第千十話 兄弟と(二)
「に、に、兄さん!?」
「ど、どどどど、どういうことなの!?」
「ふたりとも、いくらなんでも驚きすぎじゃないかな」
一二三は、度肝を抜かれるあまりに腰を抜かした金田姉妹に苦笑した。驚くのは想定内だが、その反応の大袈裟ぶりは想定外にもほどがある。
義一が、一二三に半眼を向けた。
「義弟が驚かせて申し訳ないね、ぼくから謝らせてもらうよ」
「い、いやいや、いやいやいや」
「謝られるほどのことじゃないんですけども……兄さんとか義弟とか、どういうことなんです?」
「言葉通りの意味だよ。一二三は、伊佐那家で預かることになったんだ」
「預かるっていうか、一員? 家族として迎え入れて貰った感じ。ぼくは身寄りのない孤児だからね。麒麟様が伊佐那家に入らないかって持ちかけてくれたら、そりゃあもう、感謝感激雨霰だよね、もう本当、最高……!」
感極まった様子でまくし立てる一二三の様子には、朝子も友美も呆気にとられるばかりだ。
義一も、一二三の多弁ぶりには時々ついて行けなくなるから、二人に同情する。
一方で、彼の心情を理解してもいるのだが。
彼は、長年孤独だったのだ。
生まれてからずっと、一人だった。話し相手など居らず、他者に干渉するすべも持たなければ、ただ独り思考することしか許されなかった。話しかけようにも声が出ないのだから、脳内に言葉を思い浮かべるしかない。
脳内に反響するそれが、本当に自分の声なのかという自信さえ持てなかったのではないか。
広い広い生命維持装置の中に浮かぶ小さな脳。それが彼だった。彼曰く幽体離脱し、自由気儘に双界各地を巡り、見聞を広めることこそできたようだが、それはむしろ彼自身に孤独感を再認識させ、寂しさを増幅させることになったのだという。
だから、なのだろう。
人造身体という実体を得、他者と交流することができるようになった彼は、とにかくよく喋った。暇さえあれば声をかけてきたし、会話をしたがった。
言葉を発する能力そのものは低く、舌足らずで、よく噛んだが、彼の物凄まじいまでの熱量は常に伝わってくるから、どうとでもなった。
語彙力に関していえば、もしかすると義一たちよりも優れている可能性があった。
孤独であるが故にレイライン・ネットワークという情報の海に浸り、熱心に情報収集をしていたのだ。言葉も、その過程で獲得していったという話だったし、義一たちよりも言葉を知っていたとしてもなんら不思議ではない。
そんな一二三の境遇については、戦団上層部以外には秘匿にされている。
生命真理研究所が推し進めていた神木神威複製計画を主導したのは戦団だが、故にこそ、明らかにしていいものではないのだ。
一二三の身分は、彼の説明通り、双界に数多いる孤児の一人である。孤児院にて育てられていたが、戦団によって魔法士としての素養を見出されたことにより、戦闘部の一員となった――ということになっている。
ただし、虚弱体質かつ特異体質で、体を一から鍛え直す必要があり、新野辺九乃一に扱かれることとなったのだ。
九乃一に彼のことを任されている金田姉妹は、一二三の真実については知らない。
一二三が話していなければ、だが、その点について心配する必要はないだろう。伊佐那家の一員になったことすら話していないのだから。
一二三は多弁だが、不必要に己の情報を開示するような真似はしない。
「じゃ、じゃあ、一二三くんって名前も変えるの?」
「そういえば、伊佐那家に入られた方がたって、皆様、改名していらっしゃるもんね」
「ううん、ぼくは、一二三のままだよ。義流兄さんや美那兎姉さんが改名したのは、麒麟様への感謝を言葉だけじゃなく行動でも示そうとしたからであって、麒麟様が提案したことでもなければ、一度だって強制していないんだよ。ぼくにとってこの名前はとても大切なものだから、もしも伊佐那家の一員になるために改名する必要があったんだとしたら、断っていたよ」
