第千百十五話 胎動(四)
オベロンの化身たる黄金色の蝶が、その禍々しくも幻想的な姿態を見せつけるかのように舞い降りてくる。
その頃には、大境界防壁十一番拠点全体が蜂の巣を突いたような大騒ぎになり、杖長以下、拠点に詰めていた導士という導士が歩廊や胸壁に姿を見せていた。
オベロンは、要警戒対象と認定されている。
道理だろう。
オトロシャによる侵攻は、戦団に対する、いや人類に対する宣戦布告そのものだ。
そして、オベロンは、オトロシャの腹心なのだ。三魔将の一、妖魔将にして、黒禍の森の管理者。その支配下には、大量の幻魔がいる。
オトロシャが長きに渡る眠りについていたからがために倦み、自由を求め、挙げ句、幻魔ならざる人類に協力を要請、恐府崩壊によって自由の身になるためだけに飛び回っていたのだが、しかし、だからといって油断してはならないというのは当たり前の話だ。
オベロンの裏切りについてすら、オトロシャは把握していた。それどころか、オベロンの行動そのものが、オトロシャの意図を汲んだものであるかのような発言が記録されている。
つまり、だ。
オベロンが戦団に提供した数多の情報すらも、オトロシャにとって都合のいいものばかりだったのではないか。戦団による恐府攻略作戦は、オベロンによる手引きなのではなく、オトロシャの策略だったのではないか。
オベロンの暗躍は、オトロシャの手のひらの上で行われていたものに過ぎないのではないか。
だとすれば、納得も行くというものだ。
殻主による支配は、絶対であるという。
たとえ鬼級幻魔であっても、主従の契りを結んだ以上、裏切ることは叶わないのだ、と。
それは、オベロン自身が証言したことだ。
ではなぜ、オベロンは、オトロシャを裏切り、恐府崩壊のために活動できるのかといえば、戦団という強敵を恐府内部に誘い込み、殲滅する戦略という建前を取っているからだ、と、彼はいった。
思い返せば、その言にこそ、注目するべきだったのだろう。
それは殻主の命令に従う素振りを見せつつ、裏を掻き、寝首を掻くための方便などではなく、オベロンの真意だったのではないか。
戦団最高会議が導き出した結論には、照彦も否やはない。
彼は、鋭いまなざしで、金色の蝶を見据えていた。魔力は星神力に昇華し、律像を展開している。いつでも星象現界を発動できるようにだ。
「悪戯好きのオベロン。残念ながらあなたは信用できない。その発言も、行動も、なにもかもすべて」
《つまらない冗談をいうものですね、竜ヶ丘照彦》
「冗談?」
《わたしは、最初からあなたたちを信用してなどいませんでしたよ。それは、あなたたちも同じではなかったのですか?》
「……なるほど」
照彦は、周囲の導士たちが色めきだつのを手で制しつつ、妖魔将の言に頷いた。
「そうですね。ぼくたちも、最初からあなたを信用してはいなかった。あなたを利用することだけを考えていましたし、常に警戒してもいた」
オベロンが戦団に齎した情報が本当に正しいのか、こちらを騙すための偽の情報なのではないか。信用していいものかどうか、戦団上層部は常に議論を戦わせたものだ。
恐府に攻め込み、その情報が精確極まりないことが判明して、ようやく、情報だけは信用してもいいとなったのだが、しかし、だからといってオベロンへの警戒を忘れたことはなかった。
一秒たりとも、決して。
なんといっても、幻魔なのだ。
人間と幻魔は、相容れない存在だ。
幻魔は人間の天敵であり、人間は幻魔の好物だ。
いつ手を翻し、刃を突きつけてくるものか、わかったものではない。偽り、欺き、裏切り、敵に回るなど、幻魔にとって造作もあるまい。
そしてそうなった場合、戦団は甚大な損害を被ることになるだろう。
いや、それどころか、致命的な一撃になりかねない。
鬼級幻魔を相手に隙を曝すということは、つまり、そういうことなのだから。
そのため、オベロンには常に警戒の目を向けていたのであり、彼との情報交換の際には、星将たちが星象現界を待機させていた。
