第千百八話 幕が下りて(三)
圭悟たちが本部棟を出ると、ちょっとした混乱が戦団本部を包み込んでいた。
戦団本部は、現在、戦団感謝祭の真っ只中だ。
戦団感謝祭の目玉企画である新星乱舞は、会場の外にいた人達もさぞかし熱中していたことは想像に難くない。
実際、本部内各所に設置された特大幻板の前には、黒山の人だかりができていた。新星乱舞の中継映像が流されていたからだ。
本部祭に参加するということは、つまり、それだけ戦団に関心を持っているということだ。戦団が売り出し中の若手導士たちが、己が力と誇りを懸け、火花を散らす様に興奮しないわけがない。
仮に圭悟たちが特別招待券を手に入れられなかったのであれば、会場内のどこかで中継映像にのめり込んでいたのはいうまでもない事実だ。
それは、さておき。
本部祭の会場全体を包み込む動揺の大きさに、圭悟は、怪訝な顔をした。
冬とは思えないほどの陽気は、頭上から降り注ぐ眩いばかりの太陽光線がもたらしているのだろうし、爽やかな青空には雲ひとつ見当たらない。風も緩やかで、平穏だ。だが、そんな会場を包み込む空気は、どうにも不穏なのだ。
「なんだ?」
「なにかあったみたいだけど」
「会場で?」
「さあ?」
「あら?」
圭悟たちが会場の様子に困惑している中、紗江子が携帯端末を見ると、戦団名義の緊急速報の通知が入ってきていた。ここに至るまで通知に気付けなかったのは、新星乱舞の会場では携帯端末の使用を禁止されており、電源を切っていからだ。
すぐさま画面に指で触れ、展開する。
「……水穂市で大規模幻魔災害が発生――」
「はい?」
「なんだと?」
「どういうこと!?」
紗江子が読み上げ始めた文面には、圭悟たちも目を見開いた。それぞれ即座に携帯端末を取り出し、確認する。やはり、全員の携帯端末に戦団からの緊急速報が届いており、それを開くと、同様の文面が表示される。
通知によれば、水穂市全体を襲った大規模幻魔災害が発生したのは、新星乱舞決勝戦の最中、それも最終最後の対決が行われている時刻であるらしく、会場にいた圭悟たちが気づかないのは当然だった。
「水穂市全体を巻き込むほどの幻魔災害って、なんだよそりゃ……」
「もう解決したみたいだし、戦団の発表を待つしかないでしょ」
「そりゃあそうだけどよぉ……」
圭悟がなんだか釈然としないのは、緊急通知だけでは被害状況がわからないということもあれば、水穂市全域が幻魔災害に巻き込まれたというような表現が使われているからだ。
央都史上最大規模の幻魔災害ではないか。
これまでどれだけ規模が大きくても、市全体を巻き添えにするほどのものではなかった。
新星乱舞を観覧して沸き上がっていた気分が、急転し、落下していくのがわかる。
本部祭に集まった市民の間に動揺や不安が広がっているのも、当然の反応と思えた。
「阿弥陀真弥のいう通りだな。わたしたち一般市民にできることなど、戦団を信じることだけだ」
それが大規模幻魔災害なら尚更だ、と、法子は付け足した。
圭悟も、そんなことは理解している。
幻魔災害に直面したとき、一般市民にできることと言えば、逃げることだけだ。
そして、それが市民に求められる唯一の対応であり、正しい行いなのだ。
幻魔を斃すのは、戦団の、導士の役割であり、仕事であり、責任であり、義務なのだ。
ただの一般市民に過ぎない圭悟には、法子のいうように、戦団が市民のためにできる限りのことをしてくれているのだと信じることだけであり、その点についてはなんの疑問もなかった。
戦団も、導士たちも、よくやってくれている。
この地獄のような世界で、それでも人類が生きてられるのは、日常を謳歌できているのは、戦団があればこそだ。
それでも、前例のない規模の幻魔災害が起きたという事実を知れば、不安に駆られるのも無理はないだろう。
だれもが、そうだ。
故に、本部全体に動揺が波紋の如く広がっているのだ。
「まったく、相変わらず無茶をする」
美由理が大きく息を吐いて苦笑したのは、当然のことだと幸多は想った。
晴れ渡る空の下、仰ぎ見るのは、雲ひとつ見当たらない景色だ。太陽が中天から傾きつつある。
吹き抜ける風が、幸多の頬を撫でた。
水穂基地。
水穂市全体が大規模幻魔災害に見舞われ、全導士、全市民が被害に遭ったということもあり、戦団感謝祭は中断せざるを得なかった。
再開の目処は立っていない。
なんといっても、会場である水穂基地がとんでもない損害を被っているのだ。
