ガリバーパイセン、マジかっけー!
・・・疲れた。
・・・ひっじょーに、疲れた。
・・・何なんだ、あの爺は。
俺は郊外の公園でふさふさと生い茂る、緑色に輝く芝生の上に・・・腰を下ろした。
営業職に就いて十年、俺はやけに好調だった。
もって生まれた恵比須顔が、誰もの緊張感ってやつを払拭してくれる。
大概のやつは、パンフレットぐらいなら受け取ってくれる。
・・・はっきり言って、激しい拒絶・明確な拒否・明らかな悪意ってのに慣れてない。
・・・慣れていなかったんだ、昨日までは。
・・・そう、俺は、たった今、慣れない境遇ってやつに遭遇してきた。
慣れていないどころか、初の体験だ。
齢35にして初体験だ、喪失だ、大事件だ。
俺は、今日の出来事で、今まで生きてきた自分の幸運を知った。
同僚が、泣き言を垂れながら上司に叱責されているのを、気の毒だなあと見ていた自分。
後輩が、硬い表情で自分には無理ですと辞表を出すのを、ただ流し見ていた自分。
先輩が、責任を取るということは理不尽だと意見を言う自由もないって事さと笑ってこの営業二課を出て行ったのを、見送った自分。
・・・俺はただ、恵まれていただけだったんだ。
朝一でたまたま声をかけた爺に、とっ捕まっちまった俺は。
玄関先でパンフレットを出して、自社製品を説明しただけだった。
玄関先で爺と話をしただけだった。
・・・玄関先に入ってしまったことが、間違いだったのだ。
他愛も無い話から、専門的な話。
つまらない話から、面白い話。
・・・自社製品をお勧めするには、友好関係を構築してから。
俺は、警戒心を抱かせない容姿と、豊富な話題、広い心と、ユーモアあふれる返しに・・・自信を持っていた。
自信なんて、持っちゃいけなかったんだ。
最初は和気藹々と会話をしていたのだが、哲学を語り始めた爺に・・・捕まった。
俺の知識ならば、付いて行けると思っていたんだ。
俺のユーモアならば、受け入れてくれると思っていたんだ。
俺の広い心があれば、爺を受け入れる場所はあると思っていたんだ。
爺の持論は、俺にはない専門的な知識を駆使した学術だった。
爺の勤勉さは、俺のユーモアを理解しなかった。
爺の怒りは、俺の広い心から余裕という隙間すら侵略し、逃げることを許さなかった。
やけにセキュリティのしっかりした、一戸建て住宅に住む爺は、俺を捕縛したのだ。
・・・逃げ出すことのできない時間が過ぎていった。
いつもならば、かばんの中のパンフレットがすべて無くなり、補充のために営業部窓口に向かっている時間を過ぎた。
・・・逃げ出すことのできない時間が過ぎていった。
いつもならば、かばんの中のパンフレットがすべて無くなり、明日はどの地域にいこうかなと、デスクで策を練る時間を過ぎた。
爺に捕縛され、成す術がなかった俺は。
・・・一人の奥さんに救われたのだ。
「先生、お茶に行く約束は?」
「おお、失敬失敬!」
爺は、俺など最初からいなかったかのように、奥さんと並んで歩き始めた。
・・・俺は、ようやく、解放されたのだ。
長時間の捕縛は、心身ともにダメージを、残した。
・・・足が棒のようだ。
・・・体が硬直している。
・・・こぶしを握る力が出ない。
・・・頭がぼんやりする。
・・・何も、考えられない。
俺は、芝生の上に・・・重たい体を伸ばした。
時刻は、二時半。
飯を食う気に、なれない。
この悪意と薀蓄と追求と叱責と一方的な怒りと嫌悪と疲労感でパンパンになったこの体に・・・飯が入る空間は存在しない。
空っぽであるはずの胃袋の中さえ、後悔の念でいっぱいだ。
いっそ吐き捨ててしまいたいほどに、胃袋の辺りが・・・重い。
せめて、空気ぐらいは吐くかと、深い深呼吸をして。
・・・俺は、目を、閉じた。
・・・。
・・・。
・・・?
・・・!!!!!
体中に、おぞましさを感じて目を開ける。
目に映ったのは、黒い・・・影?!
「うっ…わっ!!!」
思わず上半身を起こすと、俺の体は!!!
「ひっ!!うわアアアアあ!!アリッ!!アリィいいいいいい!!!!」
俺の体を、蟻が這いずり回っている!!
俺の体に、蟻がわんさかと集っている!!!
俺の体が、蟻でアリでありでええええ!!!!
体中をパンパンと叩いて、蟻を落とす。
頭の中も、スーツの中も、靴下の中も・・・蟻は遠慮せずに進入している。
「くっ!!こんなちっさい蟻の癖に!!俺に集るとはっ!!」
寝入った隙に、俺を征服しようとでもしたのか。
・・・こんな小さい存在で、この俺を。
体中をただただパンパンと叩きながら、俺はガリバーの物語を思い出した。
ガリバーは小さな人間達に捕縛されて、いいように使われて、結局広い海へと逃げ出した。
・・・確か、そんな話だったはずだ。
ガリバーも、こんな感じで、集られたのだろうか。
明らかにひ弱な力のない存在に、数で圧倒され捕縛され・・・負けてしまった。
・・・知識の量の違いを見せ付けられて撃沈した俺は、蟻の個体数の多さにも撃沈するというのか。
・・・罵倒する言葉の豊富さに圧倒され沈黙するしかなかった俺は、蟻の固体のでかさに怯まない姿勢にも撃沈するというのか。
・・・いやいやいやいや!!
蟻はいくらなんでも、振り払えるだろう!!
俺は、弱気になりすぎている!!
ぱん!!ぱん!!
全身くまなく、叩いて叩いて叩いて叩いて!!!
憎い蟻を、この身から叩き落す。
・・・ガリバーは、もっと大変だったんだぞ。
小さい人間に、体中這いずりまわれて、捕縛までされたんだ。
比喩じゃない、本格的にロープで捕縛されたんだ、レベルが違う。
俺は捕縛すらされておらず、ただ体中を這われただけで、このざまだ。
俺は、捕縛すらされていないのに。
・・・この、ざまだ。
自分より小さな存在に捕縛されてなお、小さな存在を踏み潰さなかったガリバー。
俺は、じたばたしている間に、何匹も蟻を踏み潰しているというのに。
俺など、ただ体表を這われただけだというのに、こんなにも蟻を嫌悪し、振り払い、怒りをあらわにし、みっともなくうろたえている。
「ガリバーパイセン、マジかっけーな・・・。」
俺は、まだ、ガリバーの足元にも・・・及ばない。
小さな存在に集られた、偉大なる先輩に・・・マジリスペクト。
あらかた蟻を叩き落とした俺は、パンフレットがたくさん詰まったかばんを持ち、前を向いた。
・・・多少髪形が乱れているが、今日は風が強いからな、何とかなるだろう。
腹の辺りに、蟻が一匹しがみ付いているのを見つけた俺は、パンとそれを叩き落とした。
衝撃を受けた俺の腹は、ぐうと鳴って・・・空腹を訴えたのだった。