第千百十四話 胎動(三)
眼前には、死に満ちた赤黒い大地が横たわっている。その起伏の激しい地形を見れば、魔界のただ中であることは疑いようがないだろう。
魔界。
魔天創世以降の地球のことをいう。
魔天創世によってあらゆる生物が死滅し、何十億、何百億、いやそれよりもずっと多い数の幻魔によって満ち溢れた天地は、そう呼ぶほかないからだ。
幻魔の幻魔による幻魔のための世界――故に、魔界。
そんな魔界を切り開いていくのがどれほど困難なのか、想像するにあまりある。限りなく不可能に近いのではないかという考えが脳裏を過ったのだとしても、なにもおかしなことではない。
それも、無理からぬことだ。
この小さな島国の、ほんのわずかな地域すら、人類の手に取り戻すのにも死力を尽くさなければならなかったし、奪還した地域を維持し続けるのも並大抵のことではなかった。
数多の犠牲を払い、膨大な血を流すことで、ようやく、人類生存圏は、その存在を許されている。
央都四市を囲う大境界防壁、通称・護法の長城の歩廊に立ち、竜ヶ丘照彦は、黙考する。
戦団戦務局戦闘部第十二軍団は、今月、第十一・十二衛星拠点を担当している。
第十一衛星拠点は、葦原市の東部、水穂市の北西部に位置する。第十二拠点は、葦原市の南東部だ。
照彦は、第十一衛星拠点が管轄する方面、つまり葦原市東部から水穂市北部へと至る長城にあり、北方に君臨する巨大な〈殻〉恐府を睨んでいたのだ。
長城と恐府の間に横たわる空白地帯はわずかばかりであり、その変化の激しい大地には、幻魔の姿は見当たらない。野良とも野生とも呼ばれる幻魔たちの大半は、恐府の、オトロシャの支配下に組み込まれてしまったからだ。
オトロシャ軍が戦力を補充しているという情報は、オベロンからもたらされていた。
それは、オトロシャが水穂市への侵攻を行うよりずっと以前のことであり、大規模な外征が予定されているのではないか、というのがオベロンの推察だった。
そして、そうであるならば、戦団とオベロンの協力関係が破断する可能性が高く、故にこそ、戦団は恐府の監視を強めていたのだが。
オベロンが戦団に情報を提供し、恐府への手引きすら行っているのは、数十年にも及ぶオトロシャの沈黙が原因だった。
心情は、理解できる。
この魔界に覇を唱えることのできる強大な力を持った鬼級幻魔だからこそ、その威に服し、臣従を誓ったというのに、恐府の、領土の維持に専念することだけを命令するようになれば、オベロンもやってはいられまい。
鬼級幻魔の多くは、領土的野心に突き動かされているという話だったし、オベロンもそうであるらしかった。
オトロシャの軍門に降ったのも、己が保身というよりは、幻魔の本能的欲求を満たすための手段なのだ。
だが、オトロシャは、沈黙した。
オトロシャ曰く、長き眠りについていたというのだが、その間、恐府の維持と管理だけを三魔将に厳命していたとあれば、オベロンが内心怒り狂うのもわからない話ではない。
そして、だからこそ、オベロンは、戦団と協力し、オトロシャを討とうとしたのである。
オトロシャを討ち、その支配から脱却することで、再び魔界に覇を唱えるために。
しかし。
『そちらの様子はどうかしら?』
「昨日と同じですよ。恐府は、沈黙したままです」
『こっちも変わらないわ。雷神の庭に変化はなし。相変わらず、獣級以下の幻魔たちが走り回っているだけよ』
「……訓練、でしょうか?」
『どうかしら。幻魔が訓練するだなんて話、聞いたこともないわよ』
「確かに」
静かに頷いたものの、しかし、いま遥か前方で繰り広げられているそれを軍事訓練と呼ばずしてなんというのだろう、と、照彦は考えるのだ。
通信相手は、第十軍団長・朱雀院火倶夜だ。
