第千三話 一二三(三)
「た……」
一二三は、予期せぬ出来事に激しい動悸と混乱に襲われた。床面に激突する衝撃に備えていた意識が、一瞬にして塗り変えられたのだ。
「助かりました……!」
反射的に口を突いて出た言葉が神威への感謝の言葉だったのは、正解だっただろう。
第六軍団兵舎裏屋外訓練場、通称・忍びの道を活用した身体機能制御訓練は、この肉体を得たばかりの一二三にとって必要不可欠なものだ。
そして、同時に極めて困難なものだということは、この二日間、身に沁みて理解できた。
体を自由自在に動かすのがこんなにも難しいことだとは、想像したこともなかったのだ。
人々が生活する様は散々見てきたし、導士たちが幻魔を相手に死闘を繰り広げる模様も目の当たりにしてきた。その中で、だれもが体を動かすことに苦戦している様子は見受けられず、故に、一二三は、肉体を得れば自由自在に動き回れるものだとばかり思っていたのだ。
もっとも、そんな想像を働かせるようになったのも、イリアの提案があってからのことだ。
数日前までの一二三は、透明な存在のまま、研究所もろとも消えてなくなるものだと認識していたのだから、当然だろう。
こうして肉体を得て、生を実感することになるなど、想像しようもない。
奇跡が起きて、いま、ここにいる。
そう、自分のオリジナルたる神木神威と直接対面することもまた、奇跡そのものなのだ。
「……いや」
神威は、腕の中の少年の顔を見て、憮然とした。真横に聳え立つ壁は、たった六メートルの高さだ。いくら一二三が咄嗟に魔法を使えないとはいえ、頂上から落下したところでかすり傷もつかないだろう。
第三世代の肉体は、極めて頑丈なのだ。仮に怪我をしたところで、すぐさま癒えて傷跡ひとつ残らない。
魔導強化法は、魔素生産力を増幅させるだけのものではない。身体能力も、身体強度も、生命力、治癒力も、旧世代の人間とは比較にならない。
第一世代の神威とも、だ。
神威は、一二三を腕の中から下ろすと、口を開いた。
「余計なことをしたな」
「そ、そんなことは……ないです」
「それならいいが」
神威は、一二三にかけてやる言葉も思いつかず、それだけをいって、その場から離れた。
一二三は、神威を見つめ続けていたが、思い出したように壁に向き直った。
「大丈夫? 一二三くん」
「ぼくは大丈夫。なんの問題もないよ」
一二三は、友美が心配してくれるから、笑顔を返した。友美と朝子は、本当に心根の優しい人達だと、一二三は思うのだ。
こんなまともに動くこともできない自分に手を差し伸べ、応援し、心配してくれている。
幸多が、二人ならなんの心配もいらないと太鼓判を押すだけのことはあった。
金田姉妹が献身的なまでに面倒見てくれるから、どうにかこの訓練に耐えられているという感覚は、確かにあるのだ。
一二三は、壁に向き合い、出っ張りに手をかけた。
「よろしいのですか?」
「なにがだ」
九乃一の隣に戻るなり問いかけられ、神威は、なんともいえない顔になった。
「総長閣下御自らが激励して差し上げれば、彼も奮起すると思いますが」
「どうだろうな」
神威は、一二三が大障壁をゆっくりとよじ登っていく様子を見守りながら、考える。
「彼がおれをどう想っているのか、考えてしまうよ」
「でしたら、話し合えば良い。もうすぐ休憩を挟みますし、時間はたっぷりありますよ」
「おれは暇じゃない」
「ではなぜ、ここに? 彼のことが気になったからではないのですか?」
「……そうだな。その通りだよ」
神威は、九乃一の指摘に渋い顔をしながらも、認めた。認めざるを得まい。
自分の複製体である。
気にならないといえば、嘘になる。
神木神威複製計画が動き出してからというもの、ずっと気に懸けてはいたのだ。到底成功するとは思えない研究と実験の数々。どれほどの犠牲を払い、代価を差し出したところで、得られる成果など大したものではあるまい。
伊佐那麒麟の、真眼の複製とはわけが違うのだ。
竜眼の、竜級魔法士の複製。
実現できれば、確かに人類復興は加速するだろう。
竜級幻魔に等しい魔法士たちが大量生産されれば、地上から幻魔を殲滅し、魔界を人の手に取り戻すことも容易い。
だが、それは竜眼の複製ができれば、の話だ。
