第千四十三話 本部祭(六)
視点が高い。
しかし、そんなもので戸惑うようなことはない。
というのも、元より彼の視点は、定まったものではなかったからだ。
常に空中に浮かんでいたようなものだったし、地面に足を付けて立っていたことなどなかった。実体を持たず、幽霊の如く虚空を漂っていた。
つい最近になって、ようやく、本物の肉体を得たのだが、それによって自分の視点がいかに不確かで不安定なものだったのかを理解したものなのだ。
そして、一二三は、クニツイクサの眼前に広がる魔界の風景に目を奪われかけて、頭を振った。すると、クニツイクサの視点も激しく動いた。
クニツイクサと操者は、神経接続によって繋がっている。そのため、操者が無意識的に体を動かそうとするだけで、クニツイクサもまた動いた。
ただし、クニツイクサは、人間の動きを完璧に再現するのではなく、人間にはできない動作も行う。でなければ、幻魔との戦いについていけないのだ。
そのため、クニツイクサを完璧に使いこなすには、それなり以上の訓練が必要だということは順番を待っている間に何度も説明されたことだった。
普通に動かすだけならば、幻想体を操るのとなんら変わらないという話も聞いている。
一歩、踏み出す。
前方には赤黒い大地が横たわっていて、頭上には青ざめた空が広がっている。大量の雲が流れ、太陽が見え隠れしていた。降りしきる陽光の激しさは、真夏を想起させた。
異常気象は、魔界の付きものだという。
一二三にとって、央都の外は未知の世界だ。
レイライン・ネットワーク上に大量に転がっている情報でこそ見聞きしてきたものの、実際には、央都の外に出たことはない。
怖いからだ。
自分の存在そのものが希薄であり、曖昧である以上、その行動範囲を無制限に広げるというような勇気はなかったし、魔界に踏み出し、〈殻〉に乗り込むような無謀さも持ち合わせていなかった。
だから、というわけではないが、眼前に横たわる〈殻〉に向かって疾駆すれば、大量の幻魔が降って沸いたように出現する様を目の当たりにした。ガルムやフェンリルといった獣級幻魔ばかりだ。獰猛な咆哮とともに猛火が吹き荒れ、氷塊が降り注ぐ。その間隙をクニツイクサが駆け巡り、大剣を振り抜けば、それだけで幻魔は死骸に成り果てた。
手応えは、十分すぎるほどにあった。
これが幻魔を斃す感覚なのか、と、感動すら覚えるのだが、感じ入っている場合ではない。
幻魔の大群が、一二三を包囲していた。
〈殻〉の真っ只中なのだから、当然だろう。
「銃もあったな」
独り言をつぶやきながら、クニツイクサの装備について考える。左腕に抱え込んだ銃器、機銃・撃神の引き金を引けば、無数の閃光が瞬き、大量の弾丸が幻魔の巨躯に吸い込まれていった。ガルムが断末魔の咆哮を発しながら、絶命していく。
そのまま周囲を旋回しながら弾丸をばら撒き、大剣を振り回す。
気がついたときには、幻魔の死骸が山積みになっていた。
「強すぎる……」
そう思った矢先、視界が暗転した。幻想空間から現実世界への回帰。その瞬間だけは、いつだって異様な感覚に襲われるのだ。
元の肉体に戻れなくなるのではないかという、不安。
これまで散々レイライン・ネットワークに潜り込み、情報の海を游いできたからこそ、そのような感覚に陥るのか、どうか。
操縦機の蓋が開けば、視界に天井照明の光が差し込んできて、胸の内を安堵が満たした。
係員の手を借りて外に出ると、思わずこけそうになったが。
「だいじょうぶ?」
抱き留めてくれたのは、係員ではなく、隣の操縦機横で談笑していた女性だった。一二三は、その女性のことをよく知っていたし、思わず笑顔になりかけて、はっとする。知っているのは、一方的になのだ。対応を間違えれば、気分を害しかねない。
そんなことを、日々、伊佐那の兄や姉から学んでいる最中なのだ。
だからこそ、余計に注意深く、反応する。
「だ、だいじょうぶです。あ、ありがとうございます……」
「それなら良かったわ」
そういって一二三に笑いかけてくれた女性は、皆代奏恵である。幸多の母だ。幸多によく似た、笑顔の素敵な女性だった。
故に、一二三は、それ以上はなにもいえず、ただ見取れているよりほかなかったのだが。
「どうしたんだい?」
義流が、一二三に声をかけたのは、彼が放心状態だったからだ。
卵形の機械から出てきた途端に体勢を崩し、転倒しかけたのを隣の女性に助けて貰ったのは、いい。その女性が皆代奏恵だということも、問題ではない。