第十軍団が今月担当しているのは、第九・十衛星拠点である。第十衛星拠点は、出雲市の東部、恐府の真西に位置しているということもあり、第十一衛星拠点と同じく恐府攻略の最前線だった。
もっとも、いまは衛星拠点の先に建造された長城こそが最前線であり、長城拠点は毎日二十四時間、監視の目を光らせている。
照彦と火倶夜、軍団長自らが率先して監視に当たる必要はない――とは、言い切れなくなってしまった。
なんといっても、オトロシャが突如として水穂市内に出現、一瞬にして全域が掌握されるという非常事態が起きたのだ。
それもこれもユグドラシル・システムが機能障害を起こし、水穂市の都市機能に混乱が生じていたからにほかならないのだが、とはいえ、仮に万全であったとしても完璧に対応し、撃退できたかといえば、疑問の残るところだ。
なんの前触れもなく現れ、超広範囲の催眠魔法を発動されれば、いくら星将といえども対応できるものではない。
あの伊佐那美由理すら、有無を言わさずに眠らされ、悪夢に落ちるしかなかったのだ。
水穂市が危機を脱することができたのは、すぐさま照彦と播磨陽真が現地に向かい、さらに皆代幸多がオトロシャを引きつけてくれたからにほかならない。
もし、オトロシャが幸多に一切の興味を持たず、催眠魔法の精度を上げようとしたならば、人類は致命的な損害を被っていたことだろう。
そういう意味でも、幸多の無謀な挑戦を褒め称える声も多く、上層部も彼の昇級させるべきではないかと議論しているところだが、照彦の関与するところではない。
問題は、オトロシャが支配する〈殻〉恐府の様子である。
照彦率いる十二軍団が警戒しているのは、恐府南部に広がる黒禍の森だ。
妖魔将オベロンの領地であるそれは、どす黒くも禍々しい結晶樹の群生地である。黒い結晶樹は、陽の光を吸収する性質を持つという話であり、それが黒禍の森を飲み込むほどの暗闇を形成する要因であるようだ。
その黒禍の森に数多の幻魔が、なにやら必死になって動き回っている様子が見えるのだ。
それも統制の取れた、軍隊染みた動きだった。
とてもではないが、幻魔の群れに見られるものではない。
しかもそれが獣級以下の幻魔ばかりなのだから、疑問符も浮かぶ。
獣級、霊級の幻魔が群れを成して行動することがあったとしても、決して統率の取れた動きをすることはない。いずれもが我利我欲のために行動し、策や戦術などあったものではないのだ。
そこに付け入る隙が生じるのであり、人間が幻魔に立ち向かう上で重大な要素なのだが。
「もし仮に……仮にですよ」
『うん?』
「仮に、オトロシャ配下の幻魔たちが軍事訓練を行っているのだとすれば、なにが目的なのでしょうね?」
『……そんなの、考えるまでもないわ』
火倶夜のどこか呆れたような声には、表情が伴った。照彦の脳裏に彼女の顔が浮かんだのだ。
照彦は、火倶夜と星央魔導院の同期であり、付き合いが長い。ちょっとした声色から表情の変化が想像できるほどだ。
それは、火倶夜も同じに違いない。
《無論、央都四市を征服し、人類を管理下に置くためですよ》
不意に、頭上から聞こえてきた声にはっとすると、黄金色の光の粒子が視界を彩った。それが強い魔力を帯びた鱗粉であり、その源に金色の翅が羽撃いているのがわかる。
金色の蝶。
オベロンの化身だ。
「よく……顔を見せられたものですね、オベロン」
照彦が金色の蝶を睨み据えれば、周囲の導士たちが一斉に警戒を強めた。命じるまでもなく魔力を練成し、律像を構築し始める。攻防補、あらゆる型式の魔法が瞬時に発動待機状態へと移行するのは、並々ならぬ訓練の賜物だ。
それこそ、軍事訓練の。
《ふむ……剣呑だ。しかし、あなたがたが警戒するのも無理からぬこと》
オベロンは、そんな導士たちの反応を見て、当然と受け取ったようだった。