第千百十一話 幕が下りて(六)
「二十六日現在、精密検査を終えたのは、被魔法者の一割ほどです。いまのところ精神汚染の症状は見受けられませんが、全被魔法者の検査を終えるまでは安心できませんな」
粟津迅が厳つい顔をことさらに厳めしくするのは、当然のことだろう。
美由理は、幻板を睨みつけるようにして端末を操作しながら、第七軍団副長の報告を聞いていた。
水穂基地、基地司令執務室。
広々とした室内には、複数の幻板が表示されており、それらには昨日の大事件に関する様々な報告が上がっていた。
オトロシャの侵攻に伴う大規模幻魔災害。
(いや、極大規模というべきか)
美由理も、苦い顔で、それら大量の報告書に目を通しているのだ。
「あれほどの深度の精神魔法だ。オトロシャの意図に関わらず、精神汚染を発症しているものがいたとしてもなんら不思議ではない。徹底して検査しなければな」
水穂市の総人口は、およそ二十五万。
昨日、十二月二十五日は冬陽祭の当日であり、街中がお祭り騒ぎだったし、水穂基地では戦団感謝祭が行われてもいた。
戦団感謝祭においてもっともひとが集まるのは、葦原市の戦団本部だ。本部祭の会場には、央都中のみならず、双界全土から数多くのひとびとが集まっていたはずだ。
当然、水穂市から本部祭に参加した市民もいるはずだが、逆に市外から水穂市を訪れるものも決していないわけではない。
つまり、あの時刻、水穂市にいた全人間、全動物が検査対象だということだ。
というのも、オトロシャの催眠魔法は、人間以外の生物にも作用していたということが調査の結果、判明しているぁらだ。
精神魔法である。
被魔法者――つまり、魔法をかけられたひとびとの精神の深部、深層心理の領域になんらかの痕跡を残した可能性は、皆無とは言い切れない。精神魔法による後遺症である。そしてそれを精神汚染と呼ぶ。
故に精神魔法の痕跡が残っていないか、精神汚染の症状が出ていないか、徹底的に検査しなければならないし、確認されたのであれば治療しなければならないのである。
オトロシャが、央都を内部から崩壊させようと画策していないとは断言できないのだ。
迅も、美由理の言には強く頷いた。
彼もまた、オトロシャに悪夢を見せられ、地獄のどん底に叩き落とされたひとりだ。それこそ絶望的な悪夢の連鎖は、どれだけ足掻こうとも決して抜け出すことはできず、落ちていくばかりだった。
ようやく悪夢を脱することができたのは、美由理が催眠魔法を脱却し、その力によって催眠魔法が中和されてからのことだ。
さすがは星将というほかあるまい。
迅は、改めて、美由理との魔法技量の差を思い知ったのだ。
「よお、元気かよ」
「もう退院しても大丈夫なの?」
一二三が医務局棟を出るなりすぐさま声をかけてきたのは、九十九兄弟だった。
見れば、真白はいつにも増して不機嫌そうな表情をしていて、いつも以上に心配そうな顔の黒乃とは真逆といってもいいような、そんな感じがした。
「目覚めたばかりで歩き回るなんて元気だね」
とは、義一。
一二三にとって義理の兄に当たる彼は、一二三の様子を心配しつつも、その表情を読み、呆れているようでもあった。
「元気だし、大丈夫!」
一二三がはっきりと言い切れば、真星小隊の三人は顔を見合わせた。
真白がなぜ不満そうな顔をしていたのかは、すぐにわかった。
幸多がいないからだ。
しかも、幸多は、昨日の新星乱舞中に姿を消してから、ろくに会話もできていないのだという。
「隊長は酷い奴なんだよ、おれたちの気も知らないでさ」
「でもでも、隊長のおかげって話だし……」
「だとしてもだな、なにか一言くらいあっても良かっただろうが」
「それは……そうだけど……」
真白の剣幕を宥めようとした黒乃だったが、すぐさま諦めてしまった。兄の性分をよく理解しているからこその諦めの速さだ。
本部棟大食堂の一角。
テーブルには、様々な料理が大量に並べられていて、豊かな彩りと香りが一二三の食欲を何倍にも増幅させるようだった一二三にとっては、実に三十時間ぶりくらいの食事である。もっとも、彼が空腹感に苛まれたのは、義一たちと合流してからのことだった。
