第千九十九話 声に導かれ
情報の海を、游ぐ。
『声が、聞こえた?』
『どういうことなの?』
『幸多様?』
三女神が三者三様に怪訝な顔をしたのは、彼女たちには幸多の耳に届いた声が聞こえなかったからだろう。
幸多の耳にだけ届き、頭の中に反響した声は、砂部愛理のものだった。あの少女の声を忘れることなどありえない。それだけは絶対だと断言できる。
故に、その声を聞いた瞬間、幸多は、いても立ってもいられなくなった。
当然だ。
幸多は、約束した。
愛理を必ず助けると、助けに行くと、約束したのだ。
あのとき、あの瞬間は、なにもできなかった。
ただ無力な己に打ちのめされ、絶望すら感じた。
時間と空間を支配する、時空魔法の使い手として覚醒した愛理は、その膨大な力を制御することもできないままに何処かへと消え去ってしまった。
彼女は、きっと無事だ。
今日までそう言い聞かせてきたのだ。
そうしなければ、そうでもしなければ、心の平静を保つことなどできなかった。
きっといまもどこかで生きていて、幸多の助けを待ってくれているに違いない、そうであって欲しい、いや、せめて、無事でいてくれればそれだけで十分だ――幸多が、彼女のことを考えない日は一日だってなかった。
任務と訓練の日々にあっても、大規模な作戦があった日でも、愛理を忘れたことはない。
愛理の存在が、幸多の根底にあるといっても過言ではないのだ。
どうにかして彼女を見つけ出し、連れ戻す。
そのために自分になにができるのか。
そのためにはどうすればいいのか。
考え続けても、答えは出なかった。
この異能が、情報子を制御する能力が、幻想空間に干渉することのできる力が、愛理を救出するために役立つのではないか――そう何度考えたか、わからない。
しかし、どのように使えば、時空の彼方に消え去ったかもしれない少女を探しだし、連れ戻すことができるのか、皆目見当もつかないのだ。。
イリアや義流にも相談しているものの、情報子そのものが幸多の異能によって発見されたものであり、研究に研究を重ねなければならなかった。情報子の使い方など、二の次、三の次にならざるを得ない。
そもそも、情報子を完璧に制御できているわけではないのだ。
仮に情報子を使ってどうにかできるのだとして、現状の幸多にはどうしようもないかもしれなかった。
それでも、幸多は考え続けている。
『思考停止はいけないものね。考え続けることは、悪いことではないわ。もちろん、任務に支障をきたさない程度に、だけどね』
イリアからの忠告は、いつだって優しく、幸多の側に立って発せられるものだった。
そんな折、突如として脳内に響いた愛理の声は、幸多を激しく動揺させた。
愛理がいる。
助けを求めている。
となれば、動かずにはいられない。
『愛理ちゃんが呼んでるんだ。助けを求めてる。だから、ごめん。ヴェルちゃん、ウルズさん、スクルドちゃん』
幸多がそのように言い出せば、ヴェルザンディがきょとんとした。
『どうして謝るのよ。謝るのは、突然呼び出したわたしたちのほうよ。急に人恋しくなって、逢いたくなって、幸多ちゃんを呼んでしまったんだもの』
『それなのに、幸多様は応じてくださいましたね』
『ありがと、幸多』
女神たちは、幸多に感謝こそすれ、悪く思うことなど一切ないといわんばかりだった。
再会してわずかばかりの時間。交わした言葉など数えるほどで、彼女たちの慰めにもならないのではないかと思えた。
けれども、幸多は、行かなければならない。
愛理が呼んでいる。
だから、幸多は、女神たちにもう一度深々と謝罪して、情報の海へ、レイライン・ネットワークへと飛び込んだのだ。
ユグドラシル・システムは、レイライン・ネットワークの基幹であり、中枢である。
ヴェルザンディたちが幸多を呼び寄せた場所は、おそらくそこだ。レイライン・ネットワークを介して、システムの深部に幸多を招き入れたのだ。
