第千三十五話 前夜(二)
伊佐那一二三は、布団の中に潜り込み、今日一日に渡って行った猛特訓のことを思い出していた。それは想像を絶する疲労感や消耗感を伴うものであり、自分が如何に世間知らずだったのか、現実というものに妄想じみた憧れを抱いていたのかを知った。
しかし、同時に、心地よくもあった。
なにより達成感があり、充実感があったからだ。
このような感覚を抱けるようになったのは、やはり、肉体を得たからに違いない。
人造身体を得、他者と交流することができるようになって、初めて自他の境界を理解し、自分という存在を再認識するに至った。
自分がどういった人間なのか、それまでの透明な存在のままでは、想像を巡らせることすらできなかったのは間違いない。
その当時には想像しようもなかったことだが、いまならば、はっきりと断言できる。
外の世界や情報の海から得られた膨大な情報を元に思い描いた世界は、理想と空想、想像と妄想が入り乱れた、自分にとって都合の良すぎるいびつなものだったのだ。
暗くなった部屋の天井をぼんやりと眺めていると、眠気とともにあくびが漏れた。
伊佐那家本邸の自室。
伊佐那家の一員となったからには、戦団本部の第六軍団兵舎ではなく、伊佐那家本邸で生活するべきだろいうという家族からの言いつけに従い、一二三は、喜んでこの屋敷に転がり込んだ。
元々広い家だ。
豪邸といっていい。
麒麟とその六人の養子、そして住み込みで働いている多数の使用人たちが使用している部屋を含めると、本当に無数の部屋があり、空き部屋もかなりの数があり、放置されていた。
一二三には、母屋の空き部屋が宛てがわれた。
元より無から生まれたばかりといっても過言ではない彼には、私物らしい私物などほとんどなく、移り住むのに苦労することはなかった。第六軍団兵舎の彼の部屋から、ちょっとした荷物を持ち運ぶだけで良かったのだ。
伊佐那家の一員になったことで、彼を取り巻く状況というのは大きく変わったといっていい。
彼自身に対する扱いそのものが激変した。
それまでは、孤児の一二三ということで、どのように扱えばいいのかわからないといった導士ばかりだったのが、伊佐那家の一員になったということでわかりやすいくらいに変化した。
丁寧かつ丁重な態度を取るようになった導士たちの様子には、一二三も不思議と思ったものだが、自分が伊佐那家の一員になったことが関係しているのだと理解すれば、納得もいった。
一二三は、情報通ではある。
少なくとも、誕生してからつい先日まで、情報の海を泳ぐことが日課だった。透明な存在として双界各地を巡ることもないではなかったが、そんなことをしてもだれとも関わり合えないのだから、やはり、レイライン・ネットワークに潜る時間のほうが長くなった。
レイライン・ネットワークに散乱する膨大極まる情報の数々を見て回り、手に取ることに時間を費やした。
それはまさに暇潰しだった。
それが自分の人生の全てなのだろう、と、諦観してすらいたものだが、世の中、なにが起こるのか、わからないものだ。
まさか幸多との接触によって、自分が認識され、さらには肉体すら得ることになるなど、想像しようもない。
それこそ、幸運以外のなにものでもなかった。
「幸、多かれ……か」
幸多の名の由来を口にすると、それだけで幸福感に満ちるのは、どういうわけなのか。
幸多のことを考えるだけで、表情が弛む。
幸多に出逢い、幸多に認識され、幸多に幻想体を与えられた。
この一二三という名もだ。
幸多が、全てを与えてくれた。
一二三にとって幸多は、特別な存在なのだ。
だから、幸多のことばかりを考えてしまう。
情報の海に見た幸多の雑多な情報は、実際の幸多との触れ合いの中で消化し、あるいは昇華した。
魔法不能者にして完全無能者でありながら、絢爛たる超新星として現れ、燦然と輝く新人導士。
たぶん、一二三が彼の存在を認知し、理解を深めるにつれて抱くようになったのは、嫉妬ではなかろうか。
