第千九十七話 夢の中で
燃えている。
見渡す限りの町並みが、いまにも灼き尽くされようとしているのだ。
あれほど立派に並び立っていた数多の建物が、異形の怪物の群れによって踏み潰され、撒き散らされる炎に飲まれ、あるいは吹き荒れる雷の嵐に打たれ、崩壊していく。
異形の怪物たち。
即ち、幻魔。
ただし、ただの幻魔ではない。
鬼級幻魔にして、〈強欲〉の悪魔を名乗るもの――マモンの指揮下にあると考えられる機械型幻魔の軍勢である。
それらが突如として水穂市に現れると、瞬く間に都市全体が混沌に飲まれ、壊滅状態に陥ったのだ。
為す術もない。
水穂市を防衛する第七軍団が全戦力を集めても、歯が立たなかった。
機械型は、以前と比較にならないくらいに強化されているようであり、獣級ですら妖級上位以上の力を発揮し、妖級ともなると鬼級に匹敵するだけの魔素質量が観測されていた。
大量の獣級に、少数の妖級。
百体にも満たない妖級は、しかし、百体に等しい鬼級であり、その圧倒的な力の前には、杖長たちが力を合わせても、拮抗状態を作ることすらままならなかった。
だから、美由理が踏ん張るしかない。
援軍が到着するまでの時間を稼ぐのだ。
戦団が全戦力を結集すれば、どうにかなるはずだ。
(どうにか……)
美由理は、壊滅的打撃を受けている水穂市を見渡しながら、歯噛みした。
いままさに、星象現界・月黄泉を発動することで時間を静止しているものの、これでは時間稼ぎにはならないし、援軍を待つことはできない。水穂市外の時間も止まっているのだ。
月黄泉の射程は、規格外だ。
発動中は、この宇宙そのものの時間が止まっていると考えられている。
月黄泉の影響を逃れる術はない。
ただひとり、完全無能者たる幸多を除いては。
「なるほど。これが伊佐那美由理の星象現界・月黄泉の能力か。確かにこれは規格外だね」
聞き知った声が背後から聞こえてきたものだから、美由理は、即座に飛び退いた。水穂市上空。機械仕掛けの触手が無数に伸びてきて、美由理の眼前を擦り抜けていった。大気中にばら撒かれる魔力の膨大さ、凶悪さは、鬼級上位ともいうべき悪魔ならばさもありなんといったところだろう。
触手の根源には、少年姿の悪魔が浮かんでいた。翡翠色の髪を靡かせる、童顔の悪魔。その顔は、忘れようがない。
「マモン!」
「時間そのものを制御し、支配する星象現界。まるであの少女のようだよ」
「おおおっ!」
美由理は、その叫びを真言とした。マモンを包み込むように猛烈な吹雪が巻き起こり、雪の一粒一粒が直撃と同時に花を咲かせる。繚乱する雪の花が眩い光を放ちながら炸裂し、破壊の連鎖を巻き起こす。
「けれども、ぼくには通用しない。ぼくはきみの敵だ。ぼくこそが、きみにとってのサタンなんだよ」
激痛が、美由理の背中を貫いていた。
制止した時間の中で、悪魔が嗤い、美由理は血を吐いた。
意識が、混濁していく。
はっと目を開くと、水穂基地のただ中にいた。
「なんだ?」
戦団感謝祭の最中だということは、周囲の様子からもすぐにわかる。わかるのだが、混乱している。なにがなんだか、まるでわからない。
いままさにマモンと死闘を繰り広げていたはずだ。
(いや……)
その直前には、未知の鬼級幻魔に敗れ去ろうとしていた記憶がある。
それどころではない。
美由理の脳内を数多の激戦の記憶が過り、混乱が混乱を呼び、まさに混沌としてしていた。
「どうされました?」
心配そうに声をかけてきたのは、副長の粟津迅だ。美由理は、迅の厳めしい面構えを見て、少しばかり安堵した。どのような状況下であってもどっしりと構えてくれている迅の存在は、美由理の精神安定剤になり得る。
だが、突如として爆音が水穂基地を震撼させれば、美由理は即座に反応した。
魔力を練成しながら律像を組み上げつつ、星神力へと昇華させていく。
