第千四話 一二三(四)
「きみとは、話をしておきたかった。おれはきみのオリジナルで、きみはおれの複製体だからな」
その声に、その言葉に込められた想いがどのようなものなのか、一二三には見当もつかなかった。ただ、耳朶に響く声音の深さが、一二三の意識の奥底にまで沈み込むようだったし、言葉では言い表せられないような感情が湧き上がってくるはわかった。
裏庭の片隅に設置された長椅子に腰かける感覚も、その高さから神木神威の顔を仰ぎ見る感覚も、影に隠れた表情を覗き込むような感覚も、全て、肉体を獲得したことによって喚起されている。
一二三が、この人造身体という肉体を得て、まだ二日しか経っていないのだ。なにもかもが新鮮であり、目が眩むくらいの光を放っているといっても言い過ぎではない。
この身体機能制御訓練も、そうだ。
思い通りに体を動かそうとするだけで刺激を感じている。
そしていまは、神木神威を眼の前にして、胸の奥がざわついているのを感じるのだ。
「……ぼくも、同じです。あなたは、ぼくのオリジナルであり、ぼくの全てだった」
「全て……か」
「だって、そうでしょう。ぼくの存在意義は、あなたを完璧に再現することだった。それが全てで、それ以外に価値なんてなかった。脳だけになってしまったぼくが生かされていたのは、ぼくがわずかでも竜眼を発現することができたからで、そうでなかったなら速やかに廃棄処分されていたはずでしょう」
一二三の言葉には、強い実感が込められていた。それもそのはずだ。一二三は、最後の複製体ではない。唯一の成功体というだけであって、一二三の後にも何体もの複製体が生み出され、その全てが失敗に終わっている。
そして、失敗作が廃棄されていくのをただ見届けることしかできなかった。
一二三以降の複製体は、一二三の体細胞を培養して生み出された。
伊佐那義一が、それまでの唯一の成功体である伊佐那美零の体細胞を再利用して誕生したように、一二三の細胞を再利用することによって、竜眼の発現を確実なものとしようとしたのである。
だが、そのいずれもが失敗に終わった。
だからこそ、一二三が生かされ続けたのだが。
もし、一二三以上の成功体が誕生したのであれば、一二三は用済みとして処分されただろう。
そういう意味では、成功体が誕生しなかったことを喜ぶべきなのだろうが、素直に喜べるわけもない。
「ぼくがいまこうしてここにいられるのは、この作り物の肉体で現実世界に干渉することができるようになったのは、複製実験が失敗し続けたからで、ぼくの脳に多少なりとも利用価値が残っていたからです。そのおかげで、幸多と出逢うことができた」
「……ああ、そうだな。そう聞いている」
神威は、どのような反応をすればいいのかと考えを巡らせながら、彼の話を聞いていた。
一二三。
神威の体細胞から生み出された複製体。しかし、いまや一二三の肉体を構成する部位の内、脳だけが神威と同じものであり、それ以外の部位は、全て、人工的に作られたものだ。現代技術の粋を結集して作り上げられた人造身体。
外見こそ神威に似せているが、内実はまるで違うのだ。
とはいえ、彼の起源が神威にあり、存在意義がそこにあったという事実を否定することはできない。
「幸多がぼくを認識し、ぼくに体を与えてくれた。それこそ、命を与えてくれたも同じなんだ。だから、ぼくは強くなりたい。強くなって、幸多に恩返しをしたいんです」
「恩返しか」
「変ですか?」
「……いや、なにもおかしなことではない」
神威は、頭を振り、一二三の目を見た。神威と同じ暗緑色の虹彩は、神威とは違って両目にある。若き日、まだすり切れていなかったころの神威そのものの少年の眼差しは、力強く、彼を見つめ返していた。
やはり、魔法の鏡を見ているような、そんな錯覚に陥る。
時間をも飛び越える魔法の鏡。
そこに映し出された過去の自分は、やはり、純粋にして無垢そのものだ。この世界に、自分の存在に一切の疑問を持たず、ただひたすらに走り続けていたころの自分自身なのだ。
だから、神威は、一二三から目を逸らした。彼を見ていると、過去の自分と向き合う羽目になりかねない。
「きみの境遇を考えれば、そのような考えに至ってもなんら不思議ではない。むしろ、喜ばしいことだ」
「喜ばしい?」
