第百五話 生まれた場所
次に幸多が向かったのは、皆代家がある山辺町の南東側とは正反対というべき北西側に聳える御雷山だった。
実家では、母の手料理を満喫できたし、父に入団報告をすることができた。
また、転身機を使ってみせると、奏恵は、幸多の導衣姿を写真と動画で撮影しまくったものだから、幸多が少したじろいだものだった。それらの写真は、長沢家一同に見せびらかすのだろうということは想像に難くない。
そしておそらく叔母の珠恵が大興奮するのだろうし、いますぐ逢わせろと奏恵に懇願してくるに違いないというところまでわかった。
それはいつものことだからだが。
そうして家を出たのは、午後一時過ぎのことだった。奏恵は、幸多を見送り、幸多はそんな母の愛情を全身で受け止めるようにして、次の目的地に向かった。
幸多の次の目的地は、御雷山中腹にある赤羽医院だ。
今日は、年に一度の定期検診の日だった。
これは元々決まっていた日程ではなく、急遽取り決めたものだ。
というのも、この三ヶ月余り、幸多は対抗戦の練習に日程を支配されており、時間を作るということができなかった。定期検診よりも対抗戦で優勝することのほうが余程大事だったし、そのために出来る限りのことをしなければならないという想いは、さながら強迫観念のように幸多を支配していた。
そして、対抗戦が天燎高校の優勝で幕を閉じたのはいいが、検診日が中々決まらず、ついに今日になったのだ。
今日は日曜日だが、赤羽医院側が幸多のために融通を利かせてくれたのだ。
赤羽医院は、幸多が生まれた場所であり、幸多がこうして生きていられるようにしてくれた、大恩ある医療施設である。
幸多は、実家から御雷山まで徒歩で向かった。荷物も少なかったし、快晴だったこともあり、なんの問題もなかった。
赤羽医院は、御雷山の中腹の開けた場所にある。敷地は決して広くはないが、建物は立派だ。ただし、景観を損ねることのないように徹底的に配慮されており、遠目には山に同化していてよくわからないという有り様だった。
近づけば、清潔感のある白亜の建物がはっきりと見えるのだが、遠ざかるとそれがわからなくなるというのは、構造の妙なのか、素材なのか、幸多には理解できないことだった。
本来ならば休業日だということもあって、営業日ならば埋まっていることも少なくない駐車場はがらんとしていた。
硝子張りの玄関を通り抜ければ、受付所には幸多専属の医師が待ち構えていた。他に人気はなく、彼女一人だけがこの診療所にいるようだった。
「こんにちは、幸多くん。時間通りに来てくれて助かるよ」
「助かるのはこちらのほうですよ、優羅さん。無理を聞いてもらって」
幸多は、受付所から女性医師が出てくるのをまった。暗い紫が混じった長い黒髪を幾重にも束ねているのが特徴的な女性だ。身長は幸多よりは低いものの、女性の平均くらいといっていい。やや派手な化粧は、医師としては相応しくないのかもしれないが、似合ってはいる。
名を黒塚優羅という。
この医院の院長でもあった赤羽亮二が亡くなってからというもの、幸多の専属医師となった人物である。なぜ彼女が専属医師になったのかといえば、赤羽亮二の助手として一部始終を手伝っていたからであり、幸多の体については、医院の他の誰よりも詳しいからだ。
「無理だなんてとんでもないよ。きみの体は特別だからね。年に一回はちゃんと検査しておかないと、なにがあるかわかったものじゃない。きみの出生に関わったものとしては、きみが健やかに生きてくれるように責任を持つのは、当たり前のことだよ」
優羅は、穏やかな微笑を湛えながら、幸多を奥へと誘った。
「……なんとお礼を言ったらいいか」
「いったはずだよ。礼はいい。きみが健やかに生きてくれさえすれば、それで、とね。なのにきみは……」
足を止めて幸多を振り返った優羅の顔は、困り果てているようだった。
「導士になってしまった」
「それも戦闘部の」
