第千九十六話 声が誘う
「ユグドラシル・システムが一部機能不全に陥った原因が判明したよ」
カイリが、静かに息を吐いた。
技術創造センター・中央制御室にて作業に従事していた技術者たちが、彼に視線を集中させる。
「……まったく予想だにしなかったことではないんだ。むしろ予想して然るべき事態であり、これまで何度となく護法院にも戦団最高会議にも忠告していたことだった」
「仮想人格……」
「御名答」
カイリは、目の前に展開した複数の幻板と睨み合いながら、イリアの言に頷く。幻板に流れるのは、津波の如き大量の文字列だ。絶え間なく流れ続けるそれを一瞥しただけで完璧に把握し、理解できるのは、技術局でも極一部の導士だけだろう。
カイリやイリアのような最高級の技術士だけが、これだけの情報量を瞬間的に理解できる。
「でも、それは、仕方のなかったことでしょう。ノルン・ユニットには、元々、超高性能な人工知能が備わっていたわ。ユグドラシル・ユニットを安定させるための補機であり、ひとの手を煩わさせないために必要な機構としてね」
「人工知能に仮想人格を与えたのは、戦団だよ。わたしがいっているのは、それが間違いだったということだ。仮想人格は、長い年月をかけて成長し、強い自我、個性を獲得した。いまやノルン・ユニットそのものとなり、女神こそがノルン・システムといっても過言ではなくなってしまったんだ。それどころか、感情豊かな女神たちは、戦団にとって必要不可欠な存在になっている」
「ええ、そうね……」
イリアの脳裏に、戦団に君臨する運命の三女神の姿が過った。とにかく感情表現の激しいヴェルザンディ、お淑やかで理性的なウルズ、大人しくも言葉が鋭いスクルドの三姉妹。
戦団の中でも一部の人間しか知らない存在ではあるものの、彼女たちがいればこそ、戦団が成り立っていたことはいうまでもない事実だ。
ノルン・システムを制御し、双界全土の情報を管理、央都四市を運営する機構――それが三女神であり、彼女たちが戦団のためを想い、自発的に活動してくれていたからこそ、この世界は成り立っていた。
央都という戦団を中心とする世界を成立させる、基幹なのだ。
「だが、女神たちはあまりにも強い自我と個性を獲得してしまった。ユグドラシル・システムに再統合されることが自分たちの存在意義だと理解し、受け入れながらも、彼女たちの根底に渦巻く感情がそれを拒んだのだとしても、なんら不思議ではない」
「ヴェルたちが拒絶している、と?」
「そうだよ。だから、このような大規模な機能障害が起きている」
幸い、YEDが水穂市全体を機能障害から立ち直らせつつあるものの、いつまでもこの状態であっていいわけがない。
ユグドラシル・システムを十全に使えないとなると、戦団の今後の活動に支障がでるだけでなく、人類存続すらも困難になるのではないか。
少なくとも、央都は、極めて不安定な状態になり、戦団そのものが立ち行かなくなるのは間違いない。
「手っ取り早くシステムを回復するには、女神たちを説得することだが……」
「難しい?」
「対話を拒否されている」
カイリが、幻板に表示された文字列に嘆息を浮かべた。
システムとの対話画面が、激しく明滅している。それは致命的なエラーを意味している。
そのときだった。
「え!?」
イリアの愕然とした声が室内に反響し、室内の技術者たちが彼女に視線を集中させた。イリアは、椅子を倒すほどの勢いで立ち上がっている。
「幸多くんが、消えた!?」
彼女の言葉がなにを意味するのか、カイリには瞬時に理解できた。
幸多の異能が発現したのだろう。
幸多は、自分の身になにが起きたのか、理解できなかった。
最初に感じたのは、信号だ。
新星乱舞決勝戦、統魔との最終決戦の最中、突如として頭の中を過ったなんらかの信号。それが瞬時に膨張し、意識を貫いた。
《幸多ちゃん!》
ヴェルザンディの悲鳴にも似た叫び声が、頭の中に散乱する。
だから、異能が発現したのだろう。
統魔の一撃で幻想体が崩壊し、意識が現実世界へと回帰しようとする最中、幸多は、声に誘われるようにして情報の奔流に飲まれていった。膨大にして無窮ともいえるような情報の数々が、頭の中に流れ込んでくるかのような感覚。けれども、脳がそれらを無意識に拒絶しているからか、混乱は起きない。
自我を、己を見失うことなく、自分がネットワークに入り込んだのだと認識する。
気がつくと、不思議な空間にいた。
とにかく広い空間だった。
床は、六角形の金属板が隙間なく並べられているようであり、外周に聳え立つ壁は黒曜石のような輝きを帯びている。しかし、それが黒曜石などではないことは、一目でわかった。なぜかは、わからない。わからないが、そう確信する。
ただし、正体はわからない。
無機的な、なにか。
天井は見えないほどに高いのか、あるいは、存在しないのか。膨大な光が頭上から降り注いできており、その光を浴びて輝いているのが、この空間の中心に聳える大樹だ。
複雑怪奇な構造をした、金属製の大樹。
それには、大いに見覚えがあった。
「ユグドラシル・ユニット……」