一二三が己の胸に手を置いて、熱っぽく語れば、金田姉妹もそれ以上は踏み込めないといわんばかりに口を噤んだ。
伊佐那家は、代々、男には義の一字が、女には美の一字が与えられる。伊佐那家の始祖、伊佐那美咲の時代から連綿と受け継がれてきた命名法は、いわゆる言霊の一種であり、故にこそ、養子であってもそのように名乗るべきではないかと考えたのが、麒麟の養子たちだ。
義正、義流、美琴、美那兎、美由理、そして、義一、美零。
地上の伊佐那本家の一員は、皆、伊佐那家に代々伝わる命名法に従っており、唯一の例外が、当主の麒麟だけだったのは、深い理由がある。・
麒麟は、ネノクニにおける伊佐那家の分家筋、それも末席も末席に位置していたため、伊佐那家流の命名法を用いられなかった。そして、それが故に異界環境適応処置の被験者とされ、神威率いる地上奪還部隊の一員になったのだという。
そういう経緯があったからなのか、麒麟は、央都伊佐那本家の当主となった後も、改名しなかった。
己の名に誇りを持っているからだ、と、麒麟は度々語っている。
故になのか、麒麟は、一二三が改名しないことをむしろ喜ばしいと考えているように義一には感じられた。
麒麟が一二三を伊佐那家に迎えることにしたのは、神威が彼の処遇について煮え切らない態度を取っていたということもあるようだが、彼の将来を考えてのことでもあるはずだ。
将来、彼が伊佐那家から離れることはわかりきったことなのだ。
彼は、神木神威の複製体だ。それも、全盛期の神威の体細胞から作られた複製である。
能力面では、神木神威の後継者たり得るはずなのだ。
もちろん、竜眼を持たない彼に、竜眼の持ち主と同等の働きを期待するのは酷というものだろうが。
それはそれとして、一二三が、神威の後継者になることを期待するものは、少なくないはずだ。
そのためにこそ、いまから徹底的に鍛え上げるのであり、その準備段階として、忍びの道を駆使し、体の使い方を叩き込んでいるというわけだが。
「……で、調子はどうなんだ?」
義一は、魂の奥底でうずうずしている半身を抑え込むのに必死になりながら、一二三に尋ねた。一二三のこととなると、いまにも前面に飛び出そうとしてくるのが、美零の悪いところだ。
「ご覧の通り、上々ですぜ、兄貴」
「兄貴って」
軽口を叩きながら大障壁に取り付いた一二三だったが、あっという間に頂上に到達して見せた。金田姉妹が大拍手するくらいだ。彼がこの短期間でどれほど成長したのか、想像に難くない。
それから横幅が片足分しかない入り組んだ迷路へと足を踏み出し、それもまた、素早く踏破してしまう。
つぎは、長い梯子が横倒しになった、いわゆる雲梯である。
それら障害物を次々と突破していく一二三の姿は、眩しいくらいに輝いていた。
そして、ゴール地点に辿り着いた一二三は、満面の笑顔を義一に向けた。
「どうです、兄さん!」
「まあ、いいんじゃないかな」
「なんなんですか、その心底どうでもよさげな反応! 自分が末弟じゃなくなったことが、そんなに不満なんですか!」
「だれがそんなことをいったんだ、だれが」
「それは……」
高所にあるゴール地点から飛び降りてきた一二三は、義一の質問に対し、困ったような顔をした。
金田姉妹の存在が気になるとでもいうような反応から、彼がなにを言いたいのか義一にはわかった。苦虫を噛み潰した顔になるのを自覚して、手を振った。
「わかったわかった、それでいいよ」
「なんなんすか、もっとぼくに興味を持って! 弟だよ、兄さん!」
「隊長なら興味を持ってくれるよ」
「だったら幸多の弟になりたかったな!」
「そんなことをいう弟は、正直言うといらないな」
「うう、酷い、兄さん、酷い」
「本当はそんなこと微塵も思っていないんだろ」
「あ、わかっちゃった?」
「ふう……」
危うく大声を出しかけて、義一は、深呼吸をした。
金田姉妹が目を丸くしているのは、義一のこういう姿を見たことがないからだろう。
つまり、義一は、この新しくできた弟に翻弄されているのだ。