「そう、それだよ。きみはいったいなにを考えているのかな。わかる、わかるよ、きみの気持ちは。痛いほどわかる。わたしも家族を幻魔に奪われた身だからね」
だけれども、だからといって戦闘部に入るのは、喜ばしいことではない、と、彼女は言外にいっていた。
優羅のいいたいことは、幸多にも理解できる。理解できるが、だからといってそれを許容できるかといえば、別の話だ。
幸多は、戦闘部に入らなければならなかった。入ることが夢を叶える第一歩であり、そこから全てが始まるのだ。
そのためにこれまでの人生を捧げてきたといってもいい。
「まあ、いいさ。きみが導士になってしまったことは、もう済んだことだ。きみには、精一杯、生き抜いてもらうことにしよう」
「生き抜いて……」
「そうだよ。きみには死んでもらっては困る。わたしと先生が掬い上げた命なんだ。それだけは忘れないでもらいたいな」
「はい」
幸多は、優羅のその言葉を胸に刻むようにして、聞き入れた。
定期検診は、例年通り、すぐに終わった。
優羅が魔機を用い、幸多の全身をくまなく調べたのだが、なんの問題も見当たらなかった。
筋肉も骨も内臓も、体内を巡る血液も、肉体を構成する細胞の隅々に至るまで、なにひとつとして検査に引っかかるようなことはなかった。
この一年で体に変化が生じ、魔素が生産され始めたなどということもなかった。
もはや幸多は、己の肉体にそのような変化が生じることを期待することはなくなったものの、かつて、子供の時分には、成長とともに魔法が使えるようになるのではないか、などとありもしない幻想に縋ったものだ。
この肉体に魔素が生まれることはなく、巡ることもない。魔法による影響も受けなければ、恩恵も得られない。
完全無能者の肉体。
ただ、常人よりも、魔法士たちのそれよりも余程頑丈で強靭だという点だけは、誇っても良いのだろうが。
優羅による定期検診を終えた幸多は、彼女の許可を得て、赤羽医院の中を探索するように歩いた。
優羅以外誰もいない医院の中は、冷ややかな沈黙に満ちている。夏の熱気などどこ吹く風の冷たさは、部外者の立ち入りを歓迎しないかのような素っ気なさにも思えた。
幸多が向かったのは、医院の地下一階に設けられた特殊対応室だ。
「この十数年、一度だって使っていないが、手入れだけはしてあるよ」
とは、優羅。彼女は、封鎖された特別対応室の扉を解放すると、幸多を室内に導いてくれた。
そこは、決して広い部屋ではない。
室内には様々な機材が所狭しと並べられており、片隅には分娩台と、そこに据え付けられた容器が目についた。分娩台と容器が融合しているような形状は、水中出産を行うための設備だからだ。
そして、そこで幸多は生まれた。
幸多は、分娩台に近寄ると、まじまじと見た。
十六年前、幸多はこの特別な分娩台を用いることによって、生まれることができたのだ。もちろん、奏恵が生み落とした。
この特別な分娩台は、赤羽亮二が急遽用意したものであり、ほかの病院や診療所などには存在しないものだ。
赤羽亮二が独自に考え、独力で作り出したものなのだから、当然だろう。
「先生は、どうすればきみを生きたまま取り上げられるのか、考えに考え抜いていたよ。きみが完全無能者であることが判明してからというもの、ね」
「……そうでしょうね」
「わたしも頭を捻ったものだよ。完全無能者など、歴史上存在しなかったのだし、この魔素に満ちた世界で生きていけるものかどうか、まったくわからなかったからね」
幸多は、優羅の話を聞きながら、分娩台に備え付けられた容器に視線を移した。多層構造の容器の中には、いまはなにも入っていない。
奏恵が幸多を出産する際には、特殊な液体で満たされていたといい、その液体が生まれたばかりの幸多の肉体を包み込むことによって、大気中の魔素から護ってくれたのだ。
この世は、魔素に満ちている。
魔素は万物に宿り、生物も無生物も例外はない。宇宙そのものが魔素によって構成されているといっても過言ではないのではないか、と囁かれるほど、この世界のどこもかしこも魔素に溢れている。