きっと、安心したのだ、と、一二三は自己診断している。
「あまりがっつかないようにね」
「はあい」
兄の忠告に素直に従いつつ、まずはスープに手を付ける。熱々であっさり目のスープが、空きっ腹を癒やしてくれるようだった。
「聞いてんのか? 一二三」
「聞いてるー」
「嘘くせえ奴」
「なんでそんなに怒るかなあ」
一二三は、真白の気持ちが少しは理解できるから、余計にそんな風にいった。そして、手元の小皿に鶏の唐揚げや魚の揚げ物を装う。
「聞いた話だと、幸多が大活躍したっていうじゃん」
「そうだよ。隊長は、身を挺して水穂市を救ったといっても過言じゃないんだよ。まあ……命令違反ではあるんだろうけれど」
とはいえ、幸多がその身を投げ出してオトロシャの注意を引かなければ、水穂市が制圧されていた可能性は低くないのだ。
故に、幸多の暴走ともいうべき行動は、不問とされた。
それどころか、功績を称える準備が整いつつあるという話も聞こえてきている。
鬼級幻魔オトロシャの撃退に尽力したのだから、当然といえば当然なのかもしれないが。
「でもよお」
真白が、それでも不満そうなのは、彼が幸多のことが好きすぎるからだろう、と、一二三は、結論づけていた。
真白だけではない。
真星小隊の全員が、幸多に限りない好意を抱いている。
一二三は、そんな四人の中でも一番だという自負があったし、だからこそ、真白の気持ちもわかるのだ。
幸多は、確かに水穂市を救った英雄だ。
だが、そのために命を投げ出したという事実は変わらないし、死に直面したことも否定しようがない。
もし万が一、幸多の身になにかがあれば、幸多が命を落とすようなことがあれば、この場にいる四人は、絶望に暮れるに違いないのだ。
だから、無事な姿を見せて欲しいと考えるのは、ただの我が儘ではあるまい。
前方には、廃墟同然の都市が横たわっている。
いや、遺跡と言うべきかもしれない。
百年以上の昔に作られ、魔天創世によって滅び去った都市。その残骸は、いまもなお魔界の各所に存在しているのだ。
かつて、この世界において、人類が確かに存在し、栄華を極めていた証として。
「新星乱舞の翌日に任務だなんて、ほんっと、人使いが荒いわよね!」
「仕方がないだろ。戦団はいつだって手が足りないんだ」
「せやで、本荘。皆代の言う通りや。まあ、人使いが荒いんも確かやけどな」
ルナが憤然とする気持ちもわからなくはないといわんばかりの調子で、味泥朝彦がいった。
今回の任務は、味泥小隊と皆代小隊の合同で行われており、指揮権は当然、杖長である朝彦にある。
味泥小隊四名、皆代小隊六名の合計十名からなる調査隊は、昨日、護法の長城北西にその存在が確認されたダンジョンを目前にして、作戦会議を開いているのである。
この魔界は、毎日のように地形が変化する。
これを〈地変〉と呼ぶ。
〈地変〉の原因は、魔界に満ちた超高濃度の魔素によるものとも、魔天創世の影響だともいわれているが、確定しているわけではない。
戦団は、長らく調査を続けているものの、〈地変〉に関する明確な答えを得られずにいるのだ。
ただ、魔素が安定した〈殻〉内部や霊石結界内では〈地変〉は起きないため、やはり魔界に満ちた魔素の不安定さが起こしている現象だというのが有力な説だ。
そして、こうした〈地変〉によって時折出現するのが、かつての人類の都市の残骸であり、ダンジョンと呼ばれる領域である。
「戦団は常に人手不足、人材不足やからな。きみらのような有能かつ優秀な導士には、難度の高そうな任務が回ってくるっちゅう寸法ってわけや」
「有能かつ優秀……」
「せや。本荘なんかはもう優秀中の優秀、最優秀、超優秀やからな。上層部も全幅の信頼を寄せとるわけや」
「全幅の信頼……わたしに?」
「せやで。おれかて、本荘には期待させてもらってる。戦団の未来を背負うのは、きみしかおらん」
「わたししか……いない……!」
ついには握り締めた拳を振り上げ、決然とした表情を見せたルナを目の当たりにして、統魔は、字たちと顔を見合わせた。
口八丁手八丁は、朝彦の得意技だ。代名詞といっていい。
そして、その言葉に嘘はないということもまた、朝彦を朝彦たらしめているのだ。