第千百一話 夢を見せるもの(二)
「オトロシャ……」
幸多は、今現在水穂市全体を攻撃しているのであろう鬼級幻魔の名を発し、背筋が凍るような感覚に包まれた。全神経が張り詰め、意識が研ぎ澄まされる。
この水穂基地も、攻撃を受けている。
導士も市民も、だれもかれもが魔法の影響下にあり、悪夢にうなされているのだ。
見る限りでは無防備極まりない状態であり、オトロシャが軍勢を差し向けてくれば、一溜まりもあるまい。
いや、それどころか――。
「市内の第七軍団は、全員眠っているんですよね?」
『ええ。だから付近の衛星拠点から部隊を派遣したのだけれど、市内に入り込んだ小隊とは連絡が取れなくなったわ。皆、オトロシャの魔法で眠らされてしまったのよ』
「……なるほど」
だから、街全体が眠ったままであり、動き回る導士の姿が見当たらないのだと、幸多は理解した。
『最初に小隊を派遣したのは、水穂市との連絡が取れなくなった直後のことよ。そのときは、オトロシャによる大規模幻魔災害だとは特定されていなかった』
水穂市全体を襲った機能障害は、幻魔の接近を認識できず、固有波形の観測もできなかったということだろう。
オトロシャが魔法による空間転移を行ったのであれば、護法の長城も衛星拠点も、その接近を把握することはできない。
だが、だとしても、水穂市が機能不全にさえ陥っていなければ、転移直後にその莫大極まりない魔素質量を観測し、固有波形を特定、警報が鳴り響いたはずである。
『もっとも、即座に一部機能の回復には成功したから、その際に固有波形を観測、恐府を形成する固有波形との一致を確認したわ。そこで戦団は即座に大規模戦力の派遣を決定、各衛星拠点から星将を差し向けた――のだけれど』
「催眠魔法の範囲内に入り込めない?」
『杖長が防型魔法を用いていても抵抗できずに眠ってしまう程、強力な催眠魔法なのよ。いまは星将が催眠魔法の中和を試みている状態よ』
『そんな中、きみが現れた』
「わ」
『わ?』
「あ、いえ……その、イリアさんしか聞いていないのかと思いまして」
『そんなわけはないだろう』
苦笑とともに冷静に告げてきたのは、王塚カイリだ。技術局第一開発室長である彼について、幸多は多少なりとも知っている。
『ともかく、きみのおかげで水穂市が全面的に復旧したのは確かだ。ありがとう』
「感謝されるようなことはしてません。ぼくはただ、ヴェルちゃんたちと少し話をしただけで」
『それが功を奏したんだよ。きみの優しさが、彼女たちには特効薬だったというわけだ』
『ええと、いいかしら?』
『どうぞ』
『王塚室長がいわんとしていたことは、わかるわよね。きみは、いま、オトロシャの魔法の影響範囲内にいるのよ』
「はい」
幸多は、水穂基地内を歩きながら、頷いた。悪夢にうなされている導士や市民ばかりが視界に入り込んでくる。
水穂市内全体を覆う超広範囲催眠魔法、その威力の凄まじさが一目でわかるというものだ。
だが、幸多は、そんな中を平然と歩いている。
『つまり、きみは、催眠魔法の影響を受けない。それがどれほど強力無比であっても、鬼級幻魔の、オトロシャの魔法であっても、きみには効果がない』
「ぼくが完全無能者だから、ですよね」
『御名答。きみは頭が良くて助かるよ』
「だれだってわかりますよ」
カイリに言い返しながら、幸多は、水穂基地の中心部に到達した。
飾り立てられた特設舞台の上には、第七軍団長・伊佐那美由理と副長・粟津迅がいる。そしてふたりとも、オトロシャの催眠魔法の影響下にあるに違いない。
幸多は、すぐさま舞台上に飛び上がると、床に倒れたふたりを発見した。粟津迅の巨躯も、美由理の鍛え上げられた肉体も、いまやなんの力も持たず、抵抗した素振りすら見受けられなかった。
「完全無能者のぼくだけが、いまこの状況下で動けるということですよね」
『そういうことだよ』
『でも、だからといって、無茶はしては駄目よ。いくらきみに精神魔法が効かないからといっても、オトロシャの攻撃が通用しないわけじゃないんだから』
「はい。わかっています」
イリアの忠告を受け、幸多は静かに頷く。
そんなことは、わかりきっている。