兵舎が吹き飛ばされ、周囲一帯が破壊されている。
導士や市民に死者が出なかったのは奇跡というほかなかったし、そのために手を尽くしたのが幸多だ。
幸多が、戦団本部から水穂市へと空間転移魔法よろしく移動してきたというのもそうだが、水穂基地に到着後、オトロシャの攻撃から導士や市民を救ったことにはだれもが驚嘆を禁じ得ない。
美由理は、そんな幸多の様子を見ていた。特設舞台の上。ふたりのほかには、だれもいない。催眠状態から立ち直った導士たちは、さっそく飛び回っている。未だ眠り続ける市民を救助するために、だ。
オトロシャの大規模催眠魔法は、その範囲だけでなく、威力、精度ともにとてつもないものであり、精神制御訓練を受けることのない一般市民が、自力で立ち直ることは困難だった。故に、導士たちが水穂基地内のみならず、市内全土を走り回っている。
もちろん、第七軍団の人員だけでは圧倒的に数が足りないので、葦原市や周囲の衛星拠点から次々と導士が派遣されている最中だった。
幸多はといえば、オトロシャに立ち向かった挙げ句、両手首、両足首の骨を折られ、首筋に致命的にも思えるような傷を付けられており、救助活動などしている場合ではなかった。
もっとも、首の傷以外は大したものではない、というのが幸多の意見だが。
確かに、骨折程度、彼が魔法士ならば、瞬く間に完治できるだろう。完全無能者だとしても、持ち前の生命力でどうとでもなるものだ。幸多のそれは、常人とは比較にならないほどのものだ。そして、首の傷も、彼特有の再生力のおかげで、どうにかなっている。
『しかし、皆代輝士のおかげで助かったのは、紛れもない事実です』
「わかっている」
市内を飛び回っているはずの粟津迅が通信機越しに口を挟んできたので、美由理は眉根を寄せた。いわれるまでもないことだ。
幸多が時間を稼いでくれたからこそ、オトロシャを撃退することができた――とは、播磨陽真、竜ヶ丘照彦両軍団長の言葉だ。
幸多がいなければ、オトロシャの催眠魔法を中和している間に、水穂市全体がその魔の手に落ちていたのではないか。
だれもが悪夢に飲まれ、苛まれ、蝕まれていたのではないか。
美由理自身、そうだった。
危うく、悪夢に敗れ去るところだったのだ。
だが、打ち勝つことができた。
それもこれも、彼のおかげだ。
「幸多」
美由理は、幸多の手に触れた。
「きみの声が聞こえたよ」
「ぼくの……声、ですか」
幸多は、美由理の声のあまりの優しさに呆然とした。氷の女帝という異名からは想像もつかないほどに柔らかく、穏やかな声。
「ああ。わたしが悪夢に魘されているとき、きみの声が聞こえたんだ。きみの声が、わたしを悪夢から解放してくれた」
美由理の目が、真っ直ぐに幸多を見つめていた。群青色の虹彩は、混じり気ひとつない湖面のように透き通って、美しい。
息を呑むとはまさにこのことで、幸多は、思わず見惚れてしまった。
だが、それはいつものことだ。
いつものことなのだ。
幸多にとって美由理は、師匠である以前に憧れの導士であり、英雄なのだ。
「オトロシャの催眠魔法は、ただ眠らせるだけじゃなかった。眠らせた挙げ句、悪夢を見せ、精神的に追い詰めていく類の魔法だった。わたしも、わたし以外のだれもかれもが、自分がもっとも恐れるものを見せられ、精神的に消耗させられていたはずだ。わたし自身が、そうだったからな」
「自分がもっとも恐れるもの……」
「それも、一度や二度じゃない。何十回、何百回と悪夢を見せられれば、さすがのわたしもくじけそうになったよ」
「師匠が、ですか?」
幸多は、美由理の言葉に驚きを隠さなかった。美由理がそのような弱気な発言をするとはまったく思えなかったからだ。
いまのいままで、幸多の中の美由理像というのは、まさに英雄然としたものであり、常に凜とした威風を纏うというものだった。
もちろん、平時の美由理は、必ずしもそうではない一面があるということも知っているのだが、しかし、やはり、伊佐那美由理といえば、氷の女帝なのだ。
どのような状況に至っても眉ひとつ動かさず、表情ひとつ変えない、冷酷無比にして冷厳無双なる氷の魔法士。
だが、いま幸多の目の前にいるのは、人間、伊佐那美由理だった。
「ああ、わたしもまだまだ未熟だな。きみの声が聞こえなかったら、きっと――」
きっと、悪夢に堕ちていた。
美由理は、幸多の褐色の瞳を見つめ、あの日からなにも変わらないそのまなざしに目を細めた。