気になるのは、それからというもの、一二三がうんともすんともいわなくなって、係員が困り果てた様子だったのだ。
義流が一二三を待機列の脇まで移動させなければならなかったくらいである。
「え?」
「え……って。心ここに在らずって感じだな。クニツイクサの操縦体験は、合わなかったか」
「あ、いや……そういうわけじゃないんですけど」
「うん?」
「あの人……」
「ああ、きみを助けてくれた女性な。皆代幸多、統魔の母親だよ。まあ、おれは面識がないんだが、知らないはずもない」
「それは……そうですね」
義流が、皆代家について詳しく知っていることに疑問を持つ理由はない。
なんといっても、義流は第四開発室の副室長にして、窮極幻想計画の重要人物である。幸多との関わりは深く、彼自身、自分が今日まで生き延びてこられたのは、イリアや義流のおかげといって憚らなかった。
そして、そんな人物であるからこそ、幸多の家族関係、人間関係について熟知していてもなんら不思議ではない。
「きみも、知っていたのかな?」
「はい」
「……まあ、調べればすぐに出てくるような情報ではあるか」
「ですね」
義流に同意したものの、一二三が知っている奏恵の情報というのは、ネット上に出回っているそれよりも余程距離感の近いものであり、だからこそ、声もかけられなかったのではないか、と思ったりした。
「百二十五体って、とんでもないわね」
「さすがは戦団馬鹿」
「それ、関係ある?」
「あるある、大いにある!」
「ないでしょ」
背後から聞こえてきた話し声に目を向ければ、そこにもまた一二三にとって見知った顔があった。
幸多の友人たちである。
「つぎは、わたしの番だな」
「頼みますぜ、先輩! 蘭の野郎の記録を塗り替えてくだせえ!」
「うむ、任せるが良い」
亨梧の三下ぶりに拍車がかかっているのが気になるものの、鷹揚に頷き、卵形の操縦機に乗り込む法子の姿は相も変わらず凜としていた。
クニツイクサの操縦体験会は、大盛況だ。
通常、市民が立ち入ることのできない第四開発室に足を踏み入れることができるというだけでも興奮するというのに、その一角に展示されたクニツイクサの上半身を目の当たりにすれば、蘭が熱狂するのも無理からぬことだろうと圭悟も理解を示すしかなかったほどだ。
そして、その興奮のなせる技なのか、蘭は、たった五分の操縦体験でとんでもない数の幻魔を撃破したのである。
「スコアアタックか。確かにそれもありだったかもしれんな」
姫路道春が、学生と思しき一団の様子を見守りながら、だれとはなしにつぶやいた。
「しかし、五分でしょう? まず普通に動かせるようになるのに多少の時間はかかりますよ」
「それもそうだが、その五分で百二十五体の幻魔を撃破した人材がいるのだよ」
「それは、凄い」
道春の部下が唸るのも当然だった。クニツイクサそのものは体験会用に設定されているとはいえ、幻想空間上に現れる幻魔は、戦団が訓練に使用しているものと同じなのだ。
操縦も覚束ないはずのクニツイクサでそれら獣級幻魔を百体以上も撃破するのは、並大抵のことではない。
「見てろよ、蘭! てめえの天下は五分だ、五分! 五分天下だこんちくしょー!」
「そこまでいわなくても……」
亨梧が口惜しげに告げたのは、それまで幻魔撃破数で彼が一番上だったからだ。次点が圭悟で、紗江子、真弥、怜治の順番に撃破数が少ない。
蘭たちが注目しているのは、卵形の機械の頭上である。
操縦機の頭上には、幻板が出力されているのだが、そこに映し出されているのは、クニツイクサが疾駆する幻想空間の様子だった。
法子は、あっという間に操縦感を掴んだようで、蘭よりも早く敵地へと繰り出した。
勢いよく〈殻〉へと乗り込み、幻魔に包囲されると、集中攻撃を受けて大破してしまった。
「え?」
「は?」
「へ?」
「うん?」
「あらあら」
だれもが呆気に取られる中、操縦機の蓋が重々しく開くと、法子は、いつもと変わらない様子で這い出てきた。
そして、何事もなかったかのように雷智に次を促すと、腕組みして幻板を見上げた。
「あの……先輩?」
「なんだ?」
「五分……立ってないんですけど」
「そうか。それがどうかしたのか?」
「えーと……」
法子は、亨梧の反応こそが不思議でならないといった表情をしていて、自分が操縦するクニツイクサが一瞬にして大破したことなど一切気にも留めていないようだった。
圭悟は、蘭たちと顔を見合わせ、それから幻板上に展開するクニツイクサの圧倒的な戦いぶりに熱中した。
雷智の操縦技術は、蘭とも比較にならないほどに卓越したものだったのだ。