世界の明かり
たまの連休で田舎に旅行へいくと、夜の深さが都会とは全く違かったのが怖かった。
子供だったから夜に一人で出歩くということはもちろんなかったけれど、街灯らしい街灯もなく、照らすのは車のライトだけ。コンビニは24h営業ではなく、深夜に到着したときには一切の光らしい光を見ることができなかった。
都会で過ごしていると、夜がこんなにも暗いということをつい忘れてしまう。それに、多少の人気のなさはあるにせよ、田舎の人気のなさとは比べるまでもない。
さらに空気が澄んでいるのが余計に孤独感を煽った。夜が深く、闇が深く、にもかかわらず空気は澄んでいて、どこまでも果てしなくそれが続く感覚。
夜になれば電気を消して、暗闇の中でないとうまく眠ることができないのに、どうして起きているときの暗闇をこんなにも恐れるのだろう。
ただ、そんな真っ暗闇の世界だからこそ、空を見上げれば燦燦と星が輝いている。僕は視力が決していい方ではなかったけれど、空気の澄んでいる田舎の空は実によく見えた。星の名前は一つも知らなかったけれど、空を見上げれば怖さを忘れることができた。
初めて就職した先の研修が終わると地方に転勤するということだったので、今はちょうど荷造りをしている最中だった。普段あまり開けることのない物置を開けると、まるっきり使った様子のない天体望遠鏡がほこりをかぶっている。そういえば、一時期星が見たくてたまらなくなったときがあり、親にねだって買ってもらったことを思い出した。
買ってもらったその日に天体望遠鏡を覗いたきりだったので、僕のなかでの星見のブームは一瞬にして過ぎ去ってしまい、今に至るまですっかり存在を忘れていた。
なんだか妙に懐かしくなった僕は、なにを思ったのかその天体望遠鏡を転勤先へもっていくことに決めた。これといった趣味もなかったので、転勤先の夜空を覗いてみるのも悪くないと思ったからだ。
初めての一人暮らしが不安だったのかもしれない。ほこりまみれの天体望遠鏡が、夜の深い空をくっきりと見せてくれて、怖さや不安もどこかへいってくれることを期待したのかもしれない。そんなことが頭に浮かぶと、案外ロマンチストなんだな、とひとりごちた。
そんな不安があった一人暮らしも、実際に過ごしてみるとほとんど何も変わらなかった――ひたすらに家事が面倒だということを除いては。
最初の一か月は一日の速さになれるのに必死だったから、いつかと同じようにすっかり天体望遠鏡は部屋の肥やしになっていた。ただ、物置には入れてなかったので、いつも視界には入っていたから、計画を忘れることはなかった。
平日の使い方もうまくなってくると、休日にしわ寄せがいくことも少なくなって、とうとう計画に移す時がやってきた。
東京とは違い街灯の灯りもほとんどないような場所では、明るくない場所を探してどこかへ行く、というようなこともしないでよかったし、幸いにも近くに広場のような場所があったので、そこに向かうことにした。
天体望遠鏡をかついで広場まで歩いていく。相変わらず外は闇という表現がピタリと合うほどで、大人になった今でも怖かった。
なにごともなく広場にたどり着き、天体望遠鏡を準備する。スマホの光でもなんとかなると思っていたけれど、素直に懐中電灯を持ってくればよかったと後悔した。どうにか組み立て終わると、それだけで一仕事やり切ったような達成感を感じたが、ここからが本番だ。
田舎の空は、僕が子供だったころと比べても汚くなったというけれど、ほとんど都会の空しか知らなかった僕にとっては、思い出の空とそれほど大差ないように感じられた。
僕はこんなにも星が好きだったのだろうか。逸る気持ちを抑えながら、レンズに目を寄せた。
すると、どうだろう。肉眼で見るよりも遥かにはっきりとした空は、僕の期待を満たすものではなかった。
やり方がまずかったのだろうか。それとも、道具が悪いのだろうか。もう十数年も前のものだから、いいということはないだろう。けれど、たとえそうだとしても、こうも期待外れという表現がぴったりだということにはならないのではないか。
あぁそうか、期待外れということは、僕は期待しすぎていたんだ。ため息をついて顔を外し、先ほどまでとは解像度の違う空を見上げる。
空気は澄んでいて、視界の端から端まで全部が星の、海というにふさわしい景色が広がる。幸いなことに、僕はこの景色を好きだと思えた。
シートもなにも持ってきていなかったけれど、その場に寝転んで夜空を見上げる。眺めていると、ふと昔のことを思い出した。
天体望遠鏡をねだって買ってもらって初めて見た空は、そのときも今と同じようにがっかりしていたんだ。
あの時も、そして今も、僕が見ているはずの世界は、もっとキラキラしていたんだ。もちろん、ハッキリした空がキラキラしていないはずがない。ただ、そう伝えるしかなかった。
レンズを通してみる空の、はっきりした空のなにがそう思わせたのだろう。すっかり美味しいとも感じなくなった空気を肺の中にゆっくりと満たしていき、そして一気に吐き出す。
なんとなく、手を思いきり伸ばしてみた。そうしただけでその部分はすっかり遮られてしまって、小さい星は見えなくなる。けれど、完全に目を覆い隠しでもしない限り、遮られた以外の場所で星は輝いている。
そこでようやく気が付いた。僕がはっきりと見えた星空に惹かれなかったのは、夜空をはっきりと見たいわけじゃなかったんだと。
辺りには人気はなかったけれど、虫の鳴く声がした。きっと、そのあたりに野鳥もいれば、都会では見たことのないような野生の動物だっているはずだ。
太陽に比べれば、一番明るい月ですらほとんど灯りの役にすら立たないほどの小さな光だけれど、見上げればたちまちその明るさに気づく。そこまで見ようとしないでも、空だけは明るいのだ。
今では特別でなくなった空気を、もう一度肺一杯に満たすように呼吸した。もう、僕には違いが分からなかった。
すっかり満足した僕は、せっかく準備した天体望遠鏡を一度しか覗かずにそそくさとしまい、部屋に戻ることにした。
特別にする必要がなくていい。それが分かったから、この天体望遠鏡は捨てることにした。あっても肥やしにするだけで、少しだけもったいないけれど。
帰る道すがら、やはり暗闇は怖かった。かといっていつも空ばかりを見上げるわけにはいかない。ほんとは嫌いな虫の声も、このときばかりは頼もしく聞こえた。