第百四話 里帰り
六月三十日日曜日。
今日は、六月最後の日であると同時に皆代幸多という人間にとって、一般市民として過ごす最後の一日だった。
明日、七月一日の月曜日からは、戦団の一員として、導士として活動を開始することが決まっている。
そのため、この最後の一日をどう過ごすべきかと色々考えた結果、里帰りをすることにした。
昨日は、北浜怜治に誘われ、サークルドリーム社で新作ゲームのテストプレイに興じた。そしてその後、夜中まで遊び回った。食べ歩き、買い物をし、カラオケ店で歌いまくり――とにかく遊んだ。
遊び疲れて眠り落ちそうになるほどだったし、とてつもなく楽しかったことを覚えている。
青春最後の一日を満喫したような、そんな気分が幸多の胸中を過っていた。
今日は、そんな昨日とは打って変わった一日になることは、幸多にとってわかりきったことだった。
夜中まで遊び回っていたとは思えないほどに早起きした幸多は、帰郷のための準備と食事などを済ませると、八時には家を出た。荷物の入った鞄を手に、意気揚々とバス停に向かう。
バス停からは、水穂市山辺町行きのバスに乗った。バスは、東街区から央都大地下道へ潜り、地下の広大な道路を東へ進んでいった。
央都の大動脈たる央都大地下道は、閉塞感を感じないように広く大きく作られており、また、地下を進んでいるとは思えないような明るさがあった。
大地下道から山辺町まで然程時間はかからなかった。
山辺町のバス停で降りれば、見知った景色が幸多の視界に飛び込んでくる。
山辺町は、幸多が生まれ育った町であり、つい四ヶ月前まで住んでいた場所なのだ。
たった四ヶ月弱しか離れていないというのに、もう既に何年も経過しているような、そんな感覚があった。この四ヶ月の密度の凄まじさがわかろうというものだし、状況や立場が大きく変化したこともあるのだろう。
幸多は、バスが去って行ってから、大きく伸びをした。新鮮な空気を吸い込み、肺を満たす。
央都一の都会である葦原市とは、空気そのものが違うような気がしたが、それはおそらく幸多の思い込みに寄るところが大きい。
確かに水穂市は緑豊かだが、葦原市もそれほど大きな違いはないのだ。
幸多が降りたバス停から実家までの距離は、結構離れているが、彼にとってはなんの問題でもなかった。もし、葦原市から水穂市まで歩いて移動できるのであれば、そうしたかもしれない。
幸多にしてみれば、それくらい余裕なのだ。
しかし、地上を歩いて葦原市から水穂市に移動することは許されないし、大地下道も歩行者の立ち入りは禁止されている。
だからバスを使うなり、地下鉄道網を頼るしかないのだ。
これは、魔法不能者に限った話ではない。魔法士であっても同じことだ。
央都四市の間を横たわる空白地帯には、一般市民が立ち入ることは許されないのだ。空白地帯には、幻魔が潜んでいる。いつどこに幻魔が現れ襲いかかってくるか、わかったものではないのだ。
だからこそ、央都四市を結ぶ道路が地上ではなく地下に作られている。
それならば、央都大地下道なり、地下鉄道網を利用したほうが余程安全だ。
もちろん、市内ならば絶対に安全とはいえない現実もあるのだが、空白地帯よりは危険性が圧倒的に少ないのもまた事実だ。
央都四市には戦団の基地があり、市内各所に導士の駐屯所が置かれている上、常に導士たちが警戒し、巡回している。毎日が厳戒態勢であり、いついかなるときであっても、幻魔災害の発生とともに対処できるようになっているのだ。
そうした対処の取れない空白地帯を出歩くなど、裸で戦場をうろつくようなものだった。
そんなことを考えながら、幸多は、見慣れた町並みの中を歩いて行く。
今日は、日曜日。
出歩いている人も少なくないが、幸多が注目を浴びるようなことはなかった。決勝大会で顔を知られたとはいえ、幸多の容貌は、取り立てて個性的なものではない。余程集中して見ていなければ、そこまで記憶に残らないのではないか。
特に対抗戦は学生同士の試合であって、出場した学生一人一人の顔を覚えるなど、余程の物好きか、熱狂的な対抗戦ファンだろう。
そうして幸多が実家に辿り着くまでに、知人や友人と再会することもなかったのは、喜ぶべきか、悲しむべきか。
幸多の実家、皆代家のある山辺町は、水穂市の北東部に位置する町だ。山辺町は、北西部と南東部に山があり、ある意味山に挟まれているといってもいい。
皆代家は、南東部に聳える御名方山の麓に広大な敷地を持ち、そこにぽつりと立つ一軒家が幸多の生まれ育った家だ。
澄み渡る青空には、眩く輝く白い雲が流れていて、太陽の光が燦々と降り注いでいる。吹き抜ける風は熱を帯び、初夏であるということを思い知らされるようだった。
そうした風が吹くたび、目の前に広がる草原に緑の波が起きるかのようだった。
草原の向こう側、山の麓のすぐ側に皆代家の一軒家が立っていて、幸多は、その相も変わらぬ様子を遠目に確かめるなり、笑みを零した。
四ヶ月近く前と、なにも変わっていない。
それは当たり前のことなのだが、なんだかとっても安心しているのも事実だった。
この世界では、いつなんどきなにが起きるのかわかったものではない。幻魔災害が突如として発生する可能性もあれば、魔法犯罪に巻き込まれることだって考えられる。それ以外にも様々な理由で、家が消えてなくなることもありうるのだ。
