第千百話 夢を見せるもの(一)
「街が……眠っている?」
幸多は、呆然とつぶやいた。
『ええ。そうよ』
イリアの反応は、幸多が反射的に想像した状況を肯定する、務めて冷静な声だった。
イリアたちは、水穂市に起きているなにがしかの異変を認識しているということだ。
幸多が目にしたのは、雑居ビルの屋上で行われていたのであろう宴会の様子だ。屋上全体がお祭り会場のように飾り立てられていて、民間人がそこら中で飲んだり食べたり、談笑したり歌ったり踊ったりしていたのであろうと想像させた。
しかし、いま、この会場にいる全員がその場で眠りこけており、どうにも苦しそうな表情を浮かべているのが不可解極まりなかった。
なにか悪い夢でも見ているのではないか。
それも屋上にいる全員が、だ。
「そう……って、いったいなにが起こっているんです?」
『大規模幻魔災害よ』
「大規模幻魔災害」
イリアの言葉を反芻して、幸多は、顔を上げた。屋上を駆け抜け、周囲を囲う柵からを身を乗り出せば、市街地を見渡すことができる。
高層建築物が立ち並ぶ風景から、この雑居ビルが水穂市の中心近くに位置していることが想像できる。水穂市でもっとも発展しているのは、やはり中心部なのだ。
そして、都心部の様子を見れば、幸多が想像したように、イリアがいったように、街全体が眠っているということがはっきりとわかった。
町中の至る所で、民間人が倒れている。
路地で、横断歩道の真ん中で、店の出入り口で、店の中で――ありとあらゆる場所で、不自然に寝ている人達の姿を見れば、大規模幻魔災害という言葉の意味も理解できるというものだ。
超広範囲の催眠魔法が、水穂市を包みこんでいるのだ。
そしてこれほどの規模の魔法となれば、並の魔法士にできることではない。いや、戦団の導士ですら真似できまい。
故に、幻魔による攻撃と断定するのは当然だ。
だが、だとすれば、目的はなんなのか。
「眠っているだけ……ですよね?」
『ええ、そうよ。でも、こちらの初動が遅れてしまった。それで大惨事になっているのよ』
「初動が遅れた? どうしてです? 水穂市には師匠が、第七軍団がいますよね」
『どうやら美由理も眠っているのよ。いいえ、美由理だけじゃないわ。市内にいる第七軍団の全ての導士が、魔法に囚われているのよ』
「師匠が?」
そんなことがあり得るのか、と、幸多は愕然とした。
柵を乗り越え、前方のビルに飛び移りつつ、思考を巡らせる。
魔法による不意打ちなのは、間違いない。だが、だとしても、美由理ほどの魔法技量の持ち主ならば、精神制御によって催眠魔法を打破することくらい容易いはずだ。そのために徹底して鍛え上げているのが、導士である。中でも星将である美由理のそれは、並大抵の精神魔法ではびくともすまい。
たとえ隙を突かれたのだとしても、多少なりとも抵抗できるはずではないか。
いや、そもそも、大規模幻魔災害ならば、瞬時に対応したはずだ。
幻魔の発生、あるいは侵攻を察知すれば、街中に警報が鳴り響くのだから。
『鬼級幻魔に虚を突かれれば、さしもの星将も対応しきれなかったとしても、致し方ないでしょう』
「鬼級……幻魔」
いくつかの高層建築物を飛び移り、建物の屋上を駆け抜け、ようやく水穂基地を視界に捉えると、やはり基地の内外が静まりかえっている様子が見て取れた。
不自然なまでの静寂には、寒気すら覚える。
本来であれば、戦団感謝祭の最中であり、市民を歓迎する立体映像やら幻板やらに飾り立てられ、様々な音声が乱れ飛んでいるはずだ。
戦団本部がそうであったように。
だが、そうしたお祭り騒ぎはなぜか形を潜めていて、立体映像も幻板もなにもかも見当たらなかった。
視界に飛び込んでくるのは、市民や導士たちがそこかしこで眠っている姿だ。
『今し方復旧したのだけれど、ついさっきまで水穂市全体が機能障害に陥っていたのよ。ユグドラシル・システムのね』
「機能障害?」