「わかった」
「なにが、です?」
「これだ」
美由理は、基地内に散乱する数多の悲鳴や叫喚を聞きながら、それが結局のところ、ただの精神攻撃であることを看破したのだ。
「これが攻撃なんだ」
「ですな」
迅の反応は、美由理の心理を反映しているかのようだった。同じく律像を形成しながら星神力へと昇華しているのである。
迅だけではない。
基地内の全導士が瞬時に戦闘態勢に移行し、市民を護り、避難誘導をし始める様は、彼女の思い描いた戦団の有るべき姿そのものだった。
「この光景そのものが、攻撃なんだ!」
美由理は、叫び、空を飛んだ。
爆撃が、水穂基地を襲っている。
攻撃してきているのは、もちろん、幻魔だ。しかも、先程の記憶で水穂市を灼き尽くした機械型幻魔の大軍勢であり、その先触れとして原形を残さぬほどに改造されたガルムが、基地内に乗り込んできていた。
無数の大砲を乗せたガルムは、ひたすらに砲撃を行ってきており、砲弾の一つ一つが破壊の嵐を巻き起こしている。
ガルムだけではない。
ケットシーやカーシー、フェンリルといった様々な獣級幻魔が、改造された機械型としてこの戦場に投入されており、基地の内外で凄まじいとしか言いようのない破壊活動を行っているのだ。
どこもかしこも地獄絵図だ。
しかし、美由理はもはや怯まない。
(この光景が、この映像がわたしへの攻撃だというのであれば、なんの問題もない。なんの心配もいらない)
どれだけ被害が出ようとも、どれだけ死者がでようとも、現実に起きているわけではないのであれば、気にする必要などない、と、断じる。
とはいえ、反撃に転じる必要もない、とはいえない。
これが精神に影響する魔法攻撃だというのであれば、受け入れることこそ大問題なのだ。
精神魔法を許容すれば、それこそ、致命的な結果になりかねない。
だからこそ、導士は精神制御訓練を受けるのであり、己が心を鋼の如く鍛え上げるのである。
(種さえわかれば――)
美由理は、星象現界を発動した。
「千陸百壱式・月黄泉」
美由理の背後に白銀の満月が出現すると同時に光を放ち、宇宙の時間が制止する。眼下の地獄絵図も、一瞬にして凍り付いたかのように動かなくなった。
機械型幻魔の群れも、対応する導士たちも、避難中の市民も、燃え盛る水穂基地も、なにもかもが凍てついたのだ。
本来ならば時間稼ぎには使えない星象現界だが、この状況ならば意味があるはずだった。
いまのいままで、数え切れないくらいにこのような状況を目の当たりにしている。
それらは全て、精神魔法による美由理への攻撃だ。
そして、美由理が星象現界を発動すると、状況が大きく動くのが共通する点だった。
(つまり、そこに突破口がある――)
「そんなものはないよ」
背後から聞こえたのは、マモンの声であり、美由理は即座に飛び離れて触手の群れを回避した。金属製の触手が瞬時に軌道を変化させ、美由理を捉えようとするが、それも躱す。飛行魔法による高機動戦闘こそ、魔法士の真骨頂である。
「これは夢なんかじゃないんだ。現実なんだよ。永遠に覆ることのない、絶対の絶望。きみに勝ち目なんてないのさ」
「わたしが根負けするまで永遠に悪夢を見せるつもりなのだとすれば、見当違いも甚だしい」
無数の触手が美由理を包囲し、動きを止めたかと思うと、尖端部の砲口を開いた。そして、一斉に赤黒い光線を発射してきたのだが、美由理は全周囲に氷壁を構築することで対処した。
夢の世界だ。
それがたとえ他者の魔法による攻撃なのだとしても、理屈さえわかっていれば、どうとでもなる。
美由理の想像力のままに魔法壁が展開し、マモンの全周囲同時砲撃を弾き返して見せた。
爆煙が視界を覆う。
「星将を舐めるな!」
真言が、美由理の全方向を瞬時に凍結させた。