持たざるものであるはずの幸多は、しかし、一二三とは比べものにならないくらいに全てを持っていた。家族に恵まれ、周囲の人々に恵まれ、師に恵まれ、部下に恵まれ――透明な存在からすれば、全てが羨望の的にならざるを得ない。
だが、いまとなっては、そんなことはもはや遠い過去のものであり、幸多が恵まれていたからこそ、いまの自分があるのだと思うようになっている。
高名にして偉大なる伊佐那家の一員に迎え入れられ、導士たちにも一目置かれるようになったのも、幸多と出逢えばこそだ。
幸多の特異な能力が、一二三を認識させ、この現実世界に定着させた。
だから、彼は幸多のことばかりを考える。
幸多は、自分に全てを与えてくれた。
ならば、今度は自分が幸多の力になる番だ。
そのためにはどうすればいいのか。
どうすれば、幸多のためになるのか。
そのことだけを考えて、日々を生きている。
そのとき、ふと気づくと、闇を見ていた。
「え?」
どんよりとした暗闇が遥か眼前にあって、そこから無数に降ってくるなにかがある。降りしきるそれが雪だと認識できたのは、視界を通り過ぎていく最中のことだった。
雪に触れたのも、今日が初めてだった。
今日の午後、天気予報通りに降り始めた雪が戦団本部の外に積もったのを目の当たりにし、触れた。触れた瞬間、溶けて消えていくのは、防寒用の魔具のせいではあったが、しかし、雪の儚さと美しさを実感として理解したのは、これが初めてだった。
雪自体を見たことは、過去に何度もあった。
けれども、透明な存在だった一二三にとって雪は、空想上の産物となんら変わりのないものだ。なんといっても、この透明な体を通過し、触れることもかなわないのだ。
いまがそうであるように。
「おー、昔懐かし幽体離脱」
一二三は、自分の体が透き通った状態で、伊佐那家本邸の上空に浮かんでいることに気づくと、あまりの懐かしさに声を上げた。おそらくどれだけ大声を発したところで、だれの耳にも届くまい。
生命維持装置に浮かぶ脳から遊離した、意識だけの存在だったのだ。声を発しているという認識もなければ、見えざる体が存在していると思ったこともなかった。
なにもない、ただの意識だけが、物理法則に囚われることなく、さまよい続けていた
だが、人造身体を得てからというもの、いまのいままで、このようなことは起きなく、不思議に思った。
余程、疲れ切ったからなのか、それとも、あまりにも幸多が恋しいからなのか。
意識が、肉体から遊離してしまったらしい。
「つまり、これはぼくの異能ということなのかな」
たとえば、第三因子的な能力であり、自由自在に制御できるというのであれば、明確な強みになるのではないか。
なんといっても、この霊体は、伊佐那義一の真眼にも捉えることができなかったのだ。当然、伊佐那麒麟にも視えないだろう。
一二三の霊体を認識することができるのは、幸多だけだ。
なぜ、幸多だけが自分を認識できるのか。
「そりゃあ」
特別な絆で結ばれているからだ、などとは、口が裂けてもいえるわけもないが。
眼下、降りしきる雪に飲まれ、真っ白に染まった葦原市の町並みを眺めていたのは、ほんのわずかな時間だった。
例年とは比較にならないほどの降雪量だが、そんなもので央都四市の交通機関に問題が生じることもなければ、人類生存圏が混乱に陥ることもない。
眠らない都市、央都。
真夜中であっても都市部は光り輝いていて、人出も決して少なくなかった。
そんな町並みを見下ろしながら、夜空を游ぐ。
葦原市から、水穂市へ。
気づけば、一っ飛びに飛んでいた。
空白地帯の上空を通過したのではない。レイライン・ネットワークに飛び込めば、都市間も一瞬で移動できる。
まるで空間転移魔法のように。
そして、水穂基地を覗き込めば、導士たちが任務や訓練に明け暮れている様子を垣間見る。
戦団は、二十四時間、休む間もなく働き続けている。
幻魔災害は、時間を選ばない。




