第千十一話 兄弟と(三)
話を遡れば、十二月二十二日、つまり昨日のことになる。
神木神威は、いつものように総長執務室に籠もっていた。職務に忙殺されていたからだ。
戦団の頂点に君臨し、導士の中の導士、英雄の中の英雄と謳われる神威だが、その日常は、職務との格闘にある。
総長とはつまり、戦団の最高責任者であり、あらゆる部署から確認や承認を求める書類が殺到する立場にあるのだ。
つまり、少しでも勝手に時間を作れば、膨大な書類が山のように積み重なっており、その数に圧倒され、言葉を失うのもまた、いつものことだった。
もっとも、物理的に積み重なった書類の山を見ることはない。
全てはデータ上、演算機の中にある。
神威が周囲に複数の幻板を出力させ、それぞれに異なる書類を展開しつつ、それらと睨み合っていると、伊佐那麒麟が執務室を訪れた。
副総長である彼女は、神威に引けを取らないかそれ以上に忙しい身の上であるはずなのだが、悠然とした様子だった。神威のほど仕事に追い立てられていないのだろう。
総長特務親衛隊の三名が麒麟に向かって敬礼すると、彼女は、慈母の如き微笑とともに挨拶をした。
「いつもご苦労様。自分勝手に飛び回る総長の監視なんて、大変もいいところでしょうに」
「それはまあ、その通りなんですが……職務ですので」
「ふふ。良い返事ですね」
親衛隊長・王子公伯の返答が面白くて、麒麟は笑わずにはいられなかった。
そんな二人のやり取りを聞きつつも、神威は、書類に承認印を押していく作業を続ける。
「閣下も職務を全うしておられるようで」
「当たり前だ。きみのような暇人ではないのでな」
「あら、それは見当違いも甚だしい。わたくしはいつも職務を完遂し、空いた時間を使って、閣下を訪ねているのですよ。特に今回は、相談事がありますので」
「相談? おれにかね」
「はい。閣下に深く関わりのあることです」
「ふむ?」
神威が眉根を寄せたのは、書類の内容に対してであり、麒麟の発言にではない。
その書類は、生命真理研究所からのものであり、神木神威複製計画の大いなる進展のため、戦団への助力を求めるという内容だった。
生命真理研究所は、本来ならば閉鎖され、解体される予定だったのだが、複製体百二十三号こと一二三の新生によって、状況が大きく変わっている。
というのも、一二三の特異性は、複製体研究の価値を示すものだったからだ。
一二三は、神木神威複製体の研究成果だ。竜眼の発現に成功してもいる。
研究を推し進めれば、一二三以上の成果を出すことも不可能ではないはずだ――生命真理研究所の所長や研究員たちが息巻くのも無理のない話だったし、それを止めることはできなかった。
神木神威複製計画は、戦団が推し進めていたのだ。護法院が。戦団上層部が。
故に、一定の成果物を得られたいま、生命真理研究所の存続を認めるほかなく、彼らの研究に多少なりとも協力するべきだという論調が沸き上がるのも無理からぬことだ。
一二三を複製し、さらなる研究と改良を施せば、最高最強の神木神威複製体が誕生する――生命真理研究所の意見は、概ねそのようなものであり、だからこそ神威は眉をひそめるのである。
「一二三くんのことです」
「彼が……どうかしたか?」
「会われたのでしょう?」
「そのことについては報告したはずだ」
まるで魔法の鏡を見ているようだという率直な神威の感想には、護法院の老人たちも同感といわんばかりの反応を示していたものだった。
だれもが、一二三の姿に過去の神威を重ねたのだ。
一二三と直接対面したものほど、その感覚を抱く。
若き日、荒ぶる闘神の如くだった神木神威そのものが、そこにあるのだ。
上庄諱も、興奮を隠せないといった様子だった。常に沈着冷静な彼女らしくはない。
『それだけ、神木神威に憧れていたんだよ』
という諱の言葉は、適当に受け流したが。
「彼を、どうなさるおつもりなのです?」
「どう……とは?」
神威は、書類との格闘を取りやめるようにして幻板を掻き消した。
