第4話 飛翔
刀が振られてから数秒が経過した。
刀の風を斬る音を最後に、静寂が世界を包む。闇の世界に誘われていた俺は恐る恐る目を開けると、光と共に見覚えのある人物が姿を現した。
「やあ、ようこそ地獄へ」
そう言いながら笑う女を見て、俺は一気に現実世界へと引き戻される。
周りを見渡すと血だらけの屍が床に倒れている。
全てが見覚えのある光景に一瞬思考停止してしまった。
「あれ…… 死んでない」
「死んでない? 一体君は何を言っているんだい? 何もし
てないのに君が突然死ぬわけないだろ? それとも何か? まさか私が君を殺したとでも言うのかい?」
またまた聞き覚えのある口調に、俺はますますここが現実だと思い知らされた。
だが女の声のトーンが先程よりも明らかに高くなっている。
結局よくわからないまま俺の頭はこんがらがった。
「えっ、でもさっき刀を振って俺の首を刎ねようと……」
「おいおい、根も歯も無いことを言うのはやめてくれよ。私はただ君の首元に飛んでいたハエを殺しただけだ。さっきから鬱陶しかったからね」
俺は彼女の言葉を聞いてすぐさま真下を向いて凝視すると、確かに右靴の真横に真っ二つに斬られたハエの死体が落ちていたのである。
「ほ、ほんとだ。ハエが死んでいる……」
「ほんと感謝してほしいものだね。ただハエを切っただけなのに殺人鬼扱いされるなんて、私はとても残念に思うよ」
「ご、ごめんなさい……」
俺は咄嗟のことで謝ったが、まだ頭の整理が追いついていなかった。
つまり女は俺の首元を飛んでいたハエを斬るだけのために、わざわざ刀を振るなんていう紛らわしい行為に及んだということである。
「鬱陶しかった」などと言っていたが、正直俺はハエの存在にも気づいてはいなかった。気づく余裕がなかった。
本当に紛らわしものであったが、まあ生きているだけで良しとするか。
取り敢えず安心した俺はホッと胸を撫で下ろし、頭の整理も完了したときであった——。
「まもなく〜 池袋〜 まもなく〜 池袋〜 終点です。お荷物などのお忘れ物なさいませんようご注意下さい。本日のご乗車誠にありがとうございました。また次のご乗車を心よりお待ちしております」
車内に流れ出したのは、もうすぐ終点の池袋に着くという車掌の案内。
そしてこの場から早く逃げ出せという俺達に対する警告でもあった。
「ヤバい! 早くこの場から撤退しないと!!」
「でもどうやって撤退するんだい? 別の車両に移動したところで他の乗客がいればすぐにでも異変に気づくだろうし、たとえ居なかったとしてもこの血だらけの姿じゃ電車を降りた際に目立ってしまうよ」
「そしたら無理にでも逃げるしかないでしょ!」
「ん〜 無理にでも逃げたらかえって目立つし、もしその後
捕まってしまったらより罪が重くなってしまうと私は思うんだけどねえ。ま、逃げるもなにも捕まったらどっちにしろ死刑確定かな。ハッハッハッ」
そう言いながら笑って、焦りを募らせる俺に追い討ちをかける彼女にまたまた痺れを切らしてしまう。
「じゃあどうすればいいんだよ! このまま大人しく捕まれって言うのか!?」
いつしか敬語もタメ口に変わり、態度も荒々しくなっている俺とは対照的に、清々しく腕を組みながら立ち尽くしている彼女は微笑みを見せる。
「別にそんなことは言っていない。私も逃げるしか方法が無いと思っているよ」
「は? さっきと言っていることが矛盾しているじゃないか!!」
「いやいや。私の思いついた方法は逃げると言っても駅に着いてからではなく——今この電車から逃げる方法だ」
「ほえ?」
俺は彼女の口から飛び出た言葉に動転し、間抜けな声を出してしまう。
しかし間抜けヅラを晒した俺の反応がおかしくないと言いきれるほど、彼女の言った言葉は非現実的であったのだ。
「別にそんなおかしな話でもないだろ? ただ私の割った窓から逃げればいいだけの簡単な話だ」