自分ひとりでこの状況をどうにかできるなどと想っているはずもない。思い上がりも甚だしいだろう。
美由理の顔を覗き込めば、酷く苦痛に歪んでいて、それだけで胸が痛んだ。師のそのような表情は、いまのいままで、一度だって見たことがなかった。
「……ちゃん」
助けを求め、喘ぐような声が、美由理の口から零れた。
美由理がそれほどまでに追い詰められる状況など想像もつかないし、故に、幸多は愕然とした。思わず美由理に手を伸ばし、けれどもどうすることもできない。
「助けて、お兄ちゃん――」
美由理の言葉が、耳朶に響き、鼓膜に突き刺さる。
美由理は、伊佐那家に義一が引き取られるまでは末っ子だった。彼女も養子だが、家族全員に血の繋がりがないからこそ、血よりも深い繋がりがあるのだと、美由理がよく言っていた。
兄に助けを求めるのは、なにも不思議なことではない。
不思議なことではないのだが、幸多は、思わず美由理の手を握り締め、それから空を仰ぎ見た。
晴れ渡る冬の空の一点が黒く、歪んでいるように見えた。
それはさながらこの世界に存在してはならない異物のようであり、不純物が形を成したもののようだった。
異形にして異様、複雑にして怪奇、混沌と呼ぶべき物体。
「あれが……オトロシャ」
幸多は、美由理の手を放し、立ち上がった。オトロシャらしき物体を睨み据える。幸多の視力ならば、その姿をはっきりと捉えることができた。
異形だ。
まさに幻魔と呼ぶに相応しい異形。
しかし、どこか人間に酷似した部分があるのは、鬼級だからなのかもしれない。
まず、人間のように五体を持っているのだが、頭だけで五つあり、それぞれ別方向に向かって生えているのがわかる。肩と腕の数も多く、全部で十本ほどか。胴体も異様だ。複数の胴体が複雑に重なり合うようにしてひとつの胴体を構成しているような、そんな形状。
足は、二本に見えるのだが、目を凝らせば、やはり二本どころではない数の足が、絡み合って二本に纏まっているようだった。
また、黒曜石のような結晶物が体中のそこかしこにあり、それがまるで装甲のようにも見える。
五つの頭部に輝くのは、合計十個の赤黒い瞳であり、全てが禍々《まがまが》しく破壊的な光を帯びていた。
『幸多くん、手を出しては駄目よ。いま、播磨、竜ヶ丘両軍団長が催眠魔法の中和に全力を尽くしているわ。それさえできれば――』
《できれば、なんだというのか》
声が、幾重にも響いた。
男の声のようであり、女の声のようであり、老人のようであり、子供のようでもある、声。
遥か頭上から降ってきて、地上に到達したときには、破壊的な音波となっていたのだろう。轟音とともに水穂基地の兵舎が崩壊した。
導士や市民が吹き飛ばされていく様を目の当たりにするまでもなく、幸多は、飛び出していた。瞬時に武神弐式と千手を装備すると、超高速で飛び回りながら、導士や市民に全ての手を伸ばした。鎧套の背に生えた四本の機械の腕が、幸多の無意識に反応して展開したことで、かなりの人数を救助することに成功する。
千手は通常、四本の機械腕に様々な武器を持たせて使用するのだが、救助の際には、機械腕の一本一本がそれぞれ四本に分かれることで通常の何倍もの人数を回収、運搬が可能となるのだ。
千手が間に合わない、手に届かない位置にいたひとに対しては、その軌道上に展開式大盾・防塞を転送し展開、受け止めてることで対応して見せた。
そうした一連の行動によって、幸多は、兵舎の内外にいた導士、市民全員を救助してみせたのである。
無論、安堵の息を吐いている暇はない。
オトロシャは、依然、頭上にいる。
しかも、ゆっくりと降下してきており、その圧倒的な魔素質量を見せつけてくるかのようだった。空間がねじ曲がり、大気に火花が散っていることからも、その力の強大さ、凶悪さが理解できる。
《汝は、なんだ?》
オトロシャの眼が、幸多を見据えていた。男の、女の、老人の、子供の、複数の眼が、全て、幸多を捉えている。
幸多は、呼吸すらもままならなくなるほどの圧力を感じた。
《なぜ、夢を見ない?》
オトロシャが、複数の腕を虚空に掲げた。細くしなやかな、あるいは筋骨隆々たる腕の先に魔力が凝縮し、巨大な魔力体を形成していく。
律像が、無数に浮かんだ。