第千百四話 夢を見せるもの(五)
《余が人間を知る機会は、永遠に失われた――そう想っていた。故に余は眠りにつき、恐府を子供たちに任せていたのだが……どうやら、人間はわずかながらも生き残っていたようだな》
オトロシャの二十の目、四十の瞳が、幸多を見つめている。紅く黒く禍々《まがまが》しい光を帯びた、幻魔の眼。
見ているだけで血の気が引き、寒気がした。全身が強張り、呼吸も荒くなる。
《オベロンが……あの悪戯っ子が汝らに接触したのは、結局のところ、余の意を汲んでいたからにほかならぬ。オベロンは気づいてもおらぬだろうがな》
「オベロンを操っていたということか」
《操る? くだらぬ》
オトロシャの手のひとつが、幸多の首に触れた。青白くも透き通るような質感の手は、やはり超高純度の魔素の結晶であり、指先が触れるだけで幸多の首筋を容易く傷つける。
だが、痛みはない。
闘衣が痛覚を遮断してくれているからだが、だからといって状況はなにも変わらない。絶体絶命の窮地。
《子が親を想い、行動を起こすのは、人間とて同じことだろうに》
「子? 親? さっきから聞いていれば、おかしなことをいう。おまえたちは親子でもなんでもないだろ」
《血の繋がりがなければ、親子ではないというのか? それこそ、人間らしからぬ発言だ》
「それは……」
幸多は、思わぬところを突かれ、ぎょっとした。血の繋がりがなかろうとも家族になれるということは、皆代家が証明しているではないか。
統魔とは、血の繋がりがなくとも、血を分けた兄弟よりも深い関係だと自負している。
伊佐那家も、そうだ。
伊佐那麒麟の子供たちは、皆、血の繋がりがなかった。しかし。伊佐那家には確かな絆があり、互いに想い合っている。
魔法社会において血統が重要視されることは少なくないものの、こと家族となれば、話は別なのだ。
血よりも濃い絆で結ばれる家族は、多い。
だが、しかし、幸多には、幻魔が人間と同様の関係性を構築するとは信じがたかった。
幻魔が独自の社会を作り上げていることは、周知の事実だ。
〈殻〉が幻魔にとっての都市、あるいは王国だということもよく知られた話だ。〈殻〉は、殻主を頂点とした社会が形成されており、殻主に臣従を誓った幻魔たちがそれぞれに定められた役割を担い、日夜活動しているという。
また、鬼級の多くは、人間に匹敵するかそれ以上の知性を持ち、強烈な自我、個性を発揮しており、鬼級同士でなんらかの結びつきを持つことも少なくない。
ただ、多くの場合、力に起因する主従関係だ。
例外もある。
龍宮のオトヒメとマルファスや、エロスとオロバスの関係性は、絶対的な主従関係とは少し違っていた。
まるで人間社会のようだ。
《人間は、子を慈しみ、愛し、導く。余もまた、愚かな子供たちをそれでも慈しみ、愛し、導いているだけのこと。オベロンも、トールも、クシナダも、いずれも余の愛しい子供たちなのだから》
幾重にも響くオトロシャの声は、確かに慈愛に満ちているように聞こえて、それ故に幸多は、頭がおかしくなるのではないかと思った。
幻魔の中には愛情深いものがいたとしても、なんら不思議ではない。
オトヒメなどは、博愛精神の権化のようだったし、エロスはオロバスの死によって激昂したことは記憶に新しい。
オトロシャが、配下の三魔将を我が子のように愛しているのだとして、なんら不思議ではないし、疑問を持つほうがどうかしているのかもしれない。
それでも、幸多にはどうにも受け入れがたいものだ。
なぜかはわからない。
本能が、オトロシャを拒絶している。
《そして、人間よ。汝らは、余が保護しよう。この魔界において、人類が生き延びるにはそれ以外の方法はない。増え、地に満ち、再びこの星を埋め尽くすことを夢見るのであれば、余の言を受け入れるのだ》
オトロシャは、道理を説くかのようにいってきたが、当然、幸多は聞き入れるつもりもなかった。痛覚を遮断した結果、オトロシャの指先が首に食い込み、皮膚を突き破って動脈に触れている感覚もわからないが、死に直面している事実は、理解している。
