第九百九十九話 熱(四)
「……さて。どうしたものかしらね」
イリアが途方に暮れかけているのは、当たり前と言えば当たり前のことだっただろう。
幸多によって一二三と名付けられた少年は、幻想体としてではあるものの、確かに現実世界に存在しているのだ。
肉体はなく、あるのは脳だけだ。それもこの巨大な生命維持装置の中でしか生きられず、出ることもかなわなければ、なにができるわけでもない。
幻想体として誕生し、産声を上げたとでもいうべき彼は、そのことには頓着しないのだろうが、しかし、イリアは頭を抱えたくなるような難題に直面しているのを認めるしかなかった。
「なにか問題なんです?」
「問題しかないでしょ」
幸多の疑問には、イリアもなんともいえない顔を返すしかなかった。
「ここは本来、近日中に閉鎖される予定だったのよ。だって、長年なんの成果も上げられなかったんだもの。当然よね」
「それは……まあ、そうでしょうけれど」
幸多は、困惑気味に、自分に抱きついたままの少年を一瞥する。一二三は、幸多の感触を確かめるように頬を突いたり、髪に触れたりしている。それによって生を実感しているかのようであり、だから、幸多もなにもいえないのだ。
一二三は、いま、初めて、自分が生きていることを全身で感じているのだ。
そこには歓びが有り、驚きが有り、幸せがある。
「生命真理研究所は、数ある戦団の関連施設に過ぎないわ。当然、運営や研究のための費用は、全部戦団から出ているの。そして、戦団の資金も無尽蔵にあるわけじゃない。成果の上がらない研究所を閉鎖するのは、当たり前の話よね。でも、彼が生まれた」
「……はい」
『うん。ぼくは、生まれた。たったいま、ここで。幸多がぼくのお父さんなんだ!』
「えーと……」
幸多は、一二三が感極まっている様を見て、言葉を探した。彼が歓喜に満ちた表情で、幸多の手を取りながら虚空を踊る様子を目の当たりにすれば、適切な言葉など思い浮かぼうはずもない。
そこには生命の躍動があった。
命が、熱を帯び、光り輝いている。
「……一二三くんの脳を保管していたのは、唯一の成功例だったから。彼の細胞を元にしてさらなる研究を積み重ねれば、完全にして完璧なる神木神威複製体が完成するかもしれなかったから。でも、そういう成果は出せていないのよ」
『そこなんだよね』
一二三が、幸多を背後から抱きしめるようにしながら、イリアの言葉に大きく頷いた。幸多の体温を感じる。熱を。命を。それは彼の意識を席巻する感動の嵐の中心で、燦然と輝く太陽のようだった。
『ぼくは、神木神威の複製体として作られた。神木神威の体細胞を培養して、ね。何体も何体も、それこそ百体以上の複製体が作られたはずだよ。その中で唯一、ぼくだけが産声を上げた。けれどもぼくは、生き続けられなかった。脳みそだけになってどうにか生き長らえたけれど、それじゃあ意味がない。なんといっても、そんなものを神木神威の複製体だなんて呼べるわけがない』
自嘲するでもなく、彼は、淡々と告げるのである。
自分が置かれている立場、状況を余す所なく把握しているといわんばかりだった。
『神木神威複製計画の真意は、神木神威が持つ竜眼の複製にこそあるんだ。竜眼とはなにか。竜級幻魔ブルードラゴンが神木神威に植え付けた力の結晶なんだよ。それを複製し、制御することができたなら、どうなると思う?』
「人類反抗の切り札……いいえ、主力になり得るわ」
『だから、生命真理研究所は、神木神威複製計画に没頭したんだ。それもこれも、人類復興のため。幻魔殲滅のため。大義名分のため――』
一二三の発言に対し、イリアは口を挟まなかった。彼がなにを伝えたいのか、言われずともわかるものだ。
『かくしてぼくは誕生したけれど、今日まで無名にして無色透明の存在だった。いま、幸多がぼくに命を与えてくれた。ぼくはぼくになり、ようやく、世界を感じられるようになったんだ。嬉しいよ、本当に、嬉しい……!』
一二三は、幸多の前方に回り込むと、彼の顔を覗き込んで、笑顔を見せた。心底嬉しそうな表情には、幸多も笑顔を返すしかない。
そんな二人の様子を少し離れた位置から見ていた真白と黒乃は、少しだけ面白くない感じがした。まるで幸多を独り占めにされているような、そんな感覚だ。しかし、だからといって口を挟むような野暮はしない。一二三の心情を慮ることくらいできない二人ではないのだ。