そうした戦団側の警戒心がオベロンに伝わらないはずもない。
オベロンにしてみれば、人間たちの反応など、最初からわかっていたことだ。
人間が幻魔を信用するはずもなければ、心を開くはずもない。そして、そんなことは、どうでもいいのだ。
信用できようができまいが、人間たちがオベロンを利用しない手はなかった。オベロンと共闘し、打倒オトロシャ、打倒恐府がため、行動しないわけにはいかなかったのだ。
人間にとって、恐府の、オトロシャの存在は、極めて大きい。
恐府は、人類生存圏に隣接する〈殻〉の中でも特に巨大だ。央都四市最大の都市である葦原市の倍近い領土を誇り、総兵力は人類の総数を遥かに陵駕していた。総戦力となれば数十倍どころではないに違いない。
オトロシャと三魔将――鬼級だけで四体もいるのだ。
オトロシャが圧倒的な力を持っているとはいえ、三魔将もまた、並々ならない力を誇る。
星将のひとりやふたり、赤子の手を捻るように殺しきれる。
人類は、戦団は、オベロンの提案を飲むしかない。
オベロンを利用し、オトロシャ軍の戦力の一部を無視することで、ようやく、恐府攻略に乗り出せるのだから。
とはいえ。
《でしょう。わたしも同じ。あなたがたがいつわたしの命を奪おうとしてくるものかと冷や冷やしていたのですよ》
「……それこそ、つまらない冗談でしょう」
「まったくだわ」
強い重圧が生じたかと思えば、朱雀院火倶夜が会話に割り込んできた。一瞥すれば、その燃え立つような星神力を感じ取ることができる。彼女もまた、星象現界を待機状態にしており、莫大な火気が渦巻くようだった。
第十二軍団の導士たちがざわつくのも無理はない。
火倶夜が、空間転移魔法によってこの場に現れるとは、思ってもみなかったからだ。
「あなたは鬼級幻魔でしょう。人間を警戒するだなんて、信じられないわ」
《わたしがあなたがたに利用価値を見出したのは、鬼級を滅ぼす力を持っていたからこそ。殻石を破壊するだけでわたしは自由の身となれますが、しかし、そのためにはどう足掻いたところでトールとクシナダを斃す必要がある。そしてそれは、わたしでは不可能。ですから、あなたたちを利用することにした》
「……そんなあなたの計画がオトロシャの謀略ではないとは言い切れないでしょう」
《何度も説明したはずです。オトロシャは、長きに渡ってわたしたちの前にすら姿を見せなかった。三魔将に命令を寄越すのは、小間使いの幻魔たち。わたしたちは、オトロシャの重臣でありながら、その側に近づくことすら許されなかったのです》
黄金の蝶を睨み据えながら、火倶夜と照彦は、考える。
オベロンは、オトロシャ直々に命令されることもなければ、進言することすらできないのが三魔将であり、上から降りてくる指示に唯々諾々と従い、外敵から恐府を護るためだけに日々を費やしていたのだ、といった。
だからこそ、オベロンは倦んでいたのだ、と。
オベロンだけではない。雷魔将トールも、地魔将クシナダも、現状に飽き飽きしているのだ、と、彼は断言していた。
トールが城ノ宮日流子を相手に大立ち回りを演じたのは、数十年ぶりの強敵との戦いだったからだ、とも。
恐府全体が、数十年以上もの長きに渡る沈黙の中で、停滞し、澱み、倦んでいるのだという。
だからこそ、オベロンは、行動を起こした。
オトロシャの支配の鎖を断ち切り、自由の身となって、魔界の空に羽撃くために。
そのために、人間を、戦団を利用しようというのに、騙し討ちをする道理はない――オベロンは、そう言い募る。
《オトロシャの覚醒と水穂市への攻撃は、わたしたちとしても予期せぬこと。事前に察知していれば、このように化身を寄越し、警告していたのですが、それもできなかった。それもこれも、オトロシャが秘密主義者故》
オベロンは、告げる。
《我々三魔将すら、彼の正体を知らないのです》
オトロシャの正体。
人間に似て非なる異形の怪物として水穂市に現れた鬼級幻魔こそが、そうではないのか。
火倶夜と照彦は顔を見合わせ、オベロンの発言の意図がわからず、首を傾げた。