第千九十一話 燃えゆく
燃えている。
燃え盛る紅蓮の炎が、なにもかもを包み込み、すべてを灼き尽くしていく。
天も地も、その狭間に存在する一切の事物が、尽く、燃え、灼かれ、焦がされ、溶けていく。
これは地獄だ。
地獄の光景そのものだ。
「なにが……起こった……?」
美由理が絞り出すように発した声は、恐怖に引き攣っていた。全身から噴き出す汗は、全周囲に渦巻く熱気によるものなのか、それとも、意識を苛む恐れからくるものなのか。
体が震える。
つい先程まで戦団感謝祭の真っ只中だったはずだ。目玉企画の一つである、新星乱舞決勝戦が佳境を迎えようとしていたのだ。
美由理の弟子、幸多が奮闘しているその最中。
突如として、世界が壊れた。
まさに終末そのものの光景が目の前に展開し、阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられていった。
どこからともなく噴き出した紅蓮の炎が、天をも焦がし、地を舐め尽くし、人々を飲み込んでいく。逃げ惑う人々の悲鳴が猛然たる炎の中に消えていく様は、絶望すらも生温い。
網膜に焼き付き、脳髄に刻まれていく。
反応しなければならない。
一刻も早く動き、市民を助けなければならない。
頭ではわかっていても、体が動いてくれない。まるで金縛りにでもあったかのように、ただ、見ていることしかできない。
お祭り騒ぎの水穂基地があっという間に恐怖と絶望、混乱と混沌に塗り潰され、数多の命が奪われていくというのに、なにもできないのだ。。
それこそ、絶望だ。
導士に、星将にあるまじき事態。
挽回しようのない失態。
「軍団長……」
粟津迅の苦悶に満ちた声が耳に届いたとき、美由理は、ようやく体を動かすことができた。はっと振り向けば、迅が倒れているのが視界に飛び込んでくる。即座に駆け寄り、手を伸ばす。
迅は、歴戦の導士だ。屈強な肉体には膨大な魔素が詰まっていて、いつでも強力な魔法を行使できるように魔力を錬成しているような、そんな人物だった。皆の手本となる、模範的な導士といっていい。
そんな彼が全身から血を噴き出しながら倒れている様は、凄惨としか言い様がなかったし、美由理も絶句するしかなかった。
「逃げ……て――」
迅の目は虚ろで、美由理を見てさえいなかった。そして言葉を発しきれなかったのは、全身から火を噴き出したからだ。。
数秒後には、導衣も肉体も灼き尽くされ、骨すら残らなかった。
影すらも。
「う……うう……ああ……」
美由理は、叫びたかった。
叫び、逃げ出したかった。
けれども、星将にそのようなことができるわけもなかった。立ち向かわなければならない。戦団最高峰の導士たる星将として。第七軍団の軍団長として。
この水穂基地のただひとりの生き残りになったのだとしても。
「そうか」
美由理は、理解した。
周囲を見回せば、なにもかもが紅蓮の業火に飲み込まれ、水穂基地のあらゆる建物が焼け落ちている。基地だけではない。
基地の外も、同じだ。
いや、より凶悪で絶望的な光景が展開している。
水穂市全域が、この正体不明の炎に飲まれているのだ。
「生き残ったのは、わたしひとりか」
基地内の導士や市民は、ひとり残らず殺されてしまった。
基地外の導士も、市民も、ひとり残らず殺されてしまったのだ。
水穂市内で生き残っているのは、美由理ただひとり。
これを絶望といわずして、なんというのか。
頭上を仰ぐ。
赤々と燃え盛る炎が、空の青さをも奪い去り、流れゆく雲すらも紅蓮と燃えているようだった。
その炎の狭間に、影がひとつ。
《そうだよ、人間。きみひとりだ。きみひとりだけが、生き残り、そこにいる。それがこの世の全て。終わりの景色。さて、きみはどう想う? きみは、どう感じる? なにを求め、なにを望み、なにを願い、なにを祈る?》
それは、幾重にも響く声で、語りかけてきた。