すると、麒麟の穏やかな表情が目の前に出現する。黄金色の虹彩が、天井照明の淡い光を跳ね返して、きらきらと輝いている。いつものように。そして、そのいつもの彼女こそ、神威に心の安定をもたらしてくれるといっていい。
「彼には、身寄りがないでしょう。いまは、第六軍団兵舎が預かっているようですが」
「彼は、第七軍団への配属を希望している。身体機能制御訓練が終了し、魔法技術の体得が完了し次第、彼の希望を叶えるつもりだ」
「つまり、第七軍団の兵舎で寄宿しろ、と」
「それでは駄目なのかね」
「彼は、一二三くんは、これまでずっと孤独だったというではありませんか」
「……ああ」
生命真理研究所の地下深くに設けられた一室。
その一角に設けられた巨大な生命維持装置が、一二三にとっての世界の全てといっても過言ではなかった。彼の意識は、霊体の如く世界をさ迷い、膨大な情報の海を泳いでいたというが、だからといって孤独ではなかったとはいえまい。
彼の存在に気づいたのは、幸多が初めてなのだ。
それまで、彼は一人きりだった。
それは、聞き及んでいる。
「彼には、彼を支えてあげる家族が必要だと思いませんか? ひとは、一人で生きられるものではありませんよ。魔法が発明され、魔法社会が構築され、人類全てが魔法士となってからもずっとそうだったと、歴史が証明しています」
どれほど高名な魔法士も、どれだけ優秀な魔法士も、人間である以上、孤独には耐えきれなかったし、一人で生き抜けるものではなかった。
社会の中にあってこその人間であり、他者の存在があってこその自分なのだ。
他人との触れ合い、交流が、己の存在を確立させ、安定させる。
一二三は、第六軍団兵舎での日々を楽しんではいるようだ。だが、それはいまだからではないか。彼は、精神的には生まれたばかりの赤子同然なのだ。全てが目新しく、輝いて見えているのではないだろうか。
だから、どうとでもなる。
しかし、それもいつまでも続くものではあるまい。
「家族か」
神威は、麒麟の目を見つめ、考え込んだ。
「おれに親になれと?」
「そこまでは申しておりません。なんといっても、閣下は御多忙の身の上。わたくしなどよりも仕事量も膨大ですので、子供の面倒を見ている暇もないでしょう」
「嫌味かね」
「はい」
「……歯に衣着せぬ物言い、嫌いではないが」
「好きでもないでしょう」
和やかな表情で言葉の刃を突き刺してくる麒麟には、神威はなにも言い返せなかった。この数十年間で紡ぎ上げられた関係性が、そのような言動をも可能としている。
立場に縛られないのが、戦団の長老たちの絆なのだ。
「……おれは家族を持つつもりはないよ。神流は、あれは神土の孫だしな。そして、神木家は、神土のものだ。おれは……神木家を地上に栄えさせ、権力者にしようとも思わん」
「わたくしには、伊佐那本家を名乗るようにいいやがりましたのに」
「それはそれだ。護法院としての判断だろう。そもそも、伊佐那家と神木家では家格が違い過ぎる。家の歴史がな。伊佐那は、魔法の本流。地上にその家を繁栄させようという護法院の考えは、理解できよう」
「ですから、わたくしも反対しなかった。かといって、地下の伊佐那家と対立したくもありませんし、その存在を否定するものにはなりたくもありませんでしたが……」
戦団は、地上がネノクニ統治機構の支配から脱却した土地であることの証明として、麒麟を当主とする伊佐那本家を擁立することとした。
伊佐那家は、魔法的権威の象徴である。
神威の言ったように魔法の本流であり、現在流布している魔法の大元は、伊佐那の魔法なのだ。
だから、伊佐那本家の当主になることを了承した。
その一方で、麒麟は、護法院に我が儘も聞いて貰っているのだが。
「……話を戻しますが、一二三くんを、彼を、我が家に迎え入れようと思うのですが、如何でしょう?」
「伊佐那家に……か」
神威は、麒麟の目を見つめた。
黄金色の光を帯びた瞳は、いつものように柔らかく、しかし、決然としているように見えた。