ありえないことなどない――それが今やこの世の原理原則だ。
幸多は、草原の中を歩いていく。
吹き抜ける風も、揺れる草花も、高々と聳え立つ御名方山の雄々しさも、なにもかも以前のままだ。昔から、なにも変わっていないように思える。
それこそ、幸多がここで育てられるようになってから、ずっと。
そして、幸多は、皆代家の立派過ぎるほどに立派な一軒家を目前にして、足を止めた。二階建ての屋敷は、周囲を取り囲む塀などはなく、広い敷地内のどこからでも見ることができたし、広い敷地内のどこまでも見渡すことができた。
そんな屋敷の庭で洗濯物を干している母・奏恵の姿を発見して、幸多は、思わず足を止めたのだ。
幸多は、奏恵に向かって駆け寄ると、大声を上げた。
「ただいま!」
「ああ、幸多!?」
奏恵は、幸多が突然駆け寄ってきたものだから、驚いて手に持っていたワンピースを空中に放り投げてしまった。しかし、すぐさまそれに気づいた母は、咄嗟に魔法を使い、物干し竿に巻き付けて見せた。あざやかな手際だった。
それから、幸多に向き直り、両腕を広げた。
奏恵は、幸多を思い切り抱き留めると、我が子と見つめ合い、抱きしめ直した。
「お帰り、幸多」
「ただいま、母さん」
幸多は、もう一度、いって、母の胸の中に顔を埋めた。太陽の光を目一杯浴びた母の服は、夏のにおいがした。
それから、幸多は、奏恵に招かれるまま、家に入った。
久々の実家は、前となにひとつ変わらないようでいて、少し気配が変わったようにも思えた。そのことを口にすると、奏恵は笑った。
「幸多も統魔もいないもの。静かになったわ、本当に」
少し寂しそうに、しかし、とびきり嬉しそうに奏恵はいった。子供たちが独り立ちしていくことの嬉しさと、それに伴う一抹の寂しさは、親になって初めてわかったことだった。
奏恵は、両親もそんな気分だったのだろう、と、いまさらのように想うのだった。
それから、少し早めの昼食を取った。
奏恵の手作りの料理を食べるのは、約四ヶ月ぶりのことでもあり、幸多は、腹が膨れ上がるまで食べた。そして、満足感と満腹感と幸福感で一杯になった。
そんな幸多の様子を見て、奏恵は、ただただ幸せだった。
幸多が幸福を感じている、それだけのことが、奏恵にはこの上なく嬉しいのだ。幸多には、幸せになって欲しい、少しでも多くの幸せが巡って来て欲しい――だから、幸多と名付けたのだ。
なにも持っていないのだ。
せめて、幸せくらいは誰よりも多く貰えても、悪くはないはずだ。
そんなことを奏恵は、夫である幸星と話し合ったものだった。
それから十六年。
幸多は、大人になった。
学生の身分ではあるが、戦団に入団し、戦闘部第七軍団の所属となったのだ。これはもう立派な大人といっていい。
年齢的にも、立場的にも、だ。
幸多が実家を訪れるのは数ヶ月ぶりのことだが、奏恵と会話すること自体は、数日ぶりのことでしかない。幸多が家を離れてからというもの、奏恵は、携帯端末のコミュニケーションアプリ・ヒトコトを通じて、幸多と頻繁にやり取りをしているのだ。
中学時代、幸多が実家にいる間は、ここまで頻繁に言葉を交わしただろうか、と想ってしまうほど、奏恵は家から出て行った幸多と様々なやり取りをした。
もちろん、統魔とも、だが、統魔は任務で忙しく、通話をしている暇というのがあまりなかった。結局、幸多と通話する機会のほうが多くなったが、そのことを姉妹に話すと、さっさと子離れしろだの、姉こそ幸多に依存しすぎなのではないか、などと言われたりした。
それから、少しして。
「ぼく、統魔と同じ導士になれたよ。父さん」
幸多は、幸星の遺影に向かって手を合わせ、天国にいるだろう父に報告した。
今から六年前のことだ。
幸多と統魔の十歳の誕生日会が、この家の庭で開かれた。
幸福な家庭の象徴とでもいうべき出来事は、突如どこからともなく現れた幻魔によって徹底的に破壊され、蹂躙され、奪われ尽くした。
幸多の父、幸星は死んだ。
幻魔に飲み込まれるようにして食い殺されて、死んだ。
その光景は、いまも幸多と奏恵の網膜に焼き付き、離れない。離れるわけがなかった。消えるわけがなかった。忘れられるわけがなかった。
だから、統魔は幻魔への復讐を誓い、幻魔殲滅のために戦団に入ることを望んだ。
だからこそ、幸多も戦団に戦闘要員として入ることを望んだ。
そして、奏恵は、それを止めなかった。
止められるわけがなかった。
幸星の命を奪った幻魔への憎悪と復讐心は、奏恵の心の中に今もはっきりと渦巻いているからだ。
もちろん、奏恵は、最愛の子供たちに自分の代わりに復讐して欲しい、などと想っているわけではない。
できるならば、自分の手で復讐したかった。
敵を討ちたかった。
でも、できない。できるわけがない。
奏恵の力では、太刀打ちできる相手ではなかった。
いつか戦団が討ち果たしてくれることを願う以外、奏恵にできることはなかったのだ。
だからといって、統魔を止めることも、幸多の考えを改めさせることもできなかったのは、彼らがそれを本気で望んでいるからにほかならない。
人の夢を止めることは、何者にも出来はしないのだ。