睨み据えれば、その輪郭がわかってくる。人間に酷似した姿態の怪物。幻魔。鬼級であることを疑う理由はない。これほどの事態を一瞬にして作り出すことができるのだ。姿形関係なく、鬼級と断定するしかない。
それも、並外れた力の持ち主だ。
鬼級の中でも上位といっていいのではないか。
獣級や妖級の中に戦闘力の格差があるように、鬼級の中でも当然、戦闘力の差は有るのだ。
スルトが鬼級を従えていたように、オロバスがエロスに付き従っていたように。
その人型の幻魔もまた、鬼級の中では支配者として君臨する側の幻魔ではないか。
《伊佐那美由理。戦団戦務局戦闘部第七軍団長にして星光級導士。星将。氷属性を得意とし、時間を制止する星象現界・月黄泉の使い手》
「なんだと……」
美由理は、鬼級が羅列してきた言葉に愕然とした。幻魔が戦団の内部事情を詳細に知っているというだけでなく、美由理の星象現界の特性までも把握されているというのは、ありえないことだからだ。
月黄泉は何度となく使ってきたが、しかし、その能力を看破されたことはない。見抜かれるはずがないのだ。時間静止中の出来事を認識できないのだから、だれにもわかるわけがない。
ただ、戦団内では知っているものもいないではない。
でなければ、戦術として運用できないからだが。
《何故、わたしがここに有るのかといえば、それだ。伊佐那美由理。きみが、きみさえいなければ、我らの願いが敵うからだよ》
「我ら? どういう意味だ?」
美由理は、震える手で拳を作り、力を込めた。歯を食い縛り、全身の魔素を総動員する。魔力を練り上げ、星神力へと昇華していくのに、然程の時間はかからない。
ただし、その間は無防備だ。
敵がなにもしてこないからこそ、星神力への昇華も可能なのだ。
《そのままの意味だよ。我らは我ら。一にして全、全にして一。故にわたしはここにあり、我らもまた、ここにある。そして、きみを地獄へと誘うというわけだ》
「わけのわからぬことを」
《それはきみが理解しようとしていないからだよ、伊佐那美由理。この地獄では、なにをしようとも無駄だという事実もね》
幻魔は、遥か上空から全く動こうともしなければ、攻撃する気配すら見せなかった。
故に美由理は、律像を形成することができたのだし、星象現界を発動することもできたのだ。
「千陸百壱式・月黄泉」
真言を唱えた瞬間、美由理の全身から星神力が発散し、その背後に白銀の満月が出現した。月の銀光がこの地獄を照らし出し、時間を止める。
轟々と燃え盛っていた炎も、ただ燃え尽きていくだけの建物も、失われていく世界も、全てがその動きを止める。風も流れない、雲も動かない、太陽も動かない。
宇宙の時間が、美由理の手のひらの中に収まったような感覚。
まるで全能の神になったかのような。
けれども、これは決して全能でもなければ、万能には程遠い。
ただ、時間を制止するだけの能力。
しかし、
(それでも、なにもしないよりはいい……!)
美由理は、地を蹴った。空中高く舞い上がり、幻魔との距離を縮める。至近距離から必殺の魔法を叩き込むためだ。
近づけば、輪郭だけしか見えていなかった幻魔の姿形がはっきりとする。やはり、人間に酷似した姿をしていた。身長は二メートルくらいか。痩せ細った体には脂肪も筋肉もなく骨張っていて、体の様々な箇所から異形の骨が突き出していた。顔立ちは整っているのだが、伸び放題の銀髪と、額から飛び出した異形の骨が冠を形成しているのは、異様としか言いようがなかった。
落ちくぼんだ目は、やはり、赤黒く輝いている。爛々《らんらん》と、燃えるように。
この地獄の業火そのものの輝きだ。
そしてその目が、美由理を捉えた。
「なっ――」
《無駄だよ、伊佐那美由理。この地獄では、きみの月黄泉もなんの効力も持たない。残念だったね》
美由理が愕然としたときには、腹に激痛が生じていた。
幻魔の首元から突出した骨が、美由理の腹を貫いたのだ。
意識が、燃える。