第6話 人間をやめた日
「アハハハ! 二回も気を失うとは、少年は間抜けなのだな!」
「二回目はあんたのせいだよ!!」
頭にできたそこそこ大きいタンコブを氷嚢で冷やしながら、俺は目の前にあぐらをかいて座る女と話していた。
ダボダボの白いワイシャツにグレーの短パンという余りにも無防備な女を前にして、いっそ襲ってやろうかという邪念を持ったが、生憎そんな勇気と行動力を持ち合わせてはいなかったみたいだ。
「いやいや、今に限っては少年が私の裸を見ようとしたからではないか。私は全く悪くない。それともなにか? 言いがかりをつけて私を脅し、あんなことやそんなことを要求しようとしていたのかな?」
「勝手に決めつけんな!! 俺がそんなことするわけないだろ!!」
「ふーん。てっきり今の少年の視線は完全に私のことを狙っていたように感じたんだがね。まあ違うなら結構だが」
突拍子もない女の発言に肝を冷やした俺だったが、バレたくない一心で逆に必死こいて否定してしまう。
あまりにも露骨な態度に正直バレていたかは知らないが、女はただ俺の態度を見てクスクスと笑うだけだった——。
*
「でさ、なんで俺はここにいるの?」
俺は辺りを見渡しながら女に問いかける。部屋には本やら何かの書類やら紙きれやらが転がっていて見るに堪えない汚部屋であった。
「それは少年が気絶した後、私がこの場所へと運んだからだよ」
「へー」
「そんな冷たい反応をしないでくれ。感謝の言葉一つぐらい欲しいな」
「あ、ありがとう……」
「ハハッ、可愛げな反応もできるではないか」
頭をかきながら視線を斜め下へ逸らす俺を見て笑う女。
ここ数年全く見知らぬ女と会話していない俺だ、間近で女から笑われることに耐性が無く、段々と熱が顔の方へと込み上げる。
一体今自分の顔はどれほど真っ赤に染まっているのだろうと頭の隅で考えながら、俺は話題を切り替える為に顔をあげた。
「て、てかよ! それはそうと俺はアンタに聞きたいことが沢山あるんだ! 昨日から思ったんだがアンタは一体何者なんだ!? 変な炎の糸出したり、刀を持っていたり、とても耐えられないほどの運動量をものともしなかったり。それにアンタは昨日の化け物と関係があるのか!? なあ! 一体全体なんなんだよ!!」
そう、昨日から起こる超常現象の正体。
これを知らないまま事件を曖昧にしてしまったら、一生涯心の底でモヤモヤが残ると言って間違いないだろう。
そしてこの女。こいつは絶対にそれらの謎と関連があるはずだ。今ここで絶対に問いただす。
俺が放った質問の弾丸に、女は考えるように手を顎に当てながら俺をまじまじと見つめ返してきた。
無言のまま俺を眺めること約五秒、突如女がその場で立ち上がる。
「ふむ。私が予想していた通りの質問がやってきたな。勿論君が昨夜の件について知りたがっているのは分かっていたさ。ただ口だけで説明するにはちょびっとだけ面倒くさいから、少年は今から私について来てくれ」
そう勝手なことを言い放つと、ドアフックに掛けてあった黒いコートを颯爽と羽織りながらこの部屋を出ていく女に、俺は一瞬たじろぎながらも急いで起き上がる
光のない部屋を出るとそこには一本の通路が存在していた。
女はそのまま右に曲がったので、左に視線を向けながら右に曲がる。
左手には一つの部屋が存在していた。
窓もある普通の部屋であったが、物などが全く置いてない生活感皆無の部屋だ。
「アンタここで一人暮らししてんのか?」
俺はふとした疑問を女に投げた。
「そうだよ。私はここに一人で暮らしている。訪れる人も数少なく、この家に人が入ったのは少年で二年ぶりだろうか」
「へぇ、アンタも俺と同じ——『ぼっち』なんだな」
「………まあそういうことになるね」
自分と同じような境遇の人間を久しぶりに見て、俺はどこか嬉しくなる。
そういえば、思い返してみると先ほどから俺はこの女と普通に会話を行うことが出来ていた。
女だからテンションが上がっていたというのも要因の一つかもしれないが、どこかぼっち同士で通じ合うものがあったのかのかもしれない。
それにしても人と普段会話しない俺から言わせてみれば上出来だ。
それにこの女は初対面。
美女でも綺麗すぎたらぼっちになるのかなぁ……。
俺はぼっちを見つけた嬉しさでややテンションが上がったまま女の後ろをついて行くとすぐそこには玄関があった。
俺が履いていたボロボロの靴と女の物らしき潔白のシューズが横一列に綺麗に並べられている。
どこからどう見ても普通の玄関の光景であったが、俺はこの光景にどこか違和感を覚えた。