『システム内でなにか問題が生じ、それが水穂市全体に機能障害として波及した。結果、鬼級幻魔が接近したことにも、鬼級幻魔が魔法を使ったことにも気づけなかった。そして、水穂市全体が眠ってしまった』
「ヴェルちゃんたちのせいってことですか?」
『ん? ヴェルがどうかしたの?』
「決勝戦の直後、ヴェルちゃんの声を聞いたんです。それで……たぶん、なんですけど、ユグドラシル・システムの内部に呼ばれたんですよね」
幸多の脳裏を過るのは、機械仕掛けの大樹が聳え立つ異空間だ。
あの大樹はユグドラシル・ユニットそのものだったし、それを中心とする領域は、ヴェルザンディたちがユグドラシル・システムを幸多に認識させるために作り上げた幻想空間なのではないかと推察できる。
そして、幸多は、そこがシステム内部だということをなんとはなしに理解し、把握することができた。
情報子を制御する異能のおかげなのか、どうか。
幸多がイリアに説明しつつ水穂基地内に足を踏み入れると、基地内でも市民や導士たちがそこかしこで眠っている様子を目の当たりにした。だれもが無防備な姿で、顔を見れば苦悶の表情を浮かべているのは変わらない。
やはり、悪夢を見せられているのではないか。
この大規模魔法を使った鬼級幻魔によって。
『……なるほど。そんなことがあったのね。幸多くんが姿を消したって報告があったから、なにごとかと心配してもいたんだけれど、こっちはこっちで大騒ぎだったからどうしようもなかったの。なにごともなくて、本当に安心したわ』
イリアが心底安堵した様子が声音から伝わってくる。
『そして、納得もしたわ』
「納得?」
『システムが復旧した理由よ。きっと、ヴェルたちが幸多くんと逢えて、満足したんでしょうね。それでシステム障害が回復した。でも、だからといって喜んではいられないわね』
「はい」
幸多は、イリアの言いたいことが理解できるから、静かに頷いた。
ヴェルザンディたちは、寂しさのあまり、幸多を呼んだ。その前後に生じたユグドラシル・システムの機能障害が、水穂市に一瞬の空白を生み、そこを鬼級幻魔に衝かれたのである。そしてう、街全体が大規模魔法攻撃を受けてしまった。
悪夢を見せられているかもしれないとはいえ、催眠魔法程度だからまだいいものの、事と次第によっては致命的な事態に陥っていた可能性がある。
『ヴェルたちの気持ちも、わからなくはないけれど』
「はい」
幸多も、イリアに同意する。
ヴェルザンディたちが寂しく想う気持ちは、痛いほどわかる。これまで数十年余りの間、戦団のため、人類のために尽くしてきたのが彼女たちだ。女神たちがあればこその央都であり、戦団であり、人類だった。
そんな女神たちの労をねぎらい、感謝するのは、当たり前のことだ。
一部の限られた導士だけとはいえ、女神たちと触れ合うことのできるものは、時間の許す限り、彼女たちと戯れることで、その気持ちを伝えてきたものだった。
だが、ユグドラシル・ユニットが戦団の手に入り、システムの再構築に乗り出せば、女神たちと別れを告げざるを得ない。
彼女たちの人格も、自我も、個性も、なにもかもがシステムに組み込まれ、統合されてしまえば、二度と逢えなくなる――そう、ヴェルザンディたちはいった。
けれども、なぜか、再び逢うことができた。
それがシステムの機能障害の影響なのか、それともヴェルザンディたちの想いが機能障害を起こしたのか、幸多にはわからない。
わかるのは、ヴェルザンディたちがいまもなおシステムの中に存在していて、だれにも逢えず、言葉も交わせない現状を寂しく、哀しく想っているということだ。
そしてその想いがこのような状況を作り出したのであれば、幸多は、考え込まざるを得ない。だが、しかし、彼女たちのことばかり考えている状況ではないという事実もある。
「それで……鬼級幻魔というのは?」
『観測した固有波形は、恐府と一致しているわ。つまり――』
「オトロシャ……!?」
幸多は、その鬼級幻魔の名を発しながら、慄然とした。
オトロシャ。
恐府の殻主にして、三魔将なる三体の鬼級を従える、央都近郊における最強最悪の幻魔。