第千話 生きている
『確かに似ている。そっくりだ』
「そうか?」
『鏡を見たことがないわけではあるまいに。本当によく似ているよ。少年時代、ヴァルハラの英雄と呼ばれたきみに』
「……懐かしい響きだ」
諱の言葉に神威が遠い目をしたのは、一瞬のことだった。つぎの瞬間には、現実に舞い戻っている。
目の前の直視しなければならない現実は、護法院にとってだけではなく、戦団全体にとって大きな問題だった。
神威は、戦団本部棟・総長執務室にいる。
室内には、神威と麒麟、そして通称・首輪部隊の三名の導士がいた。
首輪部隊の三人はといえば、総長執務室でそれぞれ勝手に寛いでいるのだが、そのことで神威や麒麟が顔をしかめるようなことはない。彼らの役割は、その通称が示す通り、神威の首輪になることである。神威が暴走することのないように繋ぎ止めておくことが最優先任務であり、神威が総長としての役割を全うしている間は暇を持て余しているといっても過言ではないのだ。
故に、神威が仕事に専念する傍らでなら、どのような暇潰しをしていてもなんの問題もない。
そうはいっても、いまこの状況では、神威に注目せざるを得ないのも事実だ。
神威と、神威が見ている幻板の映像に、だ。
幻板には、いま現在行われている幻想訓練の様子が中継されている。
幻想訓練を行っているのは、真星小隊の四人にもう一人を加えた五名なのだが、そのもう一人というのは導士ではなかった。完全な部外者であり、そんな人物が戦団の訓練施設を利用することなど、本来ならば許されざることだ。問題に発展しかねない。
ただし、今回の真星小隊の訓練は、護法院の要請によって行われているものであり、問題になりようもないのだが。
そして、部外者たる五人目は、皆代幸多たちと同世代の少年であり、名を一二三という。そう名付けたのは幸多であり、由来は、少年そのものにある。
「神木神威複製体百二十三号……か」
「彼は意識を獲得して以来ずっと、この世界を見ていた、と」
麒麟は、かつての神威そっくりな少年が皆代小隊の面々に翻弄される様を見つめながら、なんだか懐かしい気分になりつつも、違和感も覚えていた。
神木神威といえば、その頃には既にヴァルハラの英雄として名を馳せ、歴戦の魔法士だったからだ。
一方の一二三は、魔法を扱うことすらままならない様子であり、当時の神威とは似ても似つかないのだ。容姿は瓜二つなのに、その挙動不審にも見える体捌きは、過去の神威と何一つ結びつかない。
『皆代輝士が見出さなければ、永遠に現世をさ迷い続けたということか?』
『彼の脳が生き続ける限りは、そうだろうな』
『ふむ……』
相馬流陰が低く唸ったのは、彼もまた、若き日の神木神威に思い入れのある人物だからだろう。
護法院の長老ならば、神威の若い頃を知らないわけがなかった。特に流陰のように神威と命のやり取りをしていたものからすれば、懐かしさだけでなく、様々な感情が沸き上がってくるのも当然だ。
それほどまでに一二三の外見は、神威に酷似していた。
ただし、幻想体である。
幻想体など、好き勝手に調整可能であり、他人に似せることも、成り済ますことも、容易いことだ。
もっとも、幻想体で他人に成り済ましてなんらかの問題や事件を引き起こしたところで、成り済ました他人を陥れることは、不可能に等しい。瞬時に露見し、犯人が捕まるだけのことなのだ。
だから、幻想体を用いた犯罪行為は限りなく少ないし、他人に成り済まそうとするものもほとんどいない。自分そのものの幻想体を作る人間が大半であり、つぎに多いのが理想とする存在やアニメや漫画のキャラクターを元にした幻想体である。
そのことで問題が起きることも少なからずあるようだが、それは、それとして。
「百二十三度も行われた実験での唯一の成功体か」
「都合、二百回だそうです」
「ふむ」
「わたくしのほうも、似たようなものですよ」
「そうか……」
神威は、苦い顔になるのを止められなかったし、それを見ている麒麟も、内心では同じ表情をしていたかもしれない。
神木神威複製計画は、伊佐那麒麟複製計画の後に始まっている。