脳内を、生命の緊急事態を通達する信号が走っていた。
それが闘衣の機能なのか、それとも超分子機械の反応なのか、判別はつかないが。
ともかく、幸多は、オトロシャを睨んだ。叫ぶ。
「そんなこと、受け入れるわけないだろ!」
《なぜだ?》
オトロシャの五つの顔が、不思議そうな表情をした。まるで理屈に合わないといわんばかりだ。
自分の提案こそが絶対の道理であって、それ以外の結論など端からありえないと確信している、そんな反応に思えた。それが、幸多には許せない。受け入れられない。
「ぼくたちは、人間だ!」
《ふむ……?》
オトロシャは、幸多の発言の意図が理解できずに首を傾げる。
両手両足を破壊し、首筋に致命的な傷を刻んでもなお、こちらを睨み据え、意気軒昂に叫んでくるのだ。どこにそれだけの力があるのか。
力の差は、圧倒的だ。
絶対的といってもいい。
相手に勝ち目はなく、対抗する手段すらないのだ。
なんといっても、目の前の人間には、魔素が宿っていないのだから。
《意気やよし。されど、意気だけではどうにもならぬ現実を知るべきだ》
「知ってるさ、そんなこと」
幸多は、オトロシャの全ての目が見開かれる瞬間を見ていた。
光が、二十の目を灼いた。
遥か上空から降ってきたそれは、オトロシャの顔面を殴りつけ、凄まじい閃光を撒き散らしていった。轟音と爆風。オトロシャが思わず幸多を手放したのは、そうしなければ続け様に連打を喰らうことを理解していたからだったし、だからこそ、空中に放り投げられた幸多は確保されたのだ。
第十二軍団長・竜ヶ丘照彦によって。
「よく持ち堪えましたね」
竜ヶ丘照彦の柔らかな声と穏やかなまなざしが、幸多をようやく安堵させた。軍団長である。その圧倒的な戦闘能力は、幸多とは比較にならない。安心感が違う。
事実、照彦の星象現界・銀河守護神《G・ガーディアン》は、オトロシャ以上の巨大さでもって水穂市に顕現しており、鬼級との取っ組み合いを披露していた。
その迫力たるや、筆舌に尽くしがたい。
「た、助かりました……!」
「助かったのは、こちらのほうですよ。ぼくたちが入り込めたのは、きみが時間を稼いでくれたおかげですよ」
「オトロシャがおまえの特異性に興味を持ってくれたからだ、皆代」
照彦に続いて颯爽と現れるなり、超特大の岩塊をオトロシャに叩きつけたのは、第三軍団長・播磨陽真だ。岩塊は、彼の手にした剣の刀身そのものである。
星象現界・正統なる王の剣。
ふたりの軍団長が星象現界を発動しているという事実は、幸多の安心をさらに強固なものとしただけでなく、大いに興奮させた。
オトロシャも、想定外の事態だったのだろう。表情から困惑さえ伝わってくる。
銀河守護神は、全長十数メートルの光の巨人だ。質量だけならばオトロシャを圧倒していて、実際、わずかに押しているように見えた。
その巨躯から想像もつかない速度で打ち出される拳がオトロシャに叩きつけられるたび、鬼級の巨体が激しく揺れている。そこへ、陽真が岩塊剣をぶち込んでいくのである。
それだけではない。
次々と戦場に到着した第三、第十二軍団の杖長たちが、星象現界を発動、強力無比な攻撃をオトロシャに叩きつけていけば、さしもの恐府の殻主も瞠目せざるを得なかったようだ。
「オトロシャの催眠魔法を中和するのに手間取りましたが、中和さえすれば、この通り」
「す、凄い……」
幸多は、照彦の腕の中で、激戦を見ていた。
恐王オトロシャは、十本の腕を伸ばし、黒い光線を乱れ撃った。幾重もの螺旋を描く黒い光の奔流が、銀河守護神の胴体に無数の穴を開け、陽真の岩塊剣を削り、杖長たちの星象現界にも大打撃を与えるが、それでも攻勢は止まない。
第三軍団杖長筆頭・大久保義成の星象現界・雷上動が唸りを上げて雷光を連射し、第十二軍団杖長筆頭・須磨菫の星象現界・芭蕉扇が巨大な竜巻を起こす。
《良かろう》
暴風に煽られるように上空へと移動したオトロシャは、幾重にも声を響かせた。