第千百十二話 胎動(一)
その日、草薙小隊は、空白地帯の巡回任務を行っていた。
大和市北部に横たわる護法の長城の向こう側には、三つの〈殻〉が存在しており、常に警戒していなければならない。
遥か北方に龍宮が位置していることは、戦団のみならず、央都市民にも知れ渡っていることだろう。遥か地下深くに沈むその〈殻〉は、幻魔の王国でありながらも、人類に対して敵意を向けてこないということもあり、他の〈殻〉よりは警戒しなくてよかった。
なんといっても、龍宮の殻主オトヒメが博愛精神の持ち主であり、幻魔同士だけでなく、人間とも刃を交えたくないという稀有な価値観の持ち主だからだ。
無論、導士の大半は、いまもなおオトヒメに気を許してはいないし、龍宮の動向には常に注意を払っている。
他の〈殻〉ほど警戒する必要はないという共通認識の元で、だ。
注意するべきは、龍宮よりも至近に位置するアトラスとオーマの〈殻〉である。そして、ここのところ、そのふたつの〈殻〉の動きが活発化しているということが戦団の調べでわかっていた。
いや、そのふたつの〈殻〉だけではない。
央都近郊に存在する多数の〈殻〉が、動きを見せているのだという。
魔界そのものが、胎動しているかのようだ。
頭上にはどす黒い雲が渦巻いていて、いまにも雨が降り出しそうだった。風は冷たく、冬の厳しさを思い出させるようであり、赤黒い大地もまた、凍てついている。
そんな真っ只中に草薙小隊は展開し、幻魔の群れと対峙していた。
「巡回早々、幻魔の大群と遭遇するなんて、ついているのかいないのか」
「悪運が強いのは間違いなさそ-」
「隊長の?」
「かもしれませんね」
真が紗耶たちの冗談をしれっと肯定してきたものだから、少しばかり慌てた。ただの軽口だが、真の場合は、そうした冗談すらも深刻に受け取ることがある。
紗耶は、二十二式戦闘装甲車両カラキリの屋根上に位置取り、防型魔法を展開しつつ、隊長の様子を見た。
草薙小隊のみならず同世代最高峰の攻手たる真は、カラキリを包囲した幻魔の大群を前に一切怯む様子はない。
真の周囲に展開する律像が複雑に変化し、精緻な設計図を組み上げていく光景を目の当たりにすれば、なんの心配もいらなくなる。そして、膨大化した魔力が星神力へと昇華していけば、鬼に金棒という気分だった。
五百体を越える霊級、獣級幻魔の大軍勢が、真の星神力に気圧され、混乱さえ生じていた。
幻魔は、魔素に引き寄せられる。
幻魔にとって魔素とは生命の源であり、生きていくために必要な糧なのだ。
故に、高濃度、高密度の魔素を感知すれば、有無を言わさず駆けつけ、喰らおうとする。
ただし、幻魔同士が互いの魔素を喰らい合うことはない。
幻魔は、幻魔を同族と認定しているようであり、余程のことがない限り、相争うということがないのだ。
そして、その余程のことが、いままさに草薙小隊を取り囲む幻魔の群れに起きている。
つまりは、草薙小隊を挟撃した幻魔の群れは、片方がアトラス軍の尖兵であり、もう片方がオーマ軍の兵隊だったのだ。
両軍の幻魔が睨み合っている真っ只中に飛び込んだのが草薙小隊であり、その結果、緊張と均衡が崩れた。となれば、両軍が動き出すのは当然の結果だったし、カラキリが挟み撃ちに遭うのも無理からぬことだろう。
草薙小隊はすぐさまカラキリを飛び出し、対応した。
カラキリは、小さな移動拠点といっても過言ではない。車体を覆う魔法合金製の装甲は分厚く、生半可な攻撃ではびくともしないどころか、傷つけるのも簡単なことではあるまい。妖級以上ならばいざしらず、獣級以下の攻撃では破壊することも難しい。
なにより、擬似霊場結界発生機構ミハシラを搭載しているのだ。停車と同時にミハシラを起動させれば、擬似霊石が霊場を形成、幻魔の接近を拒絶した。
さらに紗耶が防型魔法・大旋風陣を発動することで護りを完璧なものとすれば、空白地帯のど真ん中に小さな要塞が出現したといっても言い過ぎではなかった。