「きみは、おれの複製体だが、いまのきみは、おれを再現することはできない。竜眼を持たないきみに神木神威の複製体は務まらないだろう」
「……はい」
一二三は、視線を自分の膝の上に落とした。この訓練のために運動服を身につけているのだが、上も下も、そこかしこが汚れていた。弛みなく訓練を続けていることの証明だといえる。
「きみは、きみだ。一二三という名の一個の人間として、存在している。まあ欲を言えば、その人造身体の見た目も変えて欲しかったがな」
「……仕方がないじゃないですか。これがぼくの想像する、いまのぼくの姿なんですから」
「ああ……それが悪いといっているわけではないんだ。ただ、きみがその姿に囚われているのではないかと、な」
「囚われますよ、もちろん」
「ふむ……」
神威は、一二三の複雑な心中を想い、言葉を探した。
一二三の人造身体が神威が十六歳の頃とそっくりなのは、一二三の幻想体を元に設計されたからだ。一二三の幻想体は、一二三が想像する自分自身であり、その想像の元となったのは、彼が獲得してきた莫大な情報に基づく神木神威の姿だろう。
彼は、神木神威複製体としての使命を全うするべく、神木神威に関する情報を吸収してきたのだ。
その結果、全くの別人になることのできる機会すらも奪われるのは、あまりにも哀れだが。
同情したところで、どうにもなるまい。
「ぼくにとって神木神威は元型なんですから、どうしたって、囚われてしまう。でも、これでいいんです。ぼくは、生きているんですから」
「……きみが納得しているのならば、いい。あとはおれたちの問題だ。おれたちが慣れるかどうかのな」
「慣れてください」
「……きみは……」
随分と強気だ、などといおうとして、神威は口を噤んだ。一二三がきょとんと彼を仰ぐ。
「いや、こちらの話だ。気にしなくて良い」
「気になりますけど」
「気にするな」
「します」
「……ふむ」
困り果て、神威は天を仰ぐ。
戦団に入ったばかりの新人導士は、全員、一人残らず、神威と直接言葉を交わすことすらままならなくなるものである。
戦団総長にして、戦団史上最強の魔法士であり、最高の英雄なのだ。
彼を前にして緊張しない導士などいるはずもなく、だれもが言葉に詰まり、怖じ気づくものなのだが、一二三にはそういうところが一切なかった。
怖じ気づくどころか、意に介してすらいない。
「きみの姿を見ると、若き日を思い出す老人たちがいるのだよ。わたしもその一人だが」
「護法院の方々ですか?」
「主にそうだが、それだけではない。戦団創設以前、地上奪還部隊の頃からともに戦ってきたものたちは、皆、きみを見ておれを思い出すだろう」
「ヴァルハラの英雄……」
「まあ、そういうことだ」
神威が渋い顔になったのは、その話題に触れたくなかったからだろうし、一二三もその理由を知っているからそれ以上はいわなかった。
かつて、ネノクニで大流行したというヴァルハラ・ゲームは、参加者たちの心に深い傷痕を残しているという。
「……話が逸れた。おれが話したかったのは、そういうことではない。きみのことだ。きみ自身のこれからについて」
「ぼくの、これからについて、ですか?」
「そうだ。きみは、どうしたい?」
「どう……」
こちらを見据える神威の隻眼を真っ直ぐに見つめ返しながら、一二三は、考え込んだ。神威の暗緑色の瞳に映る自分の姿は、自分が確かに実在していることを証明している。
だれにも認識されることのない透明な存在ではなく、だれもが認識できる色彩を持つ存在として、ここに生きている。
「きみは戦団に所属する導士だが、どこの部署にも配属されていない。なんといっても、きみは未知数だ。体の使い方すらままならないきみの今後の成長をこちらで勝手に想像して配属するなど、言語道断だろう」
「だから、ぼくに選べ、と?」
「きみに選べないのであれば、きみに最適な部署をこちらが選ぶだけだ。しかし、戦団は自主性を重んじる組織だ。故に、きみの意見を聞きに来た」
神威は、そのように断言し、頭上を仰ぎ見た。
戦団は、強制しない。
自由でなければならない。
でなければ、神威が総長である理由がなかったし、そのために多大な犠牲を払ってきた説明がつかない。
それは契約である。
大いなる過去との約束。