新星乱舞の反響か」
龍哉が、ぼやくようにいった。
龍哉にしてみれば、やっていられないという気分だったのだろう。
隆司も、似たような感覚だ。
新星乱舞は、導士にとって夢の大舞台だ。出場できるだけでも十分に素晴らしいことだったし、予選で敗れたからといって、評価が下がることなど万が一にもありえない。
むしろ、出場者として選ばれたことを誇るべきだ。
竜胆小隊を選んでくれたのは、第十一軍団長・獅子王万里彩なのだ。
それこそ、龍哉が尊崇して止まない星将である。
いや、だからこそ、なのだ。
「勝ちたかったなあ。せめて、決勝に出たかったぜ」
龍哉が橋の欄干から身を乗り出したのは、万世橋の中程に差し掛かったときだった。隆司も足を止め、龍哉と同じ方向に目を向ける。
巡回任務。
ただ市内を歩き回るだけの簡単な任務だ。魔法犯罪に遭遇することなど滅多になければ、幻魔災害の発生に立ち合うこともまた、万にひとつもない。
サタンの出現以来、幻魔災害の発生頻度が増えたとはいっても、毎日央都四市のどこかに幻魔が出現するほどのものでもないのだ。
一週間、一切幻魔が出現しないこともある。
さすがに一ヶ月間、幻魔がまったく出現しないことはありえないのだが。
巡回任務や待機任務に当たっている小隊のほとんどが、何事もなく一日を過ごすことのほうが遥かに多く、央都四市が平穏無事であると再確認させられるのだ。
感覚が、鈍る。
(昨日、あんなことがあったってのに)
隆司は、水面に跳ね返る陽光を見つめながら、考える。新星乱舞は、いい。決勝戦の最中に起きた大規模幻魔災害こそ、考えるべきだ。
オトロシャの侵攻にして、宣戦布告。
それは戦団が、いや、人類が直面した最大の危機なのではないか。
無論、もっと以前、〈七悪〉による宣戦布告があったものの、それは実行に移されるまでの猶予期間があり、故にこそ、戦団は対応策を練るだけの時間があった。
一方、オトロシャどうか。
オトロシャ自身が水穂市制圧に動き出したというのであれば、猶予など、ほとんど残されていないのではないか・
新星乱舞に出場した若手の小隊は、各軍団選りすぐりの期待の戦力でもある。
当然、恐府攻略に駆り出されるに違いない。
隆司は、欄干に触れる手に力がこもるのを自覚した。
「こうやってきみと肩を並べて任務に当たれるのも、これが最後かもしれんと思うと、寂しいもんや。なあ、皆代」
「はい?」
統魔が怪訝な顔をして隣を見れば、朝彦の目は、周囲を強く警戒していた。
それはそうだろう。
ここは、ダンジョン。
空白地帯のただ中に出現した、幻魔の巣窟なのだ。
いつ何時、なにが起こるのか、わかったものではなかった。