もはや、アトラス、オーマ両軍の幻魔など、おそるるに足りない。
ダメ押しに、真が星象現界を発動したのだ。
「天叢雲剣」
真が、燃え立つ紅蓮の直剣を掲げると、幻魔たちを激しく動揺させた。
幻魔の好物たる膨大にして超純度の魔素は、しかし、その破壊的な質量が故に、幻魔すらも戦慄させるのだ。
勝敗は、決まった。
式守春花は、ひとり、考え込んでいる。
式守小隊は、ただいま待機任務中である。
待機任務とは、市内各所に設けられた詰め所や監視所に入り、ほぼほぼ待機するだけの任務だ。付近で幻魔災害や魔法犯罪が発生した場合には、即座に飛び出し、対応するが、そうでない場合には、暇を持て余すことになる。
そして、大抵の場合、そうならざるを得ない。
サタンの出現以来、幻魔災害の発生頻度は増大した。
サタン以前とは比較にならないほどに、だ。
しかし、それでも、幻魔災害が一切起きない日のほうが多く、ましてや魔法犯罪など、年に数回起きる程度のものなのだから、待機任務ほどつまらないものはないと考える導士が少なくないのは当然のことだろう。
「平和なことはいいんだけどさー」
「ねー」
「なにも起きないのは、退屈すぎるよー」
「ねー」
秋葉と冬芽が、詰め所内をふたり仲良く転がりながら不服そうにいってくるが、こればかりは致し方がない。
「まあ……そうだね」
夏樹も、双子の意見に同感だったが、とはいえ、なにができるわけもない。ただ、詰め所の窓の外を眺めていた。
冬陽祭が終わり、年末へと向かう町並みは、冬の景色に染まっている。平穏だ。なんの問題も見受けられなければ、小隊の出番などあろうはずもない。弟妹たちの言うように、それこそ導士の望むべき日常なのだが。
もっとも、それは表面的なものに過ぎないということもまた、事実である。
春花が考えているのは、そのことだ。
安寧に満ちた表層ではなく、不安と混乱が蔓延る深層のこと。
戦団が、いや、この央都が直面している最悪の事態について。
(オトロシャ……か)
恐府の殻主・恐王オトロシャの水穂市侵攻は、戦団の導士たちにある種の覚悟を強いるものだった。
元より恐府攻略を当面の目標と掲げていた戦団ではあったが、それが可及的速やかに達成可能なものではないことくらい、だれもが理解していた。
長期的な計画だったのだ。
一年、いや、数年単位で達成するべき目標。
恐府とは、それほどの規模の〈殻〉であると考えられていた。
龍宮戦役で滅び去ったムスペルヘイムは、恐府よりも一回りほど小さな〈殻〉である。
滅ぼすだけならば、ムスペルヘイムと同様に殻石の所在地を割り出し、特攻を仕掛けるという方法もなくはない。
だが、戦団は、恐府を制圧することを目標としているのだ。
滅ぼすのではなく、制圧する。
殻石を破壊するだけならば、真星《》しんせい小隊が二度も成し遂げていることから、不可能ではないと考えていい。
だが、〈殻〉を制圧するとなれば、殻石を確保した上で霊石へと転換しなければならないのだ。
それがどれほど困難なことなのかは、推して知るべし、である。
それは即ち、〈殻〉の中心部へと乗り込み、殻主たる鬼級幻魔の猛攻に曝され続けなければならないということなのだ。
並大抵の戦力では、達成できまい。
だからといって、これまでのように殻石破壊で終わらせるわけにはいかないのだ。
殻石を破壊すれば、〈殻〉が空白地帯となり、周辺の〈殻〉から幻魔が雪崩れ込んでくるだけなのだ。
空白地帯を巡る幻魔同士の争いは、大きな混沌を呼び、人類生存圏を脅かしかねない。
(だから、恐府は制圧しなければならない)
そして、そのための戦力の拡充が戦団の急務となっており、いま上層部が目を付けているのが、昨日の新星乱舞に出場した十二の小隊であることはいうまでもないだろう。
『当然、式守小隊にも声がかかるでしょう』
とは、第二軍団長・神木神流の言葉だ。
春花は、そんな軍団長の言葉を胸に、決意を強めるのだった。