ならば、ネットワークを利用して元いた場所に戻ることも、別の場所へ移動することも不可能ではないはずだ。
なんといっても、幸多は情報の海を泳ぐことができるのだ。
まるで幽体離脱した一二三のように。
莫大極まりない情報が洪水のように渦巻く通信網の中を突き進む。向かう先は、わからない。ただ、声がした方向へ。
(愛理ちゃん、待っていて。すぐ行くから)
幸多は、全身が熱を帯びているような感覚の中で、その熱こそが重要なのだと確信していた。幸多の体内を巡る大量の超分子機械が全力で動き回り、熱を発し、情報子を制御している。
制御しているのか、暴走しているのか。
幸多にはなにもわからない。
わからないが、無数にして無秩序な情報の海を突き進んでいることは理解できる。
やがてその混沌が途絶えた。
虚無に等しい暗黒の闇が幸多の視界を覆い、なにもわからなくなった。天も地も、前後左右も、なにもかも。
(いや、それは最初からか)
ただ、声は聞こえる。
少女の悲鳴。
幸多を呼ぶ叫び。
愛理の慟哭。
幸多は、声に引き寄せられるようにして、前に進んだ。
すると、虚無の如き暗黒を突破し、視界に光が満ちた。網膜が灼かれるのではないかと思うほどの光は、太陽を直視した結果だ。自分が空を仰いでいることに気づかされたのも束の間、浮遊感があり、重力を感じた。
なにか強大な力によって意識が押し包まれていくように実感するのは、幸多が幻想空間から現実世界へと回帰したからにほかならない。
頭上には青ざめた冬の空が、眼下には見知った町並みが広がっている。いくつもの川が流れる都市といえば、水穂市をおいてほかにはない。
「ここに――」
愛理がいるのか。
幸多の疑問は、空中で霧散した。地上へと落下していく中で召喚言語を発し、闘衣を装着しながら着地する。両足から全身を貫く衝撃は、大したものではなかった。
たった十数メートル。
仮に闘衣を身につけなくとも、幸多が怪我をするような高度ではない。
「水穂市……」
幸多は、周囲を見回し、その見慣れた町並みにこそ違和感を覚えた。
なにか、不自然だ。
「なんだ……?」
街全体が静まり返っている。
今日は十二月二十五日、冬陽祭当日であり、戦団感謝祭が水穂基地でも行われているはずだ。となれば町を挙げてのお祭り騒ぎになっているはずであり、市内各所で盛り上がっている人々がいるはずなのだ。
しかし、そういった光景は見当たらない。
だれもかれもが息を潜めているかのような、そんな様子。
まるで大規模幻魔災害が起きていて、市民全員が避難し終えているかのような――。
(だとしたら)
幸多は、転身機を懐から取り出し、幻板を出力したものの、表示されているのは普段通りの待機画面であり、幻魔災害や魔法犯罪が発生しているといった通知はなかった。
再び周囲を見回し、そして、前方に視線を定める。
愛理の声は、聞こえなくなってしまった。
レイライン・ネットワーク内でしか捉えられないのか、それとも、既に問題が解決したのか。
わからないが、いずれにせよ水穂市内でなんらかの問題が起きていることは明らかだ。
『幸多くん!?』
闘衣に備え付けられた通信機から聞こえたのは、素っ頓狂としかいいようのないイリアの声だった。
「イリアさん?」
『な、なんできみがそこにいるの!?』
「説明すると長くなるんで割愛すると、声が聞こえたんです」
『ええ……?』
イリアは、幸多がなにをいっているのかまるで理解できないという反応を示した。当然だが、気にしている場合ではない。
愛理の声に導かれ、ここに来たのだ。
愛理が水穂市内にいて、幸多の助けを待っている可能性が高い。
となれば、立ち止まっている場合ではなかった。
地を蹴るようにして飛び出し、目の前の雑居ビルの壁面を駆け上り、屋上へと至る。
そこで幸多は、違和感の正体と直面した。