第5話 π
「先日深夜、西武池袋線内において四人の死体が発見されました。死体の状況はとても酷く、車内も血だらけだったとのことです。警察のコメントによると——」
視界に映る三十インチ程の黒縁小型テレビと、そこから流れるニュース番組。
真っ暗な七畳程の部屋で眩しすぎるほど発光するテレビにリモコンを向け、颯爽とスイッチを押してテレビの電源を切った。
テレビの生命線が断たれたことによって部屋には静けさという灯火が灯り、窓の存在しない部屋は宇宙の如く暗闇に覆われる。
俺は腕を頭の後ろに組んでそのまま背後に倒れると、天井を仰ぎながら眉間を寄せた。
「うーん、困った。どのくらい困ったかと言うと、公園のトイレの個室に入って用を足していざ拭こうかと思ったらトイレットペーパーが無かったときぐらい困った……」
誰しもが一度は経験したことがあるだろう公園のトイレットペーパーあるあるを例えに出して事態の深刻性を再確認する。
側から見たら深刻じゃなさそうな例えだが、経験したことのある俺にとっては先日の事件と同じぐらいには深刻なのである。
テレビを見た限りまだ犯人は見つかっていないらしい。それもそうだろう。
何故なら犯人は既に死亡したからだ。それに加え車両に乗っていたのは今のところ死亡した四人となっているらしい。
ここで不可解な点を挙げるとすると何故死体の数が五人ではないのかということだ。
実質四人を殺した化物も謎の女に首を落とされ殺された。だが報道によると見つかった死体は四人らしい。本来なら死体の数は五体であるべきだが…… まあ深くは考えないでおこう。
そ、し、て、だ! ここが一番大事なポイントなのだが、今のところ車両に乗っていたのは死んだ四人だけとなっている。
しかし警察の調べによると四人以外の唾液が採取されたとニュースキャスターは言っていた。
なんとそのせいでその唾液は犯人のものの可能性が高いとか警察が言っているらしく、現在犯人は逃走中の可能性があるとなっている。
困った。非常に困った。何故こんなに困っているかというと……その唾液は俺のものだからである
間違いない。あのときのゲロだ。
絶対にあのゲロから唾液が採取されたに違いない。
もう勘弁してくれ!
大体俺は殺人なんかやってねえぞ!
もしこれで見つかって犯人扱いされたら、俺は社会のゴミとしてこの先何十年と牢獄に……っていや、死刑判決は免れないか。
俺は自分の正体がバレてしまったときのその後を想像しながら、冷や汗を垂らして身震いしていた。
*
おっと、自己紹介が遅れてしまったが俺の名前は雨井楓。十七歳の高校二年生。
ちなみに言っておくと童貞である。
生年月日は2002年5月18日のおうし座で、血液型は純粋なるA型。
好きな食べ物は寿司に肉に…… って沢山ある。まあetc……って感じだ。
嫌いな食べ物はダントツで野菜。反ヴィーガンってわけじゃないが、野菜だけはどうも口に合わないみたいなんだ。
あと虫も苦手。
特に飛んで来る奴は視界に映らないで欲しいぐらいに嫌っている。
他に紹介することは沢山あるけれども、これ以上紹介するとキリがないので一旦ここら辺にしとこう。
そして話は過去に戻るのだが、昨日である12月24四日クリスマスイブに電車に乗っていたらばったり化け物と出会ってしまった俺。
その後思い出したくもない出来ごとがあーだこーだあって、とある人物に化け物から助けてもらいなんとか生き延びて今に至るって感じだ。
さっきテレビの画面を見たら日付のところに12月25日16時47分と表記されていたのだが、つまるところ俺が記憶を失っている間に一日が過ぎたらしい。
なんで記憶を失ってたかって?
実は俺も何故記憶を失っていたのかはよくわからないが、とにかく記憶を失っているという記憶だけがあるんだ。
で、だ。
俺は今とある部屋の一室で仰向けになって寝転んでいる。
窓がなくジメジメとした暗い場所。
それに加えて一回も訪れたことのない謎に包まれた部屋なのだが、特に緊張感や恐怖感などは無く、むしろ俺の性格に適応していていて落ち着きのある居心地の良い部屋となっている。
取り敢えずルームツアーはここら辺にしとこう。
まあこのように長ったらしく色々と説明してきたわけなのだが、つまるとこ俺が言いたいのはただ一つ——。
「ここどこおぉぉぉぉぉぉ!!」
いやここどこよ!
確かあの女の人に助けてもらって、その後電車から飛び降りて、そしたら空へ向かってスパーリングされてそこから……ああ! なにも思い出せない!!
俺は曖昧な記憶を辿って昨日の出来事を思い出そうとするも、相変わらずハッキリと思い出せないでいた。
とにかく記憶を失っていた俺には過去の俺を知る術を持っていなかったのだ。
「ただ唯一ハッキリしていることは、——俺が今もこうして生きているということ」
そう、俺は今生きている。あの地獄のような世界から生きて帰ってきたのだ。
ここがどこかなって正直どうでも良い。
こうして生きているということだけを強く噛み締めればそれで良い。
天井を眺めたまま右手の拳を強く握りしめていると、遠くの方からペチャペチャと何かの足音が聞こえてくる。
徐々にこちらに向かって近づいて来る足音に気づいた俺は、起き上がって警戒態勢をとろうとしたときであった。
「ここは私の家だよ。——少年」
この部屋のドアの開く音がした途端、なんと頭上に顔を覗かせながら現れたのは一人の女であった。
暗くてよく見えないがどこか既視感のある見た目と聞き覚えのある声。
髪が濡れているのかポタポタと水滴が頬に垂れ落ちる中、俺はそんな女を見上げつい言葉が出てしまう。
「あれ、なんか二つの球体が見える」
俺はじっくりと目を細めながら覗き込む女の上半身を凝視し始めた。
殆ど真っ暗でありながら、唯一ドア越しから差す光によって微かに映る肌色の二つの球体。
上から垂れ落ちそうな巨大なボールを、俺は幾度も画面越しに見たことがあった。
「それになんか突起物もあるくね?」
更に凝視するとなんと小さな突起物が両方の球体のど真ん中にくっついているではないか。
突起物を視認した俺の疑問は遂に核心へと変化を遂げる。
——πだ。これは紛れもない…… πだ!
「それはそうだろう。何故なら私は今——裸なのだから」
「電気はどこだ!! 電気を探せぇぇ!!!」
女の声を聞いた途端、俺の本能はこの部屋の電気を今すぐつけろと訴えて来る。
そして煩悩に塗れた本能に従うまま、飛び起きて部屋の電気を探し始めようとしたときだった、体を起こした瞬間頭に鈍い音と強烈な痛みが迸る。
「はにゃあ……」
何かに叩かれたのか、視界はグラつき始め意識も段々遠のいていく。
今の衝撃でせっかくの女の胸を見る機会が失われる喪失感に浸りながら、瞬く間に俺の視界は薄暗くなる。
「——少年のえっち」
全く恥じらいのない、むしろ嬉しそうにも感じられたお言葉を噛み締めながら、俺は再び意識を失うのであった。