魔素を一切持たない存在である完全無能者にとってそれは、地獄のような世界だった。
空気中に含まれる魔素さえも猛毒であり、触れるだけで肉体を維持することもかなわなくなる。少なくとも、動物実験では、そうだった。魔素を持たないものは、この世では生きてはいけないのだ。
だから、赤羽亮二は、奏恵の胎内の子供が完全無能者であると診断したときから、その子供をどうやって取り出すべきか、そのことばかりを考えていた、という。
そうして発明されたのが、この多層構造の容器であり、層ごとに魔素密度の異なる液体で満たすことにより、胎内の状況を再現したのだという話だった。
奏恵の胎内では、生きていられたのだ。その状態を再現することができれば、少なくとも、生まれさせることはできるはずだ、という赤羽亮二の推論は、当たった。
幸多は、この多層構造の容器に満たされた液体の中で、生きていたのだ。
そのときのことは、当然ながら、覚えていない。
覚えているのは、隣の部屋から見たこの部屋の光景だ
幸多は、生まれ落ちたあと、すぐさま分娩台に備え付けられた容器から別の場所に移されている。それが隣室であり、特別対応室の硝子張りの窓から、その室内の光景がはっきりと見ることができた。
その一室には、生体調整槽と呼ばれていた設備が複数、設置されている。それは一種の生命維持装置であり、幸多は、その装置の中でももっとも複雑な機構を備えた機械の中で一年間を過ごした。
生体調整槽もまた、分娩台の容器と同じように多層構造であり、層ごとに魔素密度の異なる液体が満たされていた。幸多が入れられていた中心部の魔素密度は皆無に近い状態であり、だからこそ幸多は生き長らえたのだ。
赤羽亮二は、その調整槽を用いることによって、幸多の肉体を徐々に魔素に馴染ませていったという。それも一年もかけて、だ。そうしなければ幸多は生きられなかったのだから、最良にして最善の判断だったといえるのだろう。
幸多は、赤羽亮二という医師に巡り会えたことをいつも感謝していたし、それは奏恵や父・幸星も同じだった。むしろ両親のほうがそのことを感謝していたかもしれない。
だから、統魔を引き取ったのだ。
統魔は、赤羽亮二の実の子供であり、赤羽亮二とともにこの医院を切り盛りしていた緋沙奈との間に生まれている。
そして統魔は、生まれながらに莫大な魔素を持っていたがために、生体調整槽に入れられていた――。
「そうだ。統魔もここにいたんだった」
「そうだね。統魔くんも、ある意味ではきみと一緒だったね」
優羅が肯定する中、幸多は、自分が入れられていた生体調整槽から隣の生体調整槽に視線を移した。そこに生まれたばかりの統魔が入れられていたはずだ。
物心つく前のかすかな記憶が、それを覚えている。
ただし、統魔は一年間も入っていなかったはずだ。幸多よりも随分前に出されたという話を、後々聞いた覚えがあった。
そして、統魔が皆代家に引き取られたのは、二人が五歳のときである。
赤羽夫妻が幻魔災害に遭い、命を落とした挙げ句、統魔の引き取り手が見つからなかったからだ。その状況をしった幸多の両親は、統魔を養子として引き取ることにした。
それが二人に出来る、赤羽夫妻への唯一の恩返しだと考えたからだ。
幸多は、統魔と初めて逢った日のことを今でも思い出せる。
戦団の施設に入れられていた統魔を迎えにいったのは、雨の日のことだった。戦団の施設は子供の幸多にはあまりにも大きく映ったものであり、そんな施設の中から幸星に連れられて出てきた統魔を一目見たとき、不思議な感じがしたのを覚えている。
初めて逢った気がしなかった。
「あの子のこと、知ってるよ」
幸多がいえば、母は微笑したものだ。
「ええ、逢ったことがあるものね」
それがどういう意味なのか、そのときにはわからなかった。
いまならば、わかる。
幸多は、この調整槽の中で、統魔と出逢っていたのだ。
ずっと昔、十六年前に。
赤羽医院を後にした幸多は、再び実家に戻った。
母と二人きりの団欒は、夜まで続いた。