第千百五話 夢を見せるもの(六)
《そうまでして拒絶するというのであれば、考えを改めざるを得まい。余は、平穏裏に事を進めようとしていたのだがな》
上空のオトロシャは、眼下の導士たちを睥睨するようにして、いった。
無論、導士たちの攻撃は止んでいない。
銀河守護神《G・ガーディアン》がその巨躯に物をいわせた打撃を叩き込めば、陽真が岩塊剣で殴りつけ、さらに複数の星象現界、数多の攻型魔法が殺到していく。
しかし、オトロシャは、表情を変えない。
分厚い魔法壁が、その全周囲に展開されたからだ。
星将たちの星象現界すらも弾き返すほどに強力な防御魔法。。
幸多は、その頑丈極まりない魔法壁の内側にあって、平然としているオトロシャを睨んでいた。
「なにが平穏裏だ! 皆、悪夢にうなされていたじゃないか!」
「ええ、その通りです。この催眠魔法は、悪夢を見せ、精神を疲弊させ、生命力を奪うためのもの。とても平穏裏とは言い難い」
「やはり、幻魔は幻魔。度し難く、故に滅ぼすしかないということだ」
銀河守護神の肩を足場にしながら、陽真が断言した。エクスカリバーの柄を握り締め、星神力を集中させる。周囲の空間が歪むほどの魔素質量だ。
だが、それでも、オトロシャは、倒せないだろう。
倒すためには、もっと多くの戦力が必要だ。星将たちを呼び集め、全力の星象現界を叩き込まなければならない。
しかしながら、ここでそんなことをすれば、水穂市が大打撃を受けることになる。
誰も彼もが眠っていて、避難することもかなわないという現実もある。
市民の避難が完了していたのであれば、地上の被害など構わずに暴れ回ることも視野にいれるのだが、そういうわけにはいかなかった。
杖長たちが合性魔法による結界で、オトロシャを中心とする広域を包みこんでいるのは、戦いの余波を抑え込むためだ。そして、それはいまのところ上手くいっている。戦力が足りないからだ。オトロシャを滅ぼすに足るだけの戦力が。
そして、それだけの戦力が揃えば、余波だけで結界が崩壊し、水穂市に甚大な被害が出ること間違いない。
それこそ、オトロシャの大規模催眠魔法とさえ比較にならないほどの。
そのため、全力を発揮しきれない。
オトロシャは、そこまで考慮して、水穂市全体を眠らせたのか。
(――考えすぎだな)
陽真は、オトロシャの異形を見据え、歯噛みした。
鬼級幻魔は、人間と同等かそれ以上の知能、知性を持っている。それは幻魔を忌み嫌う導士であれ、認めざるを得ない事実だ。〈七悪〉が双界に暗躍し、混乱を撒き散らしたことは記憶に新しいし、それ以前から鬼級幻魔に人間以上の知性が認められていた。
オトロシャがここにいるのだって、そうだろう。
並外れた魔法力と、人間以上の知能があればこその戦術。
オトロシャの目は、様々な方向を向いていて、そのひとつが陽真を見ていた。
《物騒な。余は、汝ら人間を保護しようというのに》
「幻魔に保護されて生きていく世界など、考えたくもない」
《それだけが人間に残された唯一の希望だとしてもか?》
「幻魔に管理されるくらいなら、滅んだ方がマシだな!」
陽真が力強く言い放つと、オトロシャが目を細めた。まるで駄々《だだ》を捏ねる子供を見るようなまなざしは、陽真の憎悪を駆り立て、激昂させるだけだ。
幻魔への憎悪は、この時代、人間ならばだれもが心の奥底に抱いているといっても過言ではない。
そして、それは、幻魔と対峙したときに表出し、場合によっては、爆発する。
いままさに陽真がそうであるように。
そして、そうなれば、もはや手の施しようがない。
激情が、陽真を支配する。
銀河守護神の肩から飛び出した陽真は、大上段に振りかぶったエクスカリバーが空を切るのを認めた。
オトロシャが、姿を消したのだ。
《ならば、足掻くがよい――》
オトロシャの声が、その場にいた全員の脳内に響き、そして消滅した。
幸多は、照彦を見て、陽真を見た。
星将たちは、周囲に視線を巡らせ、オトロシャの催眠魔法が消失したことを確認すると、互いに目線を交わし、頷き合った。
「状況、終了」
陽真が、星象現界を解除した。
幸多は、水穂基地に降り立った。
動脈に至るほどの首筋の傷は既に塞がっていて、両手首、両足首の骨折は、闘衣を着替えることで補っていた。闘衣が強く固定してくれているのだ。そして、痛覚の遮断。これならば、ある程度動き回ってもなんの問題もなさそうだった。
戦闘行動はできないだろうが。