「え、え、動く電車から逃げるのは簡単なのか? いや絶対簡単じゃないよな。時速何キロでこの電車が走ってると思うんだ? この速さで動く電車から飛び降りれば慣性の法則で地面に叩き潰されるのは間違いない」
俺は窓の外を眺めながら女の言った無茶苦茶な方法について頭をこんがらせていた。
今は暗くて外の景色がよく見えないがこの電車がまだ減速をせずに通常速度で走っていることはよく分かる。
だから今飛び降りた場合、俺達は電車の速度と同じ速さで運動してしまい、それに重力が加わることで地面に向けて時速約七十キロメートルの速さでぶつかりに行くのと同然のことが起こるのだ。
頭の中で起こってしまう危険な未来を想像して怯えていたとき、突然右腕が掴まれ引っ張られる。
「うわぁ!?」
突発的な現象に驚きの声を漏らした俺が顔を上げると、屈託のない笑顔で俺を見つめる女がそこにいた。
「考えても何も起こらないよ。行動あるのみだ! さあ、一緒に羽ばたこう!!」
女は俺の腕を凄まじい遠心力で引っ張り始めると、割れた窓の縁に足を引っ掛け、そして羽を広げた鳥のように勢いよく外へ飛び立つ。
「イヤダァァァァァァア!!!」
溢れる涙を漏らしながら俺は彼女と共に空へと飛んだ。まるで宇宙にいるかのように体は宙へ浮く。
下に顔を向けると、夜の世界でもくっきりとわかるほどの高さを舞っているのがよくわかった。
だがそれと同時に今まで体感したことの無い運動量が俺に襲いかかる。
普通なら潰れてもおかしくないが、腕を掴まれているおかげでなんとか耐え凌いでいた。
「おぉ」
空を飛ぶという初体験に僅かながらも感動を抱く俺。
よくやってみたら意外に怖くないと言われているが、案外その通りらしい。
小さな余韻に浸っていたそのとき、急に女が俺の方を振り向き、笑顔になったかと思うとなんと腕を振り解いて、月の方向に向かって俺を吹っ飛ばしたのだ。
「へ?」
「バイバイ〜」
笑って手を振らながら地面へと落ちる女と、流れるように空高くへと移動する俺。
こうして比較するとどっちもどっちだが、今の俺はそんな客観的に見れる状況にいない。
女は仰向けの体勢を空中で直立に整えると、自然なままに落下していき、なんと膝を曲げながら両足で地面に着地したのだ。
普通なら骨折確定演出がおこるはずだが、女はなんともなさそうな様子で両手を振りながら俺を見上げる。
俺はそれを上から見下ろして、改めて女の異常さを実感したと共に、自分の置かれている状況もハッキリと実感出来た。
——やばい。ただその一言に尽きる。
ここ数十分で身の回りにやばい事が起こりすぎている。寿命が幾らあっても足りないとはまさにこのことだ。
ヤバすぎてヤバい、とにかくヤバイ。何がヤバいって今この瞬間がやば………かった。
空に向かっていたはずの体は遂にビル三階ほどの高さまで上昇すると、運動を止め一秒間宙でピタリと止まり、そのまま自然の摂理に則ったまま——落下し始める。
うつ伏せの状態で視線が地面を離さない中、俺はパニックに陥っていまっていた。
何も考える事が出来ないのだ。
ただ自分と地面の距離がとてつもない速さで接近していくのを感じながら、何も出来ないでいる。
体勢を整える事も出来ず、頭を働かせる事も出来ず、ただただ地面との落下を待つのみである。
真下で女が呑気に手を振っていたが、直後に視界がぼやける。
俺は既に半分意識を失っていた。頭の中がぐらつく中、地面と落下するまでの秒数を数えていた。
後四秒——。
後三秒——。
後二秒——。
後一秒——。
後——
俺の体は地面と激しく衝突…… する寸前で、なにかに包み込まれた。
まるで誰かの腕に包まれていたかのように体がポカポカしていてとても軽かったのだ。
そんな曖昧な記憶の中、最後にこんな声が聞こえてきた気がする……。
「まだ君を死なせる訳にはいかないからね。安心してゆっくり眠ってくれ」