伊佐那麒麟複製計画そのものは、戦団にとって、いや、人類にとって必要不可欠かつ最重要なものであると、護法院のだれもが認めるところだ。
伊佐那家に受け継がれてきた第三因子・真眼が、〈殻〉攻略の要だからだ。そして、第三因子は、子や孫に遺伝するとはいえ、確実に覚醒するとは限らないという問題を抱えていた。ならば、既に覚醒している麒麟を複製するべきだという結論に至るのは、ごく自然の流れだろう。
それは、いい。
生命倫理を蹂躙しようとも、人類復興という大願を果たすためには致し方のないことだ。
なによりも優先するべきは、幻魔殲滅、人類復興である。
そのために外道に落ちるのは本末転倒だし、道を踏み外すくらいならばいっそのこと、と思わなくもないが、しかし――。
『成功体といっていいものかどうかは議論の余地があるが』
『確かに。彼は、脳だけだったな?』
「だから、日岡博士がこのような提案をしてきたのだろう」
神威は、手元の幻板に目を落とした。そこには日岡イリアからの提案書が表示されており、既に護法院の他の長老たちからは許可が得られていた。後は、総長たる神威が許可するだけで、イリアの提案は承認され、動き出すのである。
「彼は、戦力になると思うかね」
『さて、どうだろうな。彼は確かにきみの複製体だ。きみの実力は、きみ自身が一番理解しているはずだ』
「おれは、第一世代だよ」
『彼は、第三世代だ。つまり、順当に育てば、きみよりも強くなれる可能性がある』
「竜眼を除けば、な」
『その通りだ。竜眼の複製には失敗した。つまり、彼に価値はない――そう判断しても構いはしないが』
「だが、きみたちは承認している」
『道徳の問題だよ』
諱の発言に、神威は眉根を寄せた。
「きみがそれをいうか」
『わたしだから、いうのさ。散々きみたちを苦しめてきたわたしだから、ね』
「……ふむ」
神威は、諱がなにを言いたいのかを理解しているからこそ、それ以上はなにも言わなかった。
そして、イリアの提案書に承認印を押す。
イリアからの反応は、すぐにあった。
全身が、燃えるように熱いのは、体中の神経という神経が繋がり、あらゆる感覚が世界を認識しようとしているからなのだろうか。
触覚、嗅覚、味覚――これまで存在しなかった感覚が、脳を狂わせるようだった。情報が洪水のように押し寄せて、頭の中を掻き乱していく。視覚も、聴覚も、なにもかもが、意識を席巻していく。
情報過多にもほどがあった。
目の前に、光がある。
あまりにも眩しく、眼が灼かれるような感覚があった。けれどもそれは、現実の光を初めて認識したからこそのものであり、次第に収まっていった。脳が適切に調整し、感覚の暴走も収まっていく。
耳朶を震わせるのは、体内を流れる血液の音だ。まるで煮えたぎるマグマのような、そんな音。どくん、どくんと、全身を打ちつけるような拍動は、心臓の音だろうか。
心臓。
いまのいままで存在しなかったはずの臓器が、いま、この胸の内にあるのだという感覚は、凄まじい重力と存在感でもって意識を塗り潰していく。
重力。
そう、重力もまた、初めて全身で感じていた。
現実世界や幻想空間を幻想体で動き回るのとは、なにもかも勝手が違うのは、当たり前といえば当たり前なのだろうが、違和感が怒濤のように押し寄せては意識を包み込んだ。
「どう? 新しい体の調子は。わたしの声、聞こえているかしら」
「……聞こえて、います」
喉を震わせて、声を出す。
それもまた、初めてに近い感覚だ。
幻想体は、それ以前の透明な存在としての彼のままで良かった。幸多が作り上げてくれた幻想体は、情報子とやらで構成された特別製であり、故に、彼の思い通りに動いたのだ。
だが、肉体は、どうだ。
肉体。
一二三は、寝台の上に仰臥している自分を認識し、手を動かそうとした。指先に力を込め、肘を曲げ、前腕を上げる。筋肉が動いているその感覚が、感動の津波となって押し寄せてくるようだった。
一二三は、人生で初めて、肉体を得たのだ。
生きている。
彼の実感は、肺を満たす空気の重みのように意識に浸透していく。