すぐさま医務局で精密検査を受けるべきだという照彦の忠告も当然ではあったが、それよりも優先するべきことがあるといって、幸多は星将たちから離れた。
無理をしようが、関係ない。
幸多は、水穂基地内の様子に大した変化がないことに気づくと、足を急がせた。
市民は、まだ眠ったままだ。
魔法士とはいえ、精神制御の訓練を受けていないのであれば当然だろう。
美由理さえも意識を奪われるほどに凶悪な催眠魔法だったのだ。
一方で、導士たちは、常日頃から訓練を受けていることもあって、目覚めつつあるようだった。
そして、水穂基地の中心に設営された舞台に上がり込めば、ちょうど粟津迅の巨体が起き上がったところだったこともあり、幸多は思わず転がり落ちそうになった。
そんな幸多の手を掴み、引っ張り上げてくれたのは、だれあろう、美由理である。
美由理は、幸多を舞台上に引き上げると、なんともいえない顔をした。どういう表情をするべきなのか、考え込んだのだ。
「状況は、把握している」
美由理は、幸多が満身創痍かつ瀕死の重傷を負っているという情報も受け取っており、故に困らざるを得ないのだ。
幸多が、なんの問題もないとでもいわんばかりに立っているのが不思議なくらいだ。無論、それもこれも彼が身に纏っている闘衣のおかげなのだろうが、それにしたって、と思わざるを得ない。
幸多は、オトロシャと対峙したのだという。
恐府の殻主にして、恐王と名乗る鬼級幻魔。
水穂市を未曾有の危機に陥れた、夢を見せるもの。
そんなとき、幸多の背中を力強く叩いたのは、迅の大きな手だ。
「大活躍だったそうじゃないか、皆代導士」
「あ、いや、そんなことは全然ないんですけど」
「そう謙遜するものでもあるまい。きみが時間を稼いでくれたからこそ、どうにかオトロシャを撃退できたのは事実だ。そして、我々はあの悪夢から舞い戻ることができたのもな。本当に、最悪の夢だったのだぞ」
「最悪の……師匠も、ですか?」
「ああ。何度も何度も悪夢を見せられたよ」
「何度も……」
「終わったかと思えば、つぎの悪夢が始まるんだ。心が折れるまで、何度も、何度もな。最悪だろう」
「はい」
歴戦の猛者にして第七軍団の精神的支柱というべき粟津迅すらも、渋面を作るほどなのだ。
推して知るべし、と、幸多は想った。
もっとも、悪夢に苛まれていた人達の、美由理の苦悶の表情を一目見れば、それがどれほどの精神的苦痛をもたらしていたのか、想像できないはずもない。
美由理が助けを求め、譫言を発したほどだ。
氷の女帝が、だ。
だからこそ、幸多はオトロシャに立ち向かったのだし、そうした行動がこのような結果に繋がったのであれば、なにもいうことはないのかもしれないが。
「悪い夢……本当に嫌な夢だったよ」
美由理が、大きく息を吐いた。
悪夢は、去った。
しかし、記憶には残り続けている。
美由理の欲望がまさに牙を剥いてきたかのような、悪夢の数々。それがいまもなお、実体験だったかのように意識を蝕んでいた。
しばらく、幸多をまともに見ることもできなくなるのではないかと思えたが、幸いにもそれはなかった。
というのも、幸多が真っ直ぐに見つめてくれるからだ。
彼の褐色の瞳は、美由理の精神安定剤といっても言い過ぎではなかった。
神威は、目の前に広がる暗黒空間を睨んでいた。
幻想空間上に構築された闇の世界。
そこに浮かび上がるのは、複数の面であり、護法院の長老たちの象徴である。
戦団感謝祭の当日、しかもお祭り騒ぎの最中にあって、護法院の会議が開かれるなど、前代未聞だった。
だが、このような事態に直面すれば、開かざるを得まい。
恐府の殻主オトロシャが、突如として水穂市へと侵攻してきたのだ。
しかも、みずからを恐王と名乗る幻魔は、人間の保護を謳い、そのために水穂市全体を催眠魔法で飲み込んだというのだ。
星将・伊佐那美由理すらも抵抗できないほど強力無比にして、水穂市全体を覆うほど広範囲に及ぶ催眠魔法。
市民は無論のこと、導士もひとり残らず、その魔法の影響を受けてしまった。
催眠魔法を無効化できたのは、皆代幸多ただひとり。
「水穂市が制圧されるという最悪の事態は免れたが、しかし……」
神威は、苦虫を噛み潰したような顔になるのを自覚した。きっと、ほかの長老たちも似たような表情に違いない。
央都の安息は、破られた。
いや、そんなものは端から存在しなかったと考えるべきなのだろう。
霊石結界など、鬼級にはなんの障害にもならない。
何十億、いやもっと多くの幻魔が跳梁跋扈するこの魔界で、人類の領土を確保し、維持し続けるのは、簡単なことではないのだ。