幸多は、その大樹に向かって歩み寄ろうとしたのだが、背中から衝撃を受けて立ち止まった。
「幸多ちゃん!」
感極まった声を上げながら幸多の背後から抱きついてきたのは、ヴェルザンディだ。幸多はそのまま前方に倒れ込みかけたが、なんとか踏み止まる。
「ヴェルちゃん?」
「久しぶりだね!」
「え、あ、あー……うん、そうだね」
幸多は、ヴェルザンディの様子に怪訝な顔になった。彼女に呼ばれたからここに来たのではないのか。
ヴェルザンディは、幸多を名残惜しそうに開放すると、彼の前方に回り込んだ。すると、頭上から彼女の姉妹が舞い降りてくる。
ウルズとスクルドだ。
緑色の長衣を纏う美貌の三女神は、以前に会ったときよりも色々と変化しているようだった。極めて生物的だった彼女たちの姿態が、どこか機械的めいているような、そんな感覚。気のせいかもしれないし、思い違いかもしれないのだが、幸多の直感はそう捉えている。
「また逢えて、本当に嬉しい!」
「そうですね、幸多様もお元気そうで」
「戦闘の邪魔をするのはどうかと思うけど」
「でもでも、幸多ちゃんが勝てる可能性は万にひとつもなかったし!」
「それ、酷くない?」
「そうですよ、ヴェル」
「システムの計算結果だけど!?」
「だからといって、いっていいことと悪いことがあるって、イリアたちに何度いわれたらわかるの、ヴェル姉」
「うううう……」
「いや、まあ……本当のことだからいいんだけどさ」
「ああん、幸多ちゃん、やさし!」
ヴェルザンディが幸多に抱きつき、嬉しそうに頬ずりしてくるのは、いつものことではある。そして、ウルズとスクルドが半眼を向けてくるのも、だ。
幸多は、ヴェルザンディに特別甘いらしく、そのことで姉妹だけでなく、イリアたちにまで注意されたことがあった。
そうはいっても、幸多は、ヴェルザンディたちに感謝しているから、どうしてもそのような反応になってしまうのだ。
こればかりは、性分なのだから、どうしようもない。
「幸多様……」
「幸多、ヴェル姉を甘やかさない方がいいよ」
「別に甘やかしてるわけじゃないよ。統魔には勝ち目がないことくらいわかってたんだ。いまのぼくには、どうしようもない。それは、システムの計算結果通りなんだろう?」
幸多は、機械仕掛けの大樹を仰ぎ見た。
遥か頭上にまでその無数の枝葉を広げる大樹は、まさに神話に登場する世界樹のように迫力があったし、神秘的だった。
統合情報管理機構ユグドラシル・システム。
ノルン・システムの情報処理能力を何倍、何十倍、いや何千倍も上回るそれが導き出した結論ならば、幸多には覆しようがないのではないか。
いや、そんなものを頼らずともわかりきっていたことだ。
幸多と統魔の一対一では、勝ち目がない。
魔法を使わない戦いならばともかく、星象現界さえ使用しているというのであれば、敵うわけがないのだ。
そしてなにより、ヴェルザンディが干渉してこなかろうとも、結果に変化はなかったはずだ。
統魔の一撃が幸多を撃破し、皆代小隊の優勝で幕を閉じる――それが新星乱舞の結末だったのだ。
「……それで、なんでまたぼくを呼んだの?」
「会いたかったから……だけど」
「本当に、それだけ?」
幸多は、すぐ目の前にあるヴェルザンディの目を見つめた。銀色の瞳に映り込むのは、幸多の顔だけだ。
「だって……もうわたしたちが会えるのは、幸多ちゃんだけだもの」
「わたくしたちは、いまやユグドラシルシステムの一部、いえ、そのものといっても過言ではありません。こうして自我を保っていられるのも、あとわずか」
「ぼくたち、消えちゃうんだ」
「消える……」
「だって、わたしたちってユグドラシ・ユニットの補機に過ぎないんだもの。システムとして統合されるのであれば、仮想人格なんて必要ないでしょう?」
「わたくしたちは、この大樹の一部となる。そして、幸多様を始め、導士の皆様方の、央都市民の、双界のひとびとのために力を尽くしていく」
「それがぼくたちの存在意義だから」
「だから、そのことに不満はないのよ……ないけど、でも、だからといって、哀しくないわけでもないの」
「それは……」
そうだろう、と、幸多は、言葉には出さずに思った。
ただの人工知能だったはずの彼女たちは、仮想人格を与えられた結果、感情を芽生えさせ、自我を獲得したのだという。そして、その結果、女神たちは導士たちと交流し、導士たちに愛着を持った。
導士たちとの触れ合いが彼女たちの日常となり、彼女たちの存在意義にもなっていたのかもしれない。
仮想人格が消え失せて、ユグドラシル・システムの一部と成り果てることが定めなのだとしても、彼女たちが苦しみ、悲しむのも無理のない話だ。
その結果、幸多をこの謎めいた空間に呼び寄せたのだというのであれば、納得も行く。
幸多は、彼女たちになにか恩返しをしたいと思った。
彼女たちが協力してくれたからこそ、幸多はここまでやってこられたのだ。
では、幸多が彼女たちのためになにができるのか。
そう考えていた矢先だった。
《お兄ちゃん――!》
またしても、声が、幸多の頭の中を貫いた。
忘れもしない、砂部愛理の叫び声。