可能性は絶無に近く、護法院の誰一人として期待していなかった。
唯一の成功体である百二十三号も、脳だけが生命維持装置に生かされている状態ともなれば、これ以上、複製計画を推し進める理由もない。
生命真理研究所が近日中に閉鎖されることになったのも、そのためだ。
そんな最中である。
彼が、一二三が、その存在を認識されたことによって、状況は変わった。
もちろん、竜眼を持っていない一二三は、神威の完全なる複製体ではない。神威の強みは、竜眼なのだ。それ以外は、第一世代の魔法士に過ぎず、第二世代、第三世代の魔法士に大きく劣る。
竜眼を持たない、第三世代の神威。
それが一二三なのだ。
一度壁を登りきることができると、それからはある程度簡単に登頂できるようになっていた。脳が、体の動かし方、筋肉の使い方を少しずつだが確実に理解してきているような、そんな感覚がある。
その分、脳が疲れてもいるようだ。
体を動かすために、脳を総動員している。
本来ならば無意識的に動かしているのであろう肉体を、彼の場合は、意識して動かさなければならないのだ。
まだまだ、そんな段階だった。
意識して体を動かし、脳に覚えさせ、全身に馴染ませていく。
そのための忍びの道というわけである。
「休憩だって」
「もうこの壁も余裕って感じだね?」
「余裕はないけど、でも、まあ、登れなくはないかな」
一二三は、金田姉妹から手渡された手拭いで汗を拭き、飲み物に口を付けた。なにかを飲んだり、食べたりすることもまた、この人造身体を得て、初めて経験することだった。だから、慣れていない。口に含んだ水分が喉を通り過ぎる感覚が気持ち悪かったし、ときどき、口から溢れることがあった。そのたびに金田姉妹に心配させたが、特異体質故の問題だと言い訳して、やり過ごした。
この体が人造身体であることを金田姉妹は知らない。
一二三が神木神威の複製体だということを知っているのは、幸多たちを除けば、戦団の幹部だけであり、虚弱体質にして特異体質が故に、一から体を鍛え直す必要があるということになっているのだ。
もっとも、金田姉妹にせよ、ほかの導士たちにせよ、一二三が若い頃の神威にそっくりだということにはすぐに気づいていたし、血縁関係があるのではないかと一部では噂されているようだ。
それはそれとして。
「一二三くん、こちらへ」
「は、はい」
九乃一に呼ばれ、そちらに赴けば、神威が待ち構えていた。
戦団総長の立派な体躯は、一二三からすると巨人のような印象を受ける。一つ目の巨人。神威が持つ威圧感や迫力がそうさせるのだろうか。それとも、一二三が身構えているからか。
なんにせよ、一二三は、全身が緊張するのを認めた。
「総長閣下が、きみとお話ししたいそうだ」
「閣下が……ですか」
「うん。閣下の時間が許す限り、好きなだけ話すと良い」
言うだけ言って、九乃一はその場を離れ、金田姉妹の元へ行ってしまった。
その場に取り残された神威は、どうするべきかと考え、一二三を見た。やはり、魔法の鏡だ。過去の自分を映し出す魔法の鏡。
その鏡に映る表情は、神威の心情を反映しているかのようだ。
完全な他人だというのに、だ。
「困惑しているかね?」
「……その……なんていっていいのか」
一二三は、神威の突拍子もない質問にこそ困惑した。だからだろう。彼もまた、突拍子もないことを聞いた。
「ぼくは、戦団に所属しているんですか?」
「……当たり前だろう」
今度は、神威が困惑する番だった。
「でなければ、きみの訓練のために軍団長を貸し出したりはしない」
「……それもそうか」
「まあ、座りたまえ」
神威は、手近にあった長椅子に一二三を促すと、自分もまた、そちらに向かった。
十二月も下旬に入ろうとしている。
空は青ざめていて、薄い雲がまばらに流れている。太陽は中天にあり、暖かな日差しを地上にもたらしていた。
戦団本部の敷地内の気温は、その日差しの暖かさに負けないくらいに温かく保たれており、寒さに震えることはない。
吹き抜ける風も、穏やかそのものだ。
神威が長椅子に腰を下ろせば、視線の先で金田姉妹と九乃一がなにやら話し合っている様子が見えた。
(暢気なものだ)
神威は、嘆息したかった。