「うーん……まあいいや」
どこに違和感を感じるかと数秒考えてみたが、結局よく分からずめんどくさくなってきたので俺は考えるのをやめる。
そんな俺をよそに女は玄関右側の棚の上に置いてある何かを手に取った。
ちっらと映る刃物のようなもの。だが玄関に刃物が置いてあるわけないのでどうせ銀色の靴磨きだろうと考えながら靴を履こうとした時だった——、
——ドスッ
それは刹那のことで、俺も気がついて意識がそれに向くのに二秒もかかってしまう。
ただ気づいたそのとき、女の手に握られたナイフが俺の腹に突き刺されていた。
「ごふっ……がはっ」
女が強くナイフを抜いた途端口からはおぞましい量の血が噴き出す。
突然のことで状況を把握出来ていない中、俺の体を襲ったのは激しい痛みであった。
「アアァァァァァァァ!! アアァァァァァァァァ!!!」
臓物を手で握られているような言葉にならない痛みが身体中を駆け巡る。
頭から下全てが痛み、血が止まらない腹を手で抑えながら、俺は踠き、苦しんだ。
全身の細胞が悲鳴を上げているのがよく分かる。
灼熱の業火で炙られているみたいに全身が熱くなった——。
*
どれほど苦しんでいたかは分からない。
ただ今は段々と体から痛みが引き始め、麻酔を掛けられたかのように瞼も自然と閉じていく。
俺の意識が半ば朦朧としている中、自分の死が近いということだけを悟った。
「お、れは……し……ぬ」
体から力が抜けて行く感じ、生気がどんどん放出されていく。
瞼も異常に重い。
人が死ぬときはこんな感じなんだな……。これは本当に天国に行けそうだ。
「俺もついに天使と会えるのかぁ……」
「残念だが天使には会わせてあげられなない。——だが、悪魔にならこれから沢山会わせてあげるよ。さあ起きろ、少年————」
遠くから声が聞こえたその瞬間、俺の脳内に電流が駆け巡る。
反射的に体は起き上がり、朦朧としていた意識が地獄の底から蘇った。
玄関の扉からさす夕暮れの眩い光をもろともしないほどに瞼も全開する。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
悪夢から目覚めたときのように呼吸が乱れ、身体中からこれでもかと汗が湧いて止まらない。
まだ痛みが余韻として響いている中、俺は声のした方に顔を向けた。
「はぁ、はぁ、なんの……つもりだ」
俺は殺意の孕んだ視線を女に突き当て、恐怖で体を震わせる。
俺はあのとき死ぬ寸前だった。
意識が朦朧としていたのも直前だからよくわかる。
——だが今はどうだ。
意識も鮮明とし、女の姿と周りの光景がはっきりとわかる。
体温も正常だ。これは死ぬ寸前の人間の状態ではない。
生きている人間、すなわち当たり前の状態の中に俺はいるんだ。
だが何故、さっき腹を刺されたはずなのにッ————!!
完全に矛盾している自身の状況に困惑している中、女の口がゆっくりと開いた。
「ふむ。理性はしっかり保っているようだ。昨日の事件を受けて少しは成長しているみたいだな。まあこのぐらい耐えきれなければこの先の戦いについて来られないのは確実だからな。とりあえず第一関門は突破だ。おめでとう、少年」
わけのわからない独り言を女は続ける。
「ちなみに今少年は『ナイフで刺されたはずなのになんで』と思っているだろう。それは自分の腹を見てみたら分かるよ」
俺は怖かった。
今こいつは俺の腹を刺した。なのに何故か平然とした態度で俺に接している。
本来ならばここは怒り狂う場面なのだろう。
だが俺は込み上げる怒りよりも、この女に対する恐怖心で頭が埋め尽くされていたのだ。
それになによりも怖かったのは————、
「あれ[#「あれ」に傍点]……。傷が……腹の傷が……なくなっている?」
裏返った声を出してしまうほど、俺は震えた。
震えるしかなかった。
女に言われるがまま自分の腹を確認したら、腹の傷が存在していなかったからだ。
上着を捲っていくら探しても傷ひとつ見当たらない。
触れても叩いても、何も痛くはない。
——ただ、
傷がないだけだったら『今のは夢だった』で終われた。 ——終わらせられた。
しかしこれは夢でなく紛れもない現実だと見せつけられたのだ。
「服に裂け目が入っている。それもナイフ一本ほどの」
「そうさ。これは夢ではない。——現実だ! それもどうしようもない現実」
女は喋りながら俺に顔を近づける。
そして鼻と鼻が触れ合いそうなほどの距離で最後に一言、こう言い放ったんだ。
「いいか少年。私が今ここで君に言えることはただ一つ、————君はもう、人間では無くなってしまったのだよ」