「まあ、それは素晴らしいことなんだけれど、だからこそ問題なのよ。戦団は、こんな状況になるだなんてまったく想定していなかったわ。できるわけないわよね。一二三くんの意識が霊体となって世界中を飛び回っていて、幸多くんに認識され、幻想体を得るだなんて。護法院は、今頃大慌てでしょうね」
いや、護法院どころか、戦団本部全体が天地を引っ繰り返したような騒ぎになっている可能性を想像して、イリアは、静かに息を吐いた。
生命真理研究所も、直に大騒ぎになるだろう。
いや、既に研究員たちがこの部屋に向かってきていてもおかしくはない。
「この状況、把握されているということですか?」
「当たり前でしょう。わたしがここにいるのよ?」
イリアは、幸多の質問に半眼を向けた。
「……システムの統合が完了したわ。ノルン・システムは、ユグドラシル・システムとして再統合され、より完璧で完全なシステムとなった。世界を巡る全ての情報を掌握する機構にね。そしてここは、戦団が管理する研究施設。この内部の全てがシステムによって把握されていると考えていいわ」
「監視社会万歳って感じだな」
「兄さん」
「別に悪くはいってねえだろ」
「そうかなあ……」
黒乃は、真白の言葉に刃のような鋭さを感じ取って、不安になった。兄の狂暴さはここのところ形を潜めていたものの、やはり、空恐ろしいものだ。
もっとも、イリアは、そんな二人のやり取りなどどうでもよくて、一二三にこそ注目した。
「……きみは、どうしたいの?」
『え?』
きょとんと、一二三。イリアの質問の意図がわからず、彼女を振り返り、その瞳を覗き込んだ。
「きみは、誕生した。そうね。まさにそういっていいわ。きみは、幸多くんの力によって、幻想体という存在ではあるものの、誕生したのよ。存在とは、他者を認識するだけでなく、他者に認識されることによって、肯定されるもの。わたしたちが認識したことによって、きみの存在は肯定され、確かなものとなったのよ。そして、きみはいま、岐路に立っているのよ」
『岐路……?』
一二三には、イリアがなにを伝えようとしてきているのかまるで理解できず、ただ、その言葉を反芻した。
自分が誕生したことの興奮と感動が意識を席巻していて、冷静に考えられないというのも大きいのだろうが、それだけではあるまい。一二三には、想像力が欠如している。他人がなにを考え、どのようなことを想い、望んでいるのか。そういったことを考えたことがないのだ。
ずっと、一人だった。
生命維持装置の中に浮かぶ脳が彼の全てであり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
レイライン・ネットワークという情報の海を泳いで得られた情報だけでは、自己を確立するだけで精一杯だった。幸多に認識されて、初めて、自他の境界が生じた。
自分と、他人。
幸多を半ば強引にここまで連れてきたのだって、そうだ。自分の都合ばかり押し付けた結果に過ぎない。
そんな一二三の事情はいざ知らず、イリアは、彼に説明を続ける。
「きみは誕生したけれど、このままだと、ここで研究され続けるだけなのよ。だって、きみはここの所有物で、研究材料だもの。そして、この生命維持装置の中のきみを徹底的に解剖し、研究し尽くすのが、ここの研究員たちの役目であり、使命」
「解剖……」
幸多は、生命維持装置に目を向け、言葉を失った。もはや脳しか残されていない彼を解剖するということは、どういうことか。
彼は、一二三は、どうなるのか。
『それがぼくの誕生した意味だと?』
「少なくとも、きみの脳は、そうね。でも、きみの意思はどうかしら」
『ぼくの……意思』
「きみは、どうしたい?」
イリアの問いかけは、一二三には、眩い光のように見えた。星のように煌めき、瞬く。
「きみは、この世に誕生した。それはまさに奇跡そのものよ。だってきみはいままで、わたしたちに存在を認識されることすらなかった。それが、幸多くんという奇跡の存在によって、認識できるようになった」
奇跡の連鎖――そんな言葉が、イリアの頭の中に浮かんだ。
ありえないことが起きている。
それは、イリアにすら想像していなかった事態だったし、想像を絶する出来事だった。故に彼女自身、とてつもない興奮の中にいたのだ。
だから、だろう。
イリアは、彼に提案したのだ。
「もっと、生きてみたいと思わないかしら?」
『生きて……』
一二三は、イリアの目を見た。透き通った灰色の瞳は、眩しいくらいに輝いているようだった。
それが、一二三の人生の始まりを告